道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 狭山・堀兼神社  ◆◆◆◆◆◆

堀兼神社前の舗装された道はみごとな直線の道です。この道は車の交通量が多く大型車も通るので歩いている人は気をつけてください。この辺りは所沢から入間川岸までの中間あたりで、水場に恵まれない地域です。堀兼神社の境内には武蔵野の歴史風物として有名な「堀兼の井戸」があります。そしてこの辺りには以前は堀兼の井戸と同型の井戸が幾つもあったそうです。堀兼の西隣は水野村といいます。「水の」という地名は藤原俊成の堀兼の井の歌の中に出ていることから安松金右衛門という人が名付けたといわれます。また逃水という地名もあります。水の乏しい地域であったことをうかがわせる地名です。

堀兼神社前の堀兼道

堀兼神社

堀兼の地は承応2年(1653)に牛久保金左右衛門という人によって開かれた新田ですが、地名はもっと古くからありました。堀兼神社は小高い塚状の上に建てられた浅間神社です。慶長3年(1598)に松平信綱により家臣の長谷川源左衛門に命じて建てさせたと伝えられています。神社の随身門と二神像は江戸時代後期のものと推定され狭山市の市指定文化財になっています。

堀兼神社

堀兼の井戸

堀兼の井戸は古きより武蔵野の風物詩として都にも名の知れた井戸です。古来より数々の歌人がこの井戸の歌を読んでいます。現在堀兼神社の境内にあるこの井戸が、歌に詠まれたその井戸であるというのが一般論となっていますが、しかしこの辺りには、以前より堀兼の井戸と呼ばれた井戸が幾つもあったそうです。堀兼神社境内のものが歌人に詠まれた堀兼の井戸であるという確しかな証拠と言えるものは残念ながら無いようです。江戸時代の宝永5年(1708)に川越城主秋元但馬守喬知が建てた堀兼井之蹟の碑があることから地名とともにここを堀兼井の旧跡と認めることになったといわれます。

堀兼井の説明版

堀兼の井戸は堀兼神社の北側にあり、周りは石柱で囲まれています。口径8メートル、深さ1.5メートルほどの井戸の底には、方3尺ほどの石の井桁が組まれていますが、残念ながら水は涸れています。このような形態の井戸を「まいまいず井戸」といい、古い時代のこの辺りの井戸は、ほとんどこのような形態であったようです。今では水は各家庭にある水道の蛇口をひねれば何時でも得られますが、昔は水は貴重なもので水争いといった言葉もあるくらいです。水の乏しいこの地の井戸は古への旅人にとっては命の頼み綱のオアシスであったのでしょう。

堀兼井の全景

●堀兼の井戸の歌を紹介します。

  • 武蔵野の堀兼の井もあるものを、うれしく水のちかずけにけり    藤原俊成
  • はるばると思ひこそやれ武蔵野の、ほりかねの井に野寺あるてふ   紀貫之
  • 浅からず思へばこそはほのめかせ、堀兼の井のつつましき身を    藤原俊頼
  • くみてしる人もありなん自ずから、堀兼の井の底のこころを     西行
  • いまはわれ浅き心をわすれみず、いつ堀兼の井筒なるらん      慈円
  • おもかげぞかたるに残る武蔵野や、堀兼の井に水はなけれど     道興准后

堀兼井

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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