執筆裏話
暦と世紀末

(第八話)暦と世紀末

 暦はおもしろい。

 昨年10月に出た「すすり泣く写本」には暦について少し触れてあるが、私は暦とか写本に目がない。(というのは「マスカレードの長い夜」を読んだ人にはよくわかると思う)その時代の人々が自然の流れとどうかかわったか、どういう迷信を信じていたのか、どんなまじないをしていたか、などということが読みとれて、しかもたいてい鮮やかな挿し絵つきなので、中世の参考資料としても役に立つ。

 この頃世紀末を意識した本の刊行が増えてきた。ノストラダムスの大予言の関連のものも多いが、さすがに現代人はパニックを起こすほどは世紀末に振り回されていない。ところが中世はどうだったかというと、「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」に興味深い記述がある。これは17世紀フランスの名門貴族によって書かれたものだが、彼は、17世紀の自分のことよりまず、自分の家系が最初に教会の記録に現れた980年から書き起こしている。20世紀末の今の不景気などという生ぬるいものではなく、10世紀末のフランスは、ペスト、旱魃、飢饉、略奪の連続の上、大彗星の出現、日蝕あり月食ありだった。人間は滅びる、というデマが流れ、人々はヤケを起こして仕事を放りだし、群盗と化した。戦々恐々として迎えた1000年には、大きな災害はなにも起こらなかった。それでもすぐには人々の不安はぬぐい去ることができず、人々が心の平安を取り戻し、それぞれの仕事に戻って元の暮らしにかえるまで数年を必要としたという。1000年前の人々の世紀末をこれほど鮮やかに語ってくれて、ロシュフーコーさん、ありがとうねと言いたい。

 10世紀末関連で、もうひとつ。ベアトゥス黙示録という写本がある。10世紀後半、北スペインの修道士ベアトゥスが黙示録の終末のヴィジョンを記した。近年刊行されたのは、ファンクドゥスという写字生の手による写本である。力強い色彩の挿し絵は、ゴヤ、ミロ、ピカソなどに大きな影響を与えたといわれている。イスラームとキリスト教の激しい対立と、至福の千年の思想が反映されている。天使と悪魔が闘っている光景などは、赤、白、黒の鮮烈な色を基調にしていて、デザイン的にも見事だ。じっと見ていると、細やかな描写がおもしろく、訴求力の強さが感じられる。21世紀を目前にした現代人にも強く語りかけるものがある。至福の千年の思想が、正確な暦を求めようという動きにつながったので、これも暦と無関係とは思えないのである。奇しくもこの時期には、西暦とは無縁の仏教圏においても末法思想が流行ったという。

 歳時暦に話を戻そう。キリスト教世界では毎日が聖者の記念日だ。中世後期、うるう年の換算の関係で春分の日付がズレてきていることが懸念されていた。春分は復活祭の日付のもとになっているのでキリスト教において重要だったのだ。さかんに改暦が試みられた結果、16世紀末にグレゴリオ暦が制定された。それ以前のユリウス暦は○月×日というのではなく、3月の朔の日からさかのぼって何日目、などというあまりにも複雑なものだったため、聖者の記念日を併記した時祷書が各地で作られた。

 時祷書といえば、14世紀フランスの「ベリー侯の豪華時祷書」などは構成、飾り文字、絵、どれも目を見張る美しさだ。挿し絵のこまごまとしたディティールなんかもう、物書きにはたまらないおいしさだ。

 仏教・神道方面でももちろん興味深い暦がある。初詣に始まり2月の節分、3月の雛祭り、お水取りなど。4月の花祭りはキリスト教のクリスマスに匹敵する大イベントだが、なぜかこの日を大切な人とすごそうなどという習慣は見られないようだ。「お釈迦様の誕生日は僕と一緒に甘茶でも飲まないか、ハニー」なーんていう口説き文句は……聞かないな、やっぱり。斬新で良いと思うが。

 日常を克明に綴った文献というのは民俗学的にも貴重だ。その地域の文化や歴史を如実に反映している。今そこにある家計簿やシステム手帳も500年後には第一級史料になる可能性を秘めている。だから暦はおもしろい。

 さて、まもなくやってくる20世紀末を現代人はどう迎えるのか。その瞬間を見届ける世代に生まれたのはとってもラッキーだと思う。何か書き残さなきゃ、とは思うけど、ロシュフーコー氏みたいなすごいのは書けそうもないし……とりあえず文章修行して腕を磨くべきかな?          
(1999.1.15)