執筆裏話
「絶対音感」なんてないのだ、私には。

(第七話)「絶対音感」なんてないのだ、私には。

 「絶対音感」とは、楽器に頼らずとも音程がわかるということらしい。

 絶対音感のある人は、カラスの鳴き声(好きだな、私も)とか、ラーメン屋のチャルメラの音、パトカーの音などを聞いても階名が浮かぶそうだ。
 残念ながら、私にはそれがない。音叉を常に持ち歩いて訓練すれば培われるのだろうか。

 今、私は胡弓(こきゅう)という楽器を習っているが、これもヴァイオリンほどではないが、絶対音感が必要だ。胡弓の中でも、習っているのは二本の弦をもつ二胡(にこ)という種類だ。弦は二本。その間に弓が挟んである形になっているので、そそっかしい私でも弓を忘れるということがない。弦が切れない限り弓と胡弓は離れない格好なのだ。二本の弦をチューニングすればいいので弦楽器としては楽なほうだと思う。しかし、その二本の調弦を怠ると、とんでもない音になる。
 ちなみに、私はわりと練習熱心なほうで、毎日同じ曲を何十回も練習していたら、飼っているモルモットが脱毛症になってしまった。自分で体毛を引き抜いていた様子から、つまり私の胡弓の練習の騒音によりストレスが高まったのだろう。ごめんよ、モルモット。
 家族が同じ部屋にいる時にも、私はかまわず練習をする。
 先日も思い切り音をはずして自分でも悶絶した。あまりのひどさに、家族の罵倒が飛ぶのではないかと身構えるが意外にも静かだ。ふと振り返ると、娘がばったりと倒れて痙攣しているではないか。思わず蹴りを入れて留めをさすのだった。
 いつになったらウーロン茶のコマーシャルや中華料理屋のBGMみたいな美しい演奏ができるのであろうか。

 ところで私は昨年、何度も書き直した小説が全没になってすごく悲しい思いをした。
 なんとその隠しテーマが、「音を外すと死ぬ」というものだった。
 中世ヨーロッパを模した少女小説で、中世の学生が主人公という物語だ。
 ヴァイオリンはまだない時代なので、その前身の「フィドル」という楽器をモチーフにして事件が起こるのだが、音を外すと死ぬという殺人フィドルを書いて、それが全没。やはり設定に無理があったのかなあ、と今は思うのだが。 こんな設定を思いついたのには理由がある。私のトラウマとも言える。
 私は高校と短大時代に合唱部に所属していたのだが、高校2年に指揮者というスタッフになってから、音の狂いを聞き分けて注意しないと先輩や卒業した合唱部出身者たちからつるし上げをくうという恐ろしい体験をした。夏合宿にもOBたちはやってくる。
 彼らは緊張しまくっている現役の部員が練習している後ろをぐるりと取り囲んで見学している。
 で、シンコペーションのリズムが甘い、とかテナーが音が下がっているのになぜ直さないのだ、などと指導される。こわい。夏合宿の最中に自信喪失して人知れず泣く、というのは毎年見られる風景だ。そんなふうなトラウマが無理な設定の小説を産んだが、あえなく却下された。

 つい二ヶ月ほど前に完成した「わらべ唄」のCDについても、無伴奏合唱曲だったために、収録後の修正が難航した。伴奏から音を拾えないので、微妙に音程がずれる。だから切り貼りして修正しようとしても音程が合わないので、ほとんどライブのような仕上がりになったと思う。

 絶対音感は持ち合わせていないが、今日も私は胡弓を練習する。
 悶絶する家族とストレスのたまるモルモットを気遣いながら。
 こんな苦労を察してか、胡弓の先生は「胡弓のカラオケ」と称して奥さん演奏の胡弓練習用伴奏のカセットテープをくれた。音が拾えるのでとても調子が良い。

 そうだ、カラオケ殺人事件なんてどうかな。点数が出るという嫌みなカラオケに細工をして、音を外すとカラオケの機械が爆発するという……、あ、だめですか……やっぱり……。

                 (1998.8.10. QuickSandに掲載)