道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆ 鳩山・今宿  ◆◆◆◆◆◆◆

左の写真は現在の県道玉川坂戸線が越辺川を渡る今川橋です。橋を境に南は毛呂山町、北は鳩山町になっています。橋の北側は鳩山町今宿といい、近世の宿場があったところです。写真の遠景の小高い山は「おしゃもじ山」といって現在は展望塔のある公園になっています。今宿は近世の宿ですので、鎌倉街道上道の宿ではありませんが、今宿の集落の東、赤沼には円正寺という寺があり、この寺には鎌倉時代から南北朝時代頃の板碑があります。鎌倉街道上道は現在の今宿集落の西方辺りで越辺川を渡河していたと思われますが、具体的な場所はどの辺りかはっきりしていません。越辺川の流れも鎌倉時代と現在とでは川道が変わっていると思われます。

毛呂山町と鳩山町の境になる越辺川の今川橋

今宿は越辺川沿いの河岸場があったところです。今宿の地名は川の対岸の毛呂山町苦林が、古い時代に宿があったので古宿と呼ばれていたのに対し、こちら側は近世の宿があることから今宿と呼ぶようになったそうです。『新編武蔵風土紀稿』には、「略、蓮佳して宿駅に似たれど、馬次の所にもあらず、少の河岸場ありて近郷の材木・薪等を爰にて筏とし、江戸へ出せるをもて土地賑へり」とあります。ここは上流から流れてきた越辺川が大きく東に湾曲する地点で、広い淵瀬となり、伐採した木材を筏に組んで流す場所でありました。また上流から流れてくる筏の休み場でもあったようで、組み替えも行われ、舟が出入りしたとあります。その為、料理屋や酒屋が立ち並び賑わうようになったそうです。川岸には水神塔が立ち往時の賑わいを偲ばせてくれます。

今川橋から今宿の町並み

越辺川は越生町黒山を水源とし、坂戸市上吉田で、高麗川と合流しています。水源の奥武蔵の山々は、杉・檜が生い茂り良材を産出するところとして古くから知られていました。伐採された木材は筏に組み、川へ流して江戸まで運ばれたといいます。入間川や高麗川筋から産出される木材は、江戸の西方の川から運ばれてくる木材ということから「西川材」と呼ばれるようになったそうです。下の写真は今川橋より西の川岸にある水神塔です。石灯籠のようなこの水神塔は水上安全を祈願して建てられた常夜灯で、以前は橋の東方に位置していたものを水害で土手が崩れた為に現在地に移されたといいます。刻銘には「水上安全 今宿川岸 明治九年十月建設」とあり川筋の筏問屋や筏関係者の名前が刻まれています。

鳩山町今宿の越辺川岸

赤沼円正寺

越辺川の今川橋から西を見ると奥武蔵の山々が見渡せます。東に目をやると最近綺麗な本堂に建て替えられた円正寺が川岸に眺められます。円正寺は曹洞宗で、東京都板橋区赤塚の松月院の末寺で、寛永年間に大震須高禅師の開山とありますが、これは曹洞宗になってからで、寺の創建は鎌倉時代に溯るといいます。寺の門から少し入ったところに五基の板碑があり、中央の大きな板碑には元亨4年(1324)の名が刻まれています。その他円正寺には応安4年(1371)の銅製雲板があり、また境内墓地には歴代の鎌倉、室町時代の五輪塔や宝篋印塔があります。

鳩山町今宿の円正寺

鎌倉街道を探索しているとよく板碑を見掛けます。板碑と一般的にいわれているこの石造物は、正しくは「板石塔婆」或いは「青石塔婆」というものです。詳しくは板碑のページをご覧ください。

鎌倉街道上道沿いの鳩山町今宿の西隣は、小用といい、そこは南北朝時代から鋳物の生産地として知られていたところです。円正寺の雲板も小用で作られたものだといわれます。また小用と西戸の境、越辺川の左岸台地上には小用廃寺があり、8世紀前半から国分寺創建頃までの寺と考えられているそうです。この付近にも古代の寺院跡があったことから、あらためて鎌倉街道上道と古代との繋がりを意識させられるものでした。

円正寺境内の板碑

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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