永瀬唯氏のNIFTYでの"神の手"事件関連発言

はじめに

神の手事件(旧石器遺跡広域大量捏造事件)の発覚を受け、電子ネットワーク上で膨大な意見交換が交わされてきました。インターネット上の掲示板で交わされた議論は万人に開かれていますが、会員限定のネットワークでの議論は、日本最大の Nifty でもわずか数百万人にしか読むことができません。しかし、Nifty 歴史フォーラムで交わされた発言には、この問題に関する社会の反応を知る上で貴重なものが多く含まれています。自分の発言は別途転載してありますが、関連発言まるごとの転載は著作権を侵すこととなります。さいわい、花關索/永瀬唯氏(森下一仁氏による解説)からも転載のご了承がいただけましたので、ここにHTML化してアップします。オリジナルの発言では他の参加者のハンドルも記されていますが、ここではイニシャルに改めたほか、誤字脱字の修正などの最低限の編集を加えてあります。事件そのものについての発言は15番会議室(考古学会議室)から、「ゴッド・ハンド」をめぐる発言は14番会議室(縄文会議室)からの転載です。
 強調はすべて永瀬氏によるものです。
 (原文では 強調部 という形式)
       ^^^

転載発言

08504 RE:Res《Re^2:旧石器ねつ造事件について》

00/11/08 11:03 08502へのコメント

 しかし、「個人の問題ではなく、ウソを見抜けなかった学界の問題」というのはちょっと違うかな、と思います。
 それだと「騙した方が悪いのではない。騙される方が悪いのだ。」ということになってしまいます。

 これには、あえて異論を提出させてください。

 「学界」は、ロイヤル・ソサエティー以前のはるけき大昔やら、在野の市民研究グループならともかく、国家(税金の提供元)や企業(寄付。税制の関係で日本ではちょっと)、国民(納税者)、市民(ボランティアを含む援護者)なしでは、もはや存在しえません。

 日本では、たとえば、大学の通常予算以外の研究費として、僕が知る世界では文部省の科研費が、官僚システムから支給されますが、こうしたお金は、国立公立の大学の給与まで含めた予算や、私学なら、やはり、大学そのものを対象とした援助金と同様、国民の税金を源としています。ま、学術振興会などでは、公営賭博のあがりを貸し付け形式でなんてのもありますけど。

 で、納税者が直接、また、自らが選んだ地方中央の議員と議会を通じて、その使い道をチェックするという機能は、残念ながら、日本ではろくに機能していません。

 しかし、学界を構成する研究者たちは、そうした、真の意味でのスポンサーに、自身の研究の意義を、プロフェッショナルなサイエンティストであると同時に、大衆啓蒙科学者(ポピュラー・サイエンティスト)として、説得する作業が、潜在的には義務づけられていると思います。

 20年近くの間、「騙された」研究者たちは、被害者であると同時に、その存在を支える、「騙された」国民・市民に対して、あえて、どこかで誰かが正反対の立場から使った言葉を援用すれば、「共犯者」として行動してきたのです。

 役人の方を向くことによってのみ、「研究」予算を確保できるような状況では、見えにくいことですが、それに溺れて、学界も被害者なんてのはちゃんちゃらおかしいですよ。

 信者として批判者を弾劾しつづけた、本当の意味での「共犯者」は論外として、大きな声で、正面から告発をするのでなく、敬して遠ざけ、「あれはちょっとね」、「あやしいんだけどさ」といったギョーカイの噂話で、自分はやばいことには関わらなかったと自己正当化している皆さん。

 それは「学界」というきわめて特異な狭い社会の中でしか通用しない論理です。

 それは、社会主義滅びてのち、組合滅びてのち、「市民」や「人民」を向いた科学という、それだけは決して捨て去ってはならない理想、科学の理想に対する裏切り、「会社」や「学校」の見すぎ世すぎでごまかしている、予算をくれるお役所や学界内政治にしか目が向けられない、卑しい論理の産物です。

 市民の、人民の科学、市民の歴史学、市民の考古学という理想は、いったい、どこに消え失せたのでしょう。

 貴重な研究のための予算取得が、このような事件によって阻害されることを憂う前に、そうした理想の消失によってこそ、このような事件がおきたことを考えていただきたいと思います。

08506 RE^2:Res《Re^2:旧石器ねつ造事件について

00/11/09 00:43 08504へのコメント

 補足します。

 学界の側のかたがたのもう一つの言い訳クリシェに、メディアによる「取材」のお粗末さがあります。

 しかし、それは、予算をくれる官僚(+一部企業)のみをむき、その浅薄さをなげいてクダまく、研究者コミュニティーの退廃と対をなす、鏡の向こうの「科学」と「人民」をめぐる双子のだめさかげんですよ。

 ノーベル賞をとられた化学の先生が自宅の前で取材を受ける姿がテレビで報道されました。一所懸命に、自説の解説を、1時間半もなさったとのことですが、そのご努力はほんの数瞬しかテレビには映されませんでした。

 確かに、一瞬をしか追わないテレビは駄目なメディアです。でも、あの有珠山噴火でみっともないパニック報道がなかったのは、まさに誠意をもって、徒労とも言えるほど繰り返し繰り返し、シロートだからと馬鹿にしないで正しく丁寧でわかりやすい解説を、予定の会見時間をはるかにこえて行っておられた北大の先生のおかげと聞いております。

 科学者コミュニティーは「人民による人民のための科学」の理想を忘れはて、マスコミの無知蒙昧を嘲笑し、その倣岸ぶりに怒って、自らの退廃を正当化し、

 マスコミは、人民の欲望はここにあるのだと、科学を伝えることは、科学にまつわる「事件」を作ることだと、ここでもまた、人民に真実を伝えるというジャーナリズムの理想を忘れ、

 そして、その人民は、みずからによる、またみずからの援助による研究の進展、自分たちが金を出している貴重な研究について知ろうともせずに、むつかしい理論じゃなくって、ただただびっくりしてみたいからと、消費社会の原理そのままに、そんな発見を教えてせがみ、こちらをむかずに偉そうにしているだけの科学に背をむけて、オカルトや「反権威」「反権力」的な異端の方に、しかも、「ムー」的な消費されるオカルトの消費者となる。彼らもまた、物質世界生命世界人間の歴史とか進化とかにおける進化の解明という理想、人民の側からの科学の理想を忘れ、娯楽としての擬似科学の道を選んでしまう……。

 そして、これら三つの退廃の中にそれぞれ住んでいるヒトたちは、この日本の退廃をもたらしたのは、決して自分たちではないと信じ込んでるわけですね。

 あのさ、公共の団体に属して、開発のための調査なんかやってて花形じゃない立場で、あのヒトのああゆうパフォーマンスみせられて、ありゃちょっとおかしいんじゃないのと酒のみながらグチこぼして、でも「サラリーマン」だからしょうがねえよな、って、科学少年たちにとって、考古学発掘現場に60年の70年の夢をもとめて足を運ぶシニア世代にとって、あなたたちは、「本当のことも言えないサラリーマン」であってもらいたくないし、もしも、そうなら、石器時代研究どころか、「考古学」なぞという、「真実を追求する科学」というご託宣で存在を許されている社会のオマケは文字通りの無駄飯食いであり、即刻、すべて、消えてなくなってしまえばいいじゃないですか。

 そんなことでは科学の進歩が……って、どうせ、日本の中期前期旧石器研究「学界」
なんて、あと20年は、まったく前の歴史がないとこからやりなおさなければならないんだから一緒じゃない。

 そおゆうお前はどうだって?

 まったく異なった分野で、文献だけど、ずっとずっと在野で、ずっとずっと貧乏で、でも、在野であることや反権威であることに意義なんざないという立場でやってきて、今は非常勤で二箇所の大学で教えてますよ。
 なにしろ、非常勤には図書費も確保されないし、官僚の横暴を憂いてみせる常勤のセンセーのなげきなんざ、ぼくらにとっちゃ金持ちのいやみなグチにすぎませんね。

 別に好き好んで貧乏な研究状況におちこむ必要はないでしょうけど、結婚や子供や家や土地やそのたの当たり前のなにかを捨てる覚悟さえあれば、「サラリーマン」続けてる必要なんてないんですからね。

 歴史学と考古学に関しては、アマチュアの活動も多少はのぞいてますが、確かに、最近は高齢者が、受けてとしての勉強をするだけといったものになっていますね。

 でも、少数とはいえ、プロの学界と同様の研究倫理、レフェリングを含めたチェック・システム(これが今回の学界にはなかった!)を行った上で、好事家の手遊びをこえた成果をあげた、あげようとしていたグループは存在していました。

 東日流外の虚妄性を最終的にになったのが、プロの学界ではなく、アマチュアのグループやそのメンバーたちの努力によるものだったことを、ぼくらは誇りに思います。あのときも、斯界の泰斗(の一部)がヨイショしたものだったのですが、今回の考古学界ほどではなかったと記憶しています。

08535 アマチュアは誰に向けて偽作したか?

00/11/12 03:33 08514へのコメント

 昨日の朝日新聞に歴史学者の網野善彦氏が書いていましたが、どんな学問でも偽造資料は出てくるもんなんだであって、歴史学でも偽造文献なんてざらにあるそうです。

 で、ここに告白しますが、実は、世の中のトンデモな現象を扱うクローズドな会議室で、ついつい、

 で、縄文時代の部屋や15番の「考古学の部屋」は、「日本の考古学は死んだ」とか、「いや、科学そのものの死」だとか悲憤慷慨の叫びでみちあふれているのですが、なんちゅうか、あまりにも見慣れたパターンとゆうか、これで考古学が死ぬなら、歴史学は何度死ななければならなかったのだろうかと、既視感でもって、あきれるばかりです。

 と書いてしまったのは、この私です(-_-)。

 しかし、網野さんがおっしゃるような、

で、それを検証するための資料批判の方法論がたくさんの資料の蓄積によって成立してくるもの

 というのには、本当かいなって気がします。
 現に、網野先生も、かの『東日流外三郡誌』騒動では、先生の自説にぴったりあった(あいすぎた)記述を含む、かの偽文書にぐらっときかけた時もあったのではないかと、前後の事情から邪推できたりもするのです。
 つまり、

それを検証するための資料批判の方法論

 を、網野先生は、ご自身のしぼりこんだ研究分野外にも確立されていたから、こりゃ駄目だと見限ることができたのであって、
 学界全体に、そうした方法論が確立されているとは、かの歴史学の分野においてもまったく言えないのではないかと思うからです。

 ただし、
 「学問」の「制度化」、とりわけ「身分的制度化」の進展によって、各「学界」内部の薫陶(ディシプリン)もまた細分化されるようになると、つまり、「蛸壺化」が進むと、
 「蛸壺」内での新しい理論や、新しい所見に対する検証は、排他的とも言えるほどに精緻なものになりえます。ところが、
 「蛸壺」内のローカル・ルールを熟知したものが、データを捏造した場合には、これを防ぐ手段はほとんどありません。
 以前に触れたのはこの場合です。

 ところが、これが「勝負」の「土俵」が広がると、事態はまったく変わってきます。

 既成の、つまり「体制的」な「学界/学会」があえて無視する「異説」が、 地方自治体、
 大衆向けメディア
 既成学界内の一部の学者の支援
 によって、もっと広い世界で、いわば「非科学的」な支持を受け、オルタナティヴな(もう一つの)「科学的真実」となってゆく。
 この「真実性」は、権威ある既成学界が、一部の、必ず出現する、相手を馬鹿にした放言的な否定をのぞき、同じ土俵には決して立たず、無視を続けることによって、かえって保証されることになる。

 というのが、現今の歴史学における偽造史料の典型的な流通の仕方なのですね。

 それから、上記のような蛸壺内捏造とは異なり、こうした「学界」外をまきこんだ捏造において、「信じてもらう」ためには、そうした「精緻さ」は必要ありません。

 どういう論理かというと、問題のクローズド会議室のぼく自身の発言を引用します。
 今回の事件への各位のコメントを紹介する中で、

で、プロの学者が信じてしまった理由の一つとして、
ってのがあるそうで、はてなはてなはてな、どっかで聞いたぞ、しかも何度も(^_^;)。

 そうなんです、「大衆」(ピープル)を主要な対象とする「大衆科学」(ポピュラー・サイエンス)/「大衆歴史学」における、あっちとこっちの境い目(フリンジ)をこえかけた議論においては、こうした論理は、あまりにもおなじみのものなのです。
 ここで特別なのは、「プロの学者が信じてしまった」ことではなく、「無視できないほど多くのプロの学者が信じてしまい、学界全体が認知した」ことなのです。

 今回の事件で不思議なのは、そうした騒動において、「学界」の研究者の一部が、このような論理で「信者」(ビリーヴァー)になるのまでは珍しくもないのですが、学界のメイン・ストリームにまでなるというのはあまり例がないのです。

 で、今日、教えてるガッコの一つからの帰りに、都内ではもっとも網羅的に専門書をそろえている大型書店−−ジュンク堂池袋店によって、考古学コーナーの参考書関連をざっと斜め読みして慄然としました。
 「敬して遠ざける」どころか、ほとんどの本が、越えてはならない一線をこえてるじゃないですか。
 しかも、「山田花太郎(1981)」とか「池袋三郎(1992)」とか、参考文献の著者を付記、巻末(章末)に一覧をそえるだけでは、その発掘遺物を、「誰が発見したか」
なんてのはまったくわからない。
 初版発行が、ある日づけ(1980年代の半ば以後?)よりも新しいものは、見たところではどれもこれも汚染されていると言ってよいくらい。
 想像してた以上に、この「学界」の崩壊の度合いはすさまじかったのですね。

 で、適切な学説史の参考書がないかとざっとながめていてはじめて、事の本当の成り立ちが見えてきたような気がしました。大型図書館などにもあたって、引用できるような体制をととのえる前に、まず、一般論的に、なぜ、あのような事態がおきたのか、また、なぜ、学界に認知されたについての手がかりを。

 例の『東日流外三郡誌』を支持した古田武彦氏(*)は、自説を証明する「史料」
の出現によって、確信を深めてゆきます。
 そうした「史料」は、古田氏の学説(古田氏以外のシンパ作りのためには、そのヒトのための学説)における知見を、内容的には、はるかに昔すでにかかれていたという形で、「証明」しています。しかし、事実として、その「証明」は、常にその知見の公開よりもあとから、それを証明する史料が出現する形でなされていたのです。

 斯界でも認められているプロの学者が異端的な理論を提出、批判を浴びて孤立化するが、そこに、その理論を「証明」するデータ(史料や遺物)を持った(発見・発掘した)在野のアマチュア研究者が登場する……。

 「捏造」にからむ、これまた典型的なパターンです。

 1981年、日本の旧石器をめぐる学説の戦いにおいても、1980年代半ばの、認知にいたるまでの間に、まったく同じことがおこったのではないでしょうか?

 岩宿が認知されたのちも、旧石器の存在の時期をさかのぼらせようとする研究者に対しては、厳しい批判が、とりわけ1980年頃あたりを頂点として、あいついでいたらしいのです。

(*)古田氏は在野の人ですが、彼の九州王朝説は、発表当時は、京大などから、ある程度以上の評価を受けていたりしました。彼が孤立し、既成学界と対立するにいたったのは、自説に対する細部への批判さえも受けつかなかったためです。また、『東日流外』にいかれるまでは、「異端論者」ではあっても、決して、「トンデモ」ではありませんでした。ま、今から見ると、彼の文献解釈は間違いだらけなのですが、当時は既成学界そのものの水準も、それを完全否定できるほどにはなっていなかったのです。

08551 RE:アマチュアは誰に向けて偽作したか?

00/11/14 02:35 08535へのコメント

 しかし、事実として、その「証明」は、常にその知見の公開よりもあとから、それを証明する史料が出現する形でなされていたのです。
 斯界でも認められているプロの学者が異端的な理論を提出、批判を浴びて孤立化するが、そこに、その理論を「証明」するデータ(史料や遺物)を持った(発見・発掘した)在野のアマチュア研究者が登場する……。
 「捏造」にからむ、これまた典型的なパターンです。
 1981年、日本の旧石器をめぐる学説の戦いにおいても、1980年代半ばの、認知にいたるまでの間に、まったく同じことがおこったのではないでしょうか?

 この場合、決して、「異端」ではなくて、あくまで、「定説」が成立する以前の、学界内における、きわめてまっとうな「論争」であったことを付記した上で、藤村氏による一連の「発見」「発掘」開始の前提となる論争史への適切なガイドたる文献を三つだけ紹介します。

 安蒜政雄、「「前期旧石器時代」存否論争」。
 鈴木忠志、「岩宿文化論−−時代呼称とその周辺」。
(ともに、明治大学考古学博物館編、『論争と考古学』、『市民の考古学』1、名著出版、1994)
 加藤稔、「日本旧石器文化存否論」、『先土器・縄文文化時代I』(桜井清彦/坂詰秀一編)、『論争・学説 日本の考古学』2、雄山閣出版、1988。

 図書館でコピーした上でざっと読んだ限りでは、藤村氏登場に先立つ問題点は、決して「岩宿コンプレックス」ではなく、

 日本版「偽石器」問題と、
 「前期・中期旧石器時代存否論争」であるように思えます。

 前者の「偽石器」は、英語でいえば「pseud(シュード)」がつくのでしょう、決して日本語の「偽作」ではなく「自然破砕による石器類似遺物」をめぐるものです。

 また、後者も、「岩宿文化」の存否をめぐるものではなく、ヨーロッパの考古学で言うところの前期旧石器が日本にあるのかどうかについての、論争です。

 以下、にわか勉強の素人なりの要約をおこないます。
 勘違い、間違いなどへの、識者のみなさんによるご指摘をお願いします。

 編年による呼称そのものの違いをはらみながら、上記の「中期・前期旧石器時代」
の日本における存否をめぐって、

 杉原荘介氏(1913-1983)、
 山内清男氏(1902-1970)、
 芹沢長介氏(1919生)

 の三人の対立があり、芹沢氏が存在するとした、武蔵野ローム層(約3万年前より以前のものとされるが、この日づけにもそれぞれに異論があるとのこと)における「旧石器」が「シュード」であるのか「本物」であるのかをめぐるものだった。

 前記日本版「偽石器」問題の端緒となったのは、
 1953年、青森県金木町における発掘調査の結果、上記の武蔵野ローム層に相当するきわめて古い地層に、原始的な石核石器(剥片石器よりも前の段階のもの)と思える礫が大量にみつかったというもの。

 ところが、調査団長の杉原氏は、翌1954年、この「石器」が、人工の品ではなく、自然の破砕礫であるとする調査報告書をまとめます。

 1962年、今度は、大分県丹生町で、明らかに人工物である石器が発見され、やはり、きわめて古い、十数万年前の地層のものと報告される。
 十数万年前というこの日づけは、上記の初期論争における焦点たる武蔵野ローム層の「3万年前よりも以前」をはるかにさかのぼるものだった。
 しかし、これらの石器の大半が、ブルドーザーによる工事がおこなわれた場所で発見されたため、その地層的な年代の確定法に疑問が提示された。
 丹生遺跡については、当時、芹沢氏も、否定的な見解を発表している。

 しかし、
 1964年、大分県早水台(そうずだい)において自ら発掘調査をおこなった芹沢氏は、武蔵野ローム層に相当する地層に、石英安山岩や石英脈岩を含む多量の石器を発見した。
 これに対して、杉原氏は人工物とはみとめられないとの見解を明らかにし、また、ほか方面からも、年代の策定への疑問が提出された。
 つまり、前者は金木的な「まがい石器」とし、後者は丹生的な「地層層序の混乱」
とする批判だった。

 この批判にこたえるべく、芹沢氏は、
 1965年より、栃木県星野町の、これに先立ち石核石器と思われる遺物が発見された場所で、本格的な発掘を開始、リス=ビュルム間氷期に相当する、きわめて古い地層に、主に珪岩石からなる石器を発見する。
 1978年までおこなわれた、この一連の発掘調査の中での芹沢氏の知見、とりわけ、
 1966年から、「月刊考古学ジャーナル」に連載が開始された「連載講座 日本の旧石器」に対し、
 1967年5月号の同誌に、杉原氏が、正面から芹沢説、いや、「下部旧石器時代さらに中部石器時代に関する遺物」そのものの、少なくともこの時点での信用するに足りる資料が「ほとんどない」とする論考を寄稿、ここに公然たる論争が開始される。

 杉原氏は、この論争の中で、芹沢氏の主張する年代に疑義を提出、後期旧石器時代の存在は疑いなしとしながら、中期・前期における石器の存在を否定する。
 安蒜氏のレヴューでは、この時点で、杉原氏が、星野遺跡の遺物について、前期とされるものは人工品ではなく、中期とされるものは年代策定に問題ありとしたとされているが、加藤稔氏のレヴューでは、むしろ、「まがい石器」説は、地質学者たちから、年代錯誤説とセットで提出したものとされている。

 芹沢氏は、星野遺跡と平行して、各地で発掘を継続、主に珪石からなる中期・前期旧石器を発見、また、
 1969年、星野遺跡での、この時点で世界最古の住居跡と見られる、皿状に凹んだ空間の周囲に柱穴が存在する遺構を発見するなど、自説の補強につとめた。

 しかし、芹沢氏らの「中期・前期旧石器」存在論には、杉原氏ばかりではない根強い批判が存在しつづけた。

 杉原氏は、自身、1971年の論考の中で、自説への確信を背景として、「石器出土層順」と「石器認定」こそが鍵となると明言している。

 安蒜氏は、この論争の決着点として、いきなり、座散乱木遺跡の第3次発掘調査へと論を進めているが、

 石器文化談話会や藤村氏の名前が、加藤稔氏のレヴューに登場するのはもっと以前で、かねてより、前期旧石器時代終末期に属するものとされる「権現山型尖頭器」のグループの

斜軸尖頭器が確実な層序で発見される見通しがたったのは、宮城県大崎地方西北部の江合川流域においてであった(註56)。遠藤智一や藤村新一らが発見した火山灰質中に包含層をもつ遺跡群が、鎌田俊昭・岡村道雄ら石器文化談話会の活動で本格的な前期旧石器研究へと昇華されたのは、昭和五○年(一九七五)であった(文献151) (前記、加藤稔氏の論考より、69頁)。

 同じ1975年、仙台市教育委員会によって、山田上の台遺跡において、また、1976年には、近接する北前遺跡においても、ほぼ同時期であろう(前者は2・6〜3・1万年前)とされる石器が発掘された。

 そして、まさにこの1976年に、

東北大学で芹沢先生に教えをうけた若い研究者や熱心に石器を学ぶ地元の人達のグループである石器文化談話会  (前記、安蒜氏の論考より、65頁)

 によって、宮城県座散乱木遺跡の発掘が開始される。

 そして、この遺跡への第3次発掘調査は、1980年に開始され、1981年には、

その結果、立川ローム層に相当する八・九層と、武蔵野ローム層に相当し確実に三万年以上前に遡る一二・一層および一五層から石器が出土しました。一二・一および一五の両層はいずれもローム層で、しかも各地層の層序ははっきりとしたブロック状のまとまりをみせたのです。
 それまでの「前期旧石器時代」の石器が礫層や自然の礫にまじって出土する点に大きな疑問を抱いていた研究者も今度ばかりは不審をとなえる余地さえありません。地層と石器の状況に問題がないとなれば、残るのは石器の性格ということになります。一二・一三層と一五層からは、何とまったく未知の石器が姿を現したのです。その一二・三層と一五層の石器は、頁岩や安山岩から作り出されていて一見して三万年前よりも新しいそれとみまちがうような、一連の小形石器でした(図6)。「珪岩製石器」とは違って、この石器をみた研究者に、それが人工品であるかどうかを疑う余地もありません。だれもが人工品と認める石器が、確かに立川ローム層よりも古い地層のなかにあったのです。 (安蒜氏論考より、65-66頁。強調は引用者による)

 この発見は、鎌田俊昭氏らにより、早くも1982年には論文にまとめられ、1983年には、この第3次発掘に関する調査報告書も公刊された。

 一見すると、安蒜氏の書き方は、この新発見の真実性を全面的に認めていると思えるが、このあとのくだりで、氏は、発見の信憑性ではなく、この発見によって忘れ去られてしまった「珪岩製」石器の問題を指摘している。

 しかし、その前に、これほどまでにゆるぎないと思える発見への異議申し立てについてについても触れよう。

 例えば、石器があったとされる地層の

安沢下部層は火砕流である、といわれ始めた。火砕流の中に石器は入っているはずがないのであり、また南関東の立川ローム層上では、同一石器文化が十数センチも上下して包含されているのが常態であるのに比較して、層理面に貼りついての石器の対照的出土状況に疑問を呈する向きも多かった。 (加藤稔氏の論考、70頁)

 加藤稔氏はただし、この時点での具体的な批判の典拠については、岡村氏や鎌田氏による反論を紹介するのみでいっさいふれていない。
 はたして、この時点で、きちんとした論考の形での、正面からの批判は存在したのだろうか?

 加藤氏のレヴューは、このあと、

けれども、座散乱木の第三次発掘は、前期旧石器の否定ないし黙殺の風潮の「流れを変えた」(文献195)

 と続く。
 この引用元は、今回の事件のTV報道でも確か、該当号の目次ページが画面で紹介されている、
 河合信和、「前期旧石器論争に決着はついたか」、「科学朝日」、1985年7月号
 である。

 加藤氏はさらに、

座散乱木以後の動きは、河合信和らジャーナリストの活動(文献195)もあり、多くの日本人にその成果が知られている。 (同上、71頁)

と記す。

 そして、1985年、日本考古学協会の年次大会におけるシンポジウムの最初に、岡村道雄氏が、「宮城県の『前期旧石器』」についてスピーチをおこなう。
 しかし、前記の「科学朝日」にあるように、これによって、「決着」はついたのだろうか?

 加藤稔氏は、1986年に提示された、正面からの批判、
 小田静夫・Kelly,Charles T.'A Critical Look at the Palacolithic and "Lower Palaeolitihic" Research in Miyagi Prefecture,Japan''、「人類学雑誌」、1986年8月、94巻3号。
 のきわめて具体的な批判の数々を細かく紹介した上で、

以上の批判なるもののいくつかに対しては、宮城県での各遺跡の発掘担当者らが、地道な分析研究を通して答えていると考える。

 と記し、

昭和六二年(一九八七)年六月、「旧石器研究の波はついに多摩ニュータウンの一角にまで到達した」。(文献58) (同上、78頁)

と、宮城県に発見が限定されているではないかとの批判にこたえた上で、以後はいっさい存否問題にふれることなく、最終節である「課題と展望−−画期と時代区分」へと筆を進めている。

 一方、安蒜氏は、芹沢氏にとって、旧石器問題の要であったはずの「珪岩製旧石器」について、

金木町の偽石器がきちっと論議され総括されていれば、「前期旧石器時代存否論争」も随分と異なった展開をみせたように思われてなりません。
 そうした意味で、もう一度、金木町の偽石器に戻るという視点からの「珪岩製旧石器」の検証が、ぜひとも必要ではないでしょうか。それは古くて新しい論争の呼び水にもなるにちがいありません。 (安蒜氏、69頁)

と、最後のまとめの部分で語っている。

 加藤稔氏のレヴューは誠実であり、文献リストとしてもきわめて有用なものであるが、存否の「存」を前提としたものであり、
 安蒜氏の論考は、意図的な捏造の可能性については、おそらくまったく考えていないし、上記の提言もまた、捏造そのものに対しては無力である。

 しかし、安蒜氏の結論は、藤村氏がかかわったすべての発掘への疑惑を前提として、今後の「前期旧石器」研究がおこなわれなければならないことを考えると、きわめて有意義な提言と言えるだろう。

 最後に、安蒜氏の論考から、もう一つだけ引用しよう。

 杉原先生は以後一貫して「前期旧石器時代」否定の態度をくずしませんでした。しかし、「前期旧石器時代」存否論争の結末をみとどけることなく、一九八三年、私たちに「杉原仮説を破ってほしい」という課題を残したまま、六九歳でご他界されました。 (安蒜氏、62頁)

 そう、芹沢氏の失われようとしつつある名誉と、杉原氏の汚名を、双方ともに救済するために必要なのは、1981年以降、藤村氏がかかわった遺跡発掘のみにとどまらぬ、1967年から開始された論争の原点に回帰し、その後の「発掘」成果すべてを再検証することにほかならないのである。

08556 補足・訂正+芹沢長介先生の孤独

00/11/15 00:17 08551へのコメント

 訂正・補足します。

英語でいえば「pseud(シュード)」

 「pseudo- シュード」ですね。

 補足

杉原荘介氏(1913-1983)、
山内清男氏(1902-1970)、
芹沢長介氏(1919生)

 それぞれの方の主張ですが、芹沢氏との編年のたてかたこそ違うものの、山内氏も基本的には、「前期・中期旧石器」の存在に否定的といえたようです。
 山内氏は論争のさなかの1970年に亡くなられました。

加藤稔氏は、

昭和六二年(一九八七)年六月、「旧石器研究の波はついに多摩ニュータウンの一角にまで到達した」。(文献58) (同上、78頁)

と、宮城県に発見が限定されているではないかとの批判にこたえた上で、以後はいっさい存否問題にふれることなく、最終節である「課題と展望−−画期と時代区分」へと筆を進めている。

 加藤稔氏の論考所載の

『先土器・縄文文化時代I』(桜井清彦/坂詰秀一編)、『論争・学説 日本の考古学』2、雄山閣出版、1988。

は、1988年に刊行されている。

そう、芹沢氏の失われようとしつつある名誉と、杉原氏の汚名を、双方ともに救済するために必要なのは、

 事態発覚後の芹沢長介氏の、マスメディアにおけるコメントには、首をかしげたものでした。
 「以前から新しすぎると思っていた」(要旨)というのは、立場上無責任すぎるとしても、
 藤村氏のかかわった仕事は、すべて再検証すべきとの言葉もある。
 ましてや、マスメディアでのコメントの孫引きですが、自分自身で再検証してもよいといったニュアンスの発言もあるらしい。
 無責任なのか、責任感旺盛なのか、誠実なのか不誠実なのか?

 今回、まとめてみて、安蒜氏の指摘を鍵に、こうした行動を読み解くと、

 となると、
 芹沢長介氏はもしかして、東北大学や談話会を中心とする学派のなかでは、まさにその学派の創始者でありながら、実は、1981年の発見から始まる一連の「人工物」に、常に違和感を抱きつづけていた、たった一人の人物だったのではないでしょうか?

 加藤稔氏の文献一覧を見る限りでは、1981年ならびに、以後の一連の発掘調査を報告し、また、直接、個々の発掘結果を論じた芹沢氏の論文や短報、アーティクルは見当たりません。
 年齢的には、60歳で退官なら1979年、65歳なら1984年ということで、いずれにせよ、座散乱木での「発見」と相前後して、現場、とりわけ、発掘の現場からしりぞいたという要因も強いのでしょうが、「違和感」の存在を前提とすると、こうした状況にも納得がゆきます。

 一方、弟子筋はというと、安蒜氏が言うように、芹沢氏の過去の仕事をひとまずわきに置いた上での、魔法の手を持った藤村氏の発掘成果のみを根拠とする、言わば「藤村学派」へと雪崩のように、転向していった。

 もとより、以後の「藤村学派」への学界内政治的後ろ盾としての役割を、自ら積極的につとめていた責任は大きいが、座散乱木での発見以後の19年間にわたって、もっとも孤独だったのは、実は、芹沢先生その人だったのではないだろうか?

08557 座散乱木報告書どうやって読む?

00/11/15 19:14 08551へのコメント

 さて、藤村氏の座散乱木での発見以来、彼がかかわっ発掘にまつわって大量に出土している、「藤村石器」とでも呼ぶべき、不思議きわまる存在の信憑性なのですが、素人なりに、その原点にあたるべきではと思い、座散乱木遺跡の調査報告書を、なんとか実見できないかと、学術情報センターのオンライン検索サーヴィス、Webcatにあたってみました。

 ご存知の方も多いはずですが、このサーヴィスは、全国の大学・公的研究機関の図書館・図書室・資料室の所蔵データ(OPACデータ)を横断的に検索できるものです。

 で、「座散乱木」をキーワードに引いてみたら、

 えええっ、こんなに少ないの? 持ってるとこ。

 WebcatのDBS、変なフィルターをかけてあるので、かなり頻繁に検索もれがありうるので、タイトルや著者名などで、また、雑誌名で、調べ直しても、やはり、答えは変わりませんでした。

http://webcat.nacsis.ac.jp/
NACSIS Webcat

宮城県岩出山町座散乱木遺跡発掘調査報告書 / 石器文化談話会編<ミヤギケンイワデヤママチ ザザラギ イセキ ハックツ チョウサ ホウコクショ>. -- (BN08369655)
[仙台] : 石器文化談話会, 1978.12-1983.4
冊 ; 26cm. -- (石器文化談話会誌 ; 第1集,第2集,第3集) -- 1 - 3注記: 所在:宮城県玉造郡岩出山町字下野目 ; VOL.3の表紙標題:座散乱木遺跡 : 考古学と自然科学の提携
ISBN: (1) ; (2) ; (3)
別タイトル: 座散乱木遺跡発掘調査報告書
著者標目: 石器文化談話会<セッキ ブンカ ダンワカイ>
--------------------------------------------------------------------------
所蔵図書館 7
[**転載省略**]
--------------------------------------------------------------------------

 げげげ、橿原にもない、阪大にも、京大にも、明大の本校図書館にも考古学資料館にも、東大にもない。(いずれも、「図書館・資料室にない」ということです)

 編著が石器文化談話会という民間の団体だからってのは、理由になりませんよね 問題の「藤村石器」についての報告が第3集に載ったのは1983年。
 発掘結果を扱った論考は公刊されていたとはいっても、これだけ画期的な「発見」について検証するためには、調査報告書の吟味が絶対に必要なはずなのに……。

 1985年頃、そんな薄いデータと根拠で、この学界では、なぜに「決着」をつけることができたのでしょうか?

 発掘の調査報告書という存在、さいわいにも、専門書・専門資料を扱う古本屋(*)などがごろごろある、また、例えば東京都立中央図書館(**)などの大型公共図書館に簡単に行ける東京に住んでいるために、また、現在は非常勤をつとめる学校経由で入手という手もあるので、こんなこと考えたことなかったのですが、どのようにして、どのくらいの数、どんな相手に頒布/販売されるのでしょうか?

 もしも、個々の研究者はちゃんと手に入れて持っているとしても、大学図書館にはないなんての、変ですよ。

 市民に向けて開かれた大学図書館がほとんどない現状(***)では、市民・国民のためという段階よりもはるかに手前ではあるのですけれど、こんなことでは、たとえ、研究室レヴェル、個々の研究者レヴェルでは読めたとしても、つまり、学内のいずれかに報告書が存在したとしても、学外の他大学・研究機関の研究者や学生ましてや、研究室が違っていれば、同じ大学内の学生や院生さえも、過去の学説と、その根拠を検証するための必須要素にアクセスできないことになるのではないでしょうか?

(*)例えば神保町だったら、小宮山書店を筆頭に、調査報告書を扱う古書店は何軒かはあったと記憶しています。
(**)都立中央も、ネット上のDBSで検索したところでは、この報告書は所蔵していませんでした。
(***)建て前上は公開としているところでも、事務手続きの問題で、いやがらせに近い制限があったりもします。以前の実体験です。また、なかには、OBの利用も制限しているところもあるようですね。個人的に好感が持てた、対外的に公開している大学図書館としては、例えば、東工大のそれがあります。

 ちなみに、この3集の発掘から発行までのタイムラグ、なんか異様に早いような気もするのですが……

08559 RE^2:アマチュアは誰に向けて偽作したか?

00/11/15 20:02 08551へのコメント

図書館でコピーした上でざっと読んだ限りでは、藤村氏登場に先立つ問題点は、決して「岩宿コンプレックス」ではなく、

 だって、「中期・前期旧石器時代」(*)の存否をめぐって、あい争ったのは、岩宿の時点では、同じ明治大学の師である杉原氏と、弟子である芹沢氏であり、在野の相沢忠洋氏とともに、岩宿認知=旧石器文化(この段階では後期旧石器文化)の認知をめぶって、否定的な既成学界と戦った、いわば同志の間がらだったのですから。

 加藤稔氏の引用されている直良信夫氏の、1936年の論考「日本の最新世と人類発達史」(「ミネルヴァ」、1936年5月、1巻4号)によれば、

関東ローム層が堆積するに及んで、地上の景観については不可解な問題がいくつも残された。しかし、一部の学者が説くように、全く虫一匹草一本さへ見ることの出来なかつた日本を描出することはまだ早い。

 そんな偏見(**)がまだまかりとおっていた時代に偏見と戦い、勝利を勝ちとった同志でありながら、やがて、学説の違いから二人は袂をわかち、芹沢氏は、東北大学へとおもむくわけですが、

 大混乱と、絶対優先としての、今回明らかとなった分にかぎっての不正への対応に追われてらっしゃるだろうから、すぐにとは言いません。

 Yさま。

相沢忠洋氏の時にも強い反対があったのですが,それにて反抗した時期が私にはあったため,よけいに感情的にサポート側に回ったのです.

という気分になるためには、ブンガク的修辞で語るなら、

「ああ、杉原先生も、岩宿を否定したヒトたちと同じになってしまった!」といった、「学派」内の物語が前提とならなければいけないはずなのです。

 Yさんたちの世代が中期・前期旧石器時代にとりくんでいた頃、

 打倒すべき仮想敵として暗黙の了解事項になっていたのは誰でしたか?
 杉原先生ですか? それとも……。

 お聞きしたいのは、「罪」ではなく、こうした「空気」が形成されてしまった同時代への証言です。そのあたり、おぼえてらっしゃったら、いずれ、お言葉をいただきたいと思います。

 で、もう一つ、芹沢説へのサポートと、「藤村石器」へのサポートは、実はまったく違います。
 先にも触れたように、藤村氏による一大発見は、むしろ、過去の芹沢氏の主張の根幹を事実としてこそ裏付けるものの、その芹沢先生ご自身の、証明へと向かう研究上の営為とはまったく無関係な形でなしとげられ、芹沢先生が提起された問題のほとんどは、否定とはいわぬまでも無視され、とりあえず措いとかれちゃったりしたのですね。

 座散乱木以後、藤村遺物ショック以後、安蒜氏が述べておられるような、本来、芹沢氏が証明してほしかった珪岩石器をはじめとする遺物・遺構の存在を確認してゆこうという作業は、どれだけ、東北の、「中期・前期旧石器時代存在論」学派の中に存在しえたのでしょうか?

 Yさまに、お聞きしたいと思います。

 別項で述べたこととの関連で言うなら、

 座散乱木3次発掘以後の東北を根拠地とし、「中期・前期旧石器」をとなえるヒトたちは、「芹沢学派」だったはずが、どのような過程のなかで、藤村氏が発見した特異な人工物をコアとした、「藤村石器」学派になってしまったのでしょうか?

 これは、再検証において、きわめて重要な問題だと思うのです。
 なにしろ、ある意味では、座散乱木以後、芹沢先生さえも、半ば以上は、「藤村石器」学派に転向していたのですから。

(*)繰り返し断っているように、これは海外(失敬、ヨーロッパばかりじゃないですね)での語法。芹沢氏の用法は「前期旧石器時代」。
(**)この後、古代の自然環境への評価は、安定を基盤とする斉一説的なものに向かうようですが、アカホヤとかの分析によって、一木一草もなしという状況も、多々あったということがわかってきたみたいですね。

08558 RE:補足・訂正+芹沢長介先生の孤独

00/11/15 19:14 08556へのコメント

もとより、以後の「藤村学派」への学界内政治的後ろ盾としての役割を、自ら積極的につとめていた責任は大きいが、

 たとえば、CD−ROM版の平凡社『世界大百科』には、こうあります。

3万年以上前の日本に旧人もしくは原人の文化が残されているかどうかについては,いくつかの遺跡が知られている。まず1964年には大分県早水台(そうずだい)遺跡の基盤直上から石英脈岩製のチョッパーやチョッピングトゥールが発掘され,65年から78年にかけて調査された栃木県星野遺跡では,武蔵野および下末吉ロームに相当する地層中からチョッパー,スクレーパー,尖頭器,彫刻刀などを含む大量のチャート製石器が出土した。早水台遺跡は約10万年前,星野遺跡は3万2000年から約8万年前までさかのぼると推定された。最近になって同じような資料が宮城県の上ノ台遺跡,北前遺跡,座散乱木(ざざらぎ)遺跡,そして中峰遺跡などで,3万年以上前と推定される地層から発掘された。とくに中峰遺跡では,石器出土層を熱ルミネセンス法によって測定したところ,ほぼ10万年前という結果が出たといわれる。また岡山県の蒜山(ひるぜん)高原からも明らかに3万年以上前の地層から石英製石器が発掘されているので,将来は日本における旧人・原人の遺跡が各地から姿を現すに違いない。
    芹沢 長介

08560 RE:補足・訂正+芹沢長介先生の孤独

00/11/15 20:03 08556へのコメント

加藤稔氏の文献一覧を見る限りでは、1981年ならびに、以後の一連の発掘調査を報告し、また、直接、個々の発掘結果を論じた芹沢氏の論文や短報、アーティクルは見当たりません。

 発掘のリーダーというか代表をつとめ、編者に名をつらねたものはありますから、「個人として報告し、また、論じた」と訂正します。

08562 座散乱木への伏線

00/11/15 23:51 08551へのコメント

同じ1975年、仙台市教育委員会によって、山田上の台遺跡において、また、1976年には、近接する北前遺跡においても、ほぼ同時期であろう(前者は2.6〜3.1万年前)とされる石器が発掘された。 (加藤稔氏の論考、69頁)

 考古学プロパーの方々に質問です。

 この山田上ノ台ならびに北前の遺跡発掘の主体は仙台市教育委員会ですが、東北大学芹沢教室ならびに石器文化談話会のメンバーは参加しているのでしょうか?

 藤村氏は、同じ1975年に、

斜軸尖頭器が確実な層序で発見される見通しがたったのは、宮城県大崎地方西北部の江合川流域においてであった(註56)。遠藤智一や藤村新一らが発見した火山灰質中に包含層をもつ遺跡群が、鎌田俊昭・岡村道雄ら石器文化談話会の活動で本格的な前期旧石器研究へと昇華されたのは、昭和五○年(一九七五)であった(文献151)
 という形で登場していますが、

 もしも、上記仙台教育委員会による発掘調査にもかかわったとすると、こちらへの検証も必要となるのではないでしょうか?

 というのは、第3次座散乱木発掘におけるような「オーパーツ」(時代錯誤遺物)出現以前とはいえ、捏造−−この場合は時代の異なる遺物か、もしかすると一部は現在の新作人工物を意図的に、まったく異なる地層に混入させた行為を、日常的におこなうようになる心性の持ち主は、そうした不正の本格化以前から、データの歪曲への抵抗感もなくなっているのが普通だからです。

となれば、談話会による、

 鎌田俊昭/藤村新一、「宮城県大崎地方西北部における先土器時代遺跡群」、「多賀城遺跡調査研究所紀要」、II巻、1975年3月。

ならびに、もしも、藤村氏らがからんでいるとしたら、

 仙台市教育委員会、『山田上ノ台遺跡−発掘調査報告』、「仙台市文化財調査報告書」第30集、1981年3月。
 仙台市教育委員会、『北前遺跡−発掘調査報告』、「仙台市文化財調査報告書」第36集、1982年3月。

もまた、批判的な観点からの再検証が必要でしょう。
 しかも、刊行時期からすると、「藤野新石器」発見以後に刊行されており、解析にバイアスがかかっている可能性は否めません。

 で、これら三つの文献がチェックできるのかと、ネット上でのDBSをチェックしてみると、

研究紀要 / 宮城県多賀城跡調査研究所 [編]<ケンキュウ キヨウ>. -- (AN000
1 (1974.3)-7 (1980.3). -- 多賀城 : 宮城県多賀城跡調査研究所, 1974-1980
別タイトル: 宮城県多賀城跡調査研究所研究紀要
著者標目: 宮城県多賀城跡調査研究所<ミヤギケン タガジョウセキ チョウサ ケンキュウジョ> 所蔵図書館 26
[**転載省略**]

山田上ノ台遺跡<ヤマダ ウエノダイ イセキ>. -- (BN0145371X)
仙台 : 仙台市教育委員会
冊 ; 26cm. -- (仙台市文化財調査報告書 ; 第30,100,77集) -- 昭和55年度発掘調査報告書;昭和59年度発掘調査報告書
ISBN: (昭和55年度発掘調査報告書) ; (昭和59年度発掘調査報告書)
別タイトル: 山田上ノ台遺跡発掘調査概報
著者標目: 仙台市教育委員会<センダイシ キョウイク イインカイ>分類: NDC8 : 210.2 ; NDLC : GB121
件名: 仙台市 ; 宮城県 ーー 遺跡・遺物
所蔵図書館 8
[**転載省略**]

北前遺跡発掘調査報告書<キタマエ イセキ ハックツ チョウサ ホウコクショ> . -- (BN02853156)
仙台 : 仙台市教育委員会, 1982.3-
冊 ; 26cm. -- (仙台市文化財調査報告書 ; 第36,105,129集) -- [第1次] - 第3次
注記: 第2次:山田市民センター関連 ; 第3次:太白区消防署建設関連 ; 第1次:引用・参考文献:p166〜167 ; 第2次:引用・参考文献:p31,図版11p含む
ISBN: ([第1次]) ; (第2次) ; (第3次)
別タイトル: 北前遺跡 : 発掘調査報告書
著者標目: 仙台市教育委員会<センダイシ キョウイク イインカイ>分類: NDC8 : 210.2
所蔵図書館 7
[**転載省略**]

 といった資料の検討が必要ということになります。

08563 座散乱木批判反批判どうやって読む?

00/11/15 23:51 08557へのコメント

 加藤稔氏のレヴューの文献表によれば、

 鎌田俊昭氏は。遺物が層理面にぴたりとはりついていて、これまで確認されている遺跡における遺物の上下移動がられないとの指摘に対しては、東北の火山灰は行儀がよいし、霜柱の影響も関東より少ないと反論している。

 鎌田俊昭、「前・中期旧石器の要件によせて」、「考古学基礎論」4号、1982年10月号。

 また、火砕流問題についての岡本道雄の、火砕流後に堆積が始まったとの、反論ならぬ「説明」は、

 岡村道雄、「旧石器時代」、『図説発掘が語る日本史』1、『北海道・東北編』、新人物往来社、1986年4月。

に掲載されている。

08568 RE:座散乱木への伏線

00/11/18 00:33 08562へのコメント

同じ1975年、仙台市教育委員会によって、山田上の台遺跡において、また、1976年には、近接する北前遺跡においても、ほぼ同時期であろう(前者は2.6〜3.1万年前)とされる石器が発掘された。 (加藤稔氏の論考、69頁)
 この山田上ノ台ならびに北前の遺跡発掘の主体は仙台市教育委員会ですが、東北大学芹沢教室ならびに石器文化談話会のメンバーは参加しているのでしょうか?

 自己レスです。藤村氏は、やはり、この2つの遺跡の調査に参加していました。

 しかも、山田上ノ台遺跡では、1980年に、どうやら画期的な発見をなしとげているようです。

 実は、1981年の明白に人工物とわかる「藤村石器」発見よりもずっと以前の成果までをも疑うのは筋が違うかと考えていました。
 こうした不正は次第にエスカレートするものだから、座散乱木での「発見」に近づくほどあやしいかなと考えたわけです。
 1975年、1976年の知見なら、まず「捏造」はありえないだろうが、意図的かどうかはともあれデータの歪曲はありえるので、チェックも必要かもしれないしと思って記したのですが、

http://www.tfu.ac.jp/kenkyushitsu/kajiwara/Tokyuken.html

藤村新一氏は、<中略>
相澤忠洋に次いで、前期・中期旧石器研究に大きく貢献してきた発見者である。地中深く埋没しているこの分野の遺跡は、藤村のような発見者なしでは、研究の対象として認識されることは不可能であり、その意味で遺跡を体系的に「発見」する調査は研究の大前提といえる。1980年の山田上の台遺跡の中期旧石器の発見と調査以来、代表的な遺跡だけでも座散乱木遺跡、馬場壇A遺跡、中峰C遺跡、高森遺跡、上高森遺跡、中島山遺跡、袖原3遺跡、大平遺跡、竹ノ森遺跡、原セ笠張遺跡、長尾根遺跡など藤村によって前期・中期旧石器存在が明らかになった遺跡は、枚挙にいとまない。
鎌田俊昭氏は、<中略>
旧石器研究の専門家としてすでに30年以上のキャリアを持ち、後期旧石器・前期・中期旧石器の調査を多く手がけるとともに、数多くの論文をものにしてきた。1980年の山田上ノ台遺跡の調査では、調査員として中期旧石器遺跡の存在を明らかにした。地元多賀城市の海岸段丘上では、藤村とともに志引遺跡・柏木遺跡を発見して調査し、報告書を刊行している。

 鎌田氏は、「調査員」として、山田上ノ台に参加されていたのですね。

 山田上ノ台遺跡の報告書そのものは、

仙台市教育委員会、『山田上ノ台遺跡−発掘調査報告』、「仙台市文化財調査報告書」第30集、1981年3月。 (加藤稔氏の文献表)

と、1981年に発行されており、1975年の発掘成果について記されているとしても、1980年の新しい発見が主要な内容と思われる。

 待てよ? 加藤稔氏の山田上ノ台と北前での発掘の紹介は、江合川近くでの談話会の発掘本格化について、

昭和五〇年(一九七五)であった。

とした、すぐ次の段落で、

この年、<中略>山田上ノ台遺跡で、<中略>翌年には近接する北前遺跡で

としていて、もしも、この二つの文章のつながりに誤記があるなら、ここで加藤氏が言っているのは、1980年の山田上ノ台と1981年の北前の発見ということになってしまう。

 いずれにせよ、旧芹沢学派が、「藤村石器」学派に変貌する最初のとば口は、座散乱木の前年、1980年の山田上ノ台遺跡で、藤村氏によって発見された遺物だったわけです。

http://www.kahoku.co.jp/News/2000/11/20001107J_02.htm

河北新報ニュース 石器発掘ねつ造 芹沢東北福祉大教授に聞く
2000年11月07日火曜日
石器発掘ねつ造 芹沢東北福祉大教授に聞く
 「びっくりした、としか言いようがない。彼が20年前に山田上ノ台遺跡(仙台市)で約5万年前の旧石器を発見した時は、『優れた人間がいるものだ』と大いに喜んだが…」

 とあるように、また、上に紹介した東北旧石器文化研究所のホームページでの人物紹介に見られるように、関係者の間では、座散乱木よりもむしろ、山田上ノ台での1980年の「発見」のほうが重要視されている。
 つまり、まさにこの時に「ゴッド・ハンド」伝説が開始されているわけですよね。

 これ、危ないですよ。現在につながる中期・前期旧石器研究の画期となった座散乱木での発見よりも1年前。
 もしかすると「予行演習」だったかもしれない。
 あ、いや、または……。

 加藤稔氏の紹介する山田上ノ台遺跡の発掘成果が1980年のそれだとすると、

石器は段丘堆積の終期に形成された灰青色シルト層が削られた皿状の傾斜部分を埋めた砂礫混じりシルトの各層から出土し、また、北前でも、同様の灰青色シルト層の下部の段丘礫層から出土した。<中略>この出土状況は「前期旧石器」を否定する人を説得するには不十分であった。とはいえ、これを基に、これまでに登場した「前期旧石器」を再検討する道が開かれた意義は大きい。


という記述は示唆的です。上記の部分は、遺物があった地層は、水流による堆積層であり、この流れによって石どうしがぶつかりあって、石器に似た「まがい石器」
(シュード石器)ができあがった可能性を否定できないという意味だから。

 もしも、これが、藤村氏による本当の新発見だとしても、旧石器存在派には認められはしたが、決定的な証拠とはならなかったことになります。

 そして、1980年の山田上ノ台につづいて、1981年、座散乱木で、今度は地層の問題からしても(火砕流層だという指摘はあとからのものらしい)、また、形状からしても間違いようのない、でも今までの知見とはまったく異質な石器が発掘される……。

 こうして並べるとつじつまはあう。

 だが、もしも山田上ノ台での藤村氏の功績が本物であったとしても、いや、あったとしたらなおさら、山田上ノ台調査の再検討が必要となるでしょう。

 毎日のネットでのニュース・サーヴィスによれば、「山田上ノ台の再調査は必要ない」といった見出しの記事があるようだけど、事態はむしろ、逆なのです。大丈夫だったらばなおさらのこと、その名誉回復のために、再調査が必要となるのです。

で、北前遺跡も、
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/iseki/200011/05-6.html

Mainichi INTERACTIVE 旧石器発掘ねつ造
藤村新一副理事長がかかわった主な前期・中期旧石器遺跡
(12)山田上ノ台・北前・青葉山(仙台市)

で、やはり、藤村氏が関係していて、

仙台市教育委員会、『北前遺跡−発掘調査報告』、「仙台市文化財調査報告書」第36集、1982年3月。
 と、報告書の発行は、やはり、1982年3月と、山田上ノ台の新「発見」と、座散乱木の大発見のあとのこと。

 山田上ノ台と北前の成果を、積極的に否定する材料はない。だが、報告書そのものは、1981年の新発見以後に刊行されており、かなりのバイアスがかかっていると考えなければならないでしょう。

08594 座散乱木縄文オーパーツ?

00/11/25 00:19

 自身の不勉強を肝に銘じ勉強中のこともあり、レスを怠たっていますが、とりあえず、疑問の点など、ご教示ねがえれば幸いです。

 手軽に入手できた文献を、じっくり読み込んでいったら、中期・前期旧石器以外にも、座散乱木遺跡からでてきた、「晩期旧石器時代」あるいは「縄文草創期」の遺物がらみで、ちょっとおかしいのではないかと思える部分が見えてきました。

 以下、
 鎌田俊昭/岡村道雄、「宮城県 座散乱木遺跡−−最古の石器群をめぐる問題」、『探訪 先土器の遺跡』、戸沢充則/安蒜政雄編、「有斐閣選書R」、有斐閣、1983。
 より。

 座散乱木遺跡では、数年間の断面採取と三回の発掘調査により、5、5b、6c、8、9、12、13、15層の各上面から旧石器時代の遺物が発見されている。そして、5、6b、6c層上面のものは晩期旧石器時代<中略>に属すると考えている。
 中略>
5層上面からは微隆起線文【びりゅうきせんもん】土器、押圧縄文【おうあつじょうもん】土器などが、有舌【ゆうぜつ】尖頭器(有茎尖頭器)、打製石斧、鏃【ぞく】状の小形尖頭器などと一緒に採取されている。また、より下層の6c層からは羽状縄文【うじょうじょうもん】土器、日本最古の動物形土製品が、有舌尖頭器、鏃状の小形尖頭器などとともに発掘された。なお、6c層上面では、住居跡と考えられる直径二メートルの円形に配置されたピット群が検出されている。
 一方、薬莱山周辺の遺跡でも、最古の土器群の理解にとって重要な資料が発見されている、鹿原【かのはら】D遺跡では、隆帯文【りゅうたいもん】土器と細隆線文【さいりゅうせんもん】土器が発掘され、大原B遺跡では、口唇部に絡条体圧痕文【らくじょうたいあっこんもん】のある微隆起線文時などが採取されている。両遺跡の土片は、肘折軽石層直下から、有舌尖頭器、円盤状のスクレイパー(掻器、削器)、鏃状の小形尖頭器など共に出土している。
 以上の事実は、従来考えられていた日本最古の土器群の編年や地域性に再考を促すものといえよう。つまり、いずれも肘折軽石層下の層準に包含され、ほぼ同一の石器組成をもち、これまで唱えられてきた隆線文→爪形文→押圧縄文という変遷をもつ掻く文様の土器が複雑に絡み合って共存している。さらに、座散乱木遺跡の羽状縄文土器は、これらより下層から出土している。少なくとも、この地域では回転縄文施文が当初より知られていたことと、各文様が同時に採用されていた時期があったことを示している。さいわい、座散乱木周辺では、当該期に属する火山灰層が数枚見られ、今後の資料増加により編年をはじめとして最古の土器群の実態が明らかとなっていくであろう。 (鎌田ら、149-150頁)(原文のルビは【】内に表記)

 問題点は2つあると思われます。
 型式からして、異なる年代に属するはずの土器の、同じ地層における混在。
 時代のあとさきで、あとの時代のはずの土器が、前のはずの土器よりも下の地層から出土している。

 もちろん、地域差による型式編年の混乱とかはありうるでしょうが、この場合、素人目にみても、混乱の質と年代的落差が大きすぎるように感じます。
 専門家の少ない旧石器はともかく、縄文土器の編年については、見識の高いかたも多数いらっしゃると思います。
 上記のような混乱は、いったい、どのくらいの「トンデモ」度なのでしょうか?

 で、読み直してみると、小田静夫さんは、「人類学雑誌」の批判的報文において、この点についても、

もっと基本的な誤ちは、当然新しいとされる土器片を隆起線文土器より下層に位置づけたり、縄文中・後期の石錐の型式を持つ石器を1万5千年前の錐にしたり、風倒木の撹乱ピット中の粘土塊を1万年前の世界的に珍しい、馬型土偶と発表するなどの行為である。当然学界でも議論を呼ぶ重要な資料だけに考古学者であれば、特に慎重に取扱うべき内容と考えられる。

としています。
 この引用の前段では、現地の地層の撹乱がはげしすぎるため、策定がむずかしいことをのべ、さらに駄目押しとして、策定の方法論そのものがデタラメだと言っているわけですが、暴露された2遺跡と同様に、こうした混乱が、意図的な改竄−−時代の異なる遺物の人為的な混入によるものであるという可能性は考えてみるできではないでしょうか?

 もしも、そうした可能性があるとしたら、ことは重大です。

 なぜなら、座散乱木遺跡は、

 第1次 1976.10.29〜11.4
 第2次 1979.9.21〜10.4
 第3次 1981.9.26〜10.16

と3次にわたって発掘され、藤村氏による、画期的な発見は、第3次発掘時、1981年10月3日に始まっています。

 ところが、

第三次発掘調査で「石器文化談話会」は、早く前期旧石器時代の地層まで掘り進めるため、第二次発掘調査と同じ地点を掘ることにした。第八層までは調査済みのため、パワーショベルまで導入し、その下層は移植ゴテで丁寧に作業を進めた。 (服部隆一郎、「座散乱木遺跡」、『旧石器時代』、『日本の遺跡発掘物語』1、森浩一編、社会思想社、1983)

 つまり、こうした編年錯誤的発掘がおこなわれたのは、藤村氏によって、従来、考えられていたのとはまったく異なる「中期以前の旧石器」が発掘された1981年の第3次発掘ではなく、1976年の第1次発掘か、1979年の第2次発掘ということになるからです。

 藤村氏の発掘した遺物のうち、どこから信用できないのかという判断において、「1981年に、特異なパターンの中期以前の旧石器群を発掘して以降」というのは妥当な線だと思っていたですが、上記の疑惑に根拠があるとすれば、
「縄文草創期の土器群」
「1976年か1979年の座散乱木発掘調査の時点」をも、信用できないということになるからです。

 はたして、1972年に発掘に手をそめて以来、藤村氏がかかわった調査のうちで、検討に値するのは、いったい、いつまでのものということになるのでしょうか?

08598 RE^2:Res2《RE:座散乱木への伏線》

00/11/25 19:20 08579へのコメント

また、藤村氏の一連の「前期旧石器」の発見の原点が山田上ノ台遺跡であることは多くの市販書籍(日本考古学を見直す 縄文の生活誌 など)にも書いてあることですが

 ようやく、

をゲット。

 いやあ、事態は想像をこえているなあと認識したはずだったのですが、さらにそれよりも想像をこえていましたね。

 で、とりあえず、軽卒な発言をするなとのツッコミが入った山田上ノ台遺跡発掘の経緯について、紹介する。

 山田上ノ台は、住宅開発計画にともなう、開発を前提とした調査発掘である。
 で、予備調査に際して、アルバイトで、実は談話会事務局を担当していた山田しょうによって、ローム層から旧石器らしき遺物を発見、1976年の座散乱木発掘の「実績」をもった石器文化談話会に協力が要請される。多賀城調査研究所を辞職していた鎌田がこの要請を受け、東北大学大学院生だった梶田洋と藤村新一に声をかけた。ここで、石器文化談話会が全面的に協力することとなった。

一九八〇年以後になりますと、上記のような旧石器探求の流れが、私が勤務しておりました東北大学にある仙台市付近にも波及いたしまして、最初に仙台市内の山田上ノ台という遺跡が発見されました。ここでは江戸時代から縄文時代までの、あまり古くない遺跡の調査を仙台市教育委員会が行なっていたのですが、たまたま風倒木のような大きな根の痕があって、その底を丁寧に掃除している時に、仙台付近に住む藤村新一さんが石器を見つけました。それは早水台からでたようなチョッピング・トウールであります。 (芹沢、93頁)
同じ年の9月、仙台市にある山田上の台遺跡の発掘調査が実施されました。調査員として参加した私が、かろうじて一人だけ入れる穴に潜って地層の観察を続けていた時、お尻にあたる石があった。「なんだろ?」と思って掘ってみたら、まさにそれが旧石器だったという、運命的な出会いをしました(笑)。座散乱木や馬場壇Aのときとは違って、今回は本格的な発掘調査の最中に発見されたものなので、前期旧石器に否定的な立場をとる人々も認めないわけにはいかない。「ああこれで考古学の歴史が変わるかもしれない」と思ったものです。 (藤村、116頁)
九月三〇日の夕方にも、遺跡の重要性を宣伝するために、記者会見を開くことにした。こんな話が残っている。その前日、早坂が市教育長の藤井黎に「明日、記者発表を行います」と報告した。教育長は、「どうせなら日本最古の石器でも発見して、景気よく発表したらどうかね」と軽口をたたいたという。ところが、<名人>が休暇をとって参加する、本当にその通りになり、事態は急展開したのである。
 その九月三〇日の朝、藤村は縄文時代のものであるピットに入って、穴の側面を削っていた。そのうち、壁面から何かが尻を向けるような格好で顔をのぞかせているのに気が付いた。層位は段丘礫層直上である。「おーい。変なものがあっどー」と、穴の中から藤村は声をあげた。どれどれ、と集まってきた仲間たちは、口々に抜いてみろや、と藤村をうながす。藤村は、土層の中から、注意深くその石ころを抜き出した。<中略>剥片を取り去ったような剥離跡が見えるではないか。その時、鎌田は、所用で多賀城の幼稚園に帰っていて不在だった。旧石器を見なれた梶原が、その石片を観察した後、興奮に息をはずませて、こう言い切った。
「早水台の石器に似ている」 (河合、63-64頁)
  <中略>
 その夕刻に行われた記者会見は興奮のるつぼにあった。出てきたものは石器に間違いない、と芹沢は折り紙をつけた。しかも重要なことに、この石器は、蔵王産から三万年前に噴出したことが分かっている川崎スコリアの下層から出土したのである。つまり、出たものが、前期旧石器であることは、ほぼ確かなのだ。これまで断面採取でこそ、前期旧石器は発見されてはいたが。、発掘調査で掘り出されたことはなかった。「発掘調査による」宮城県下では、最初の前期旧石器文化の確認だった。
 衝撃が県内を駆け巡った。<中略>こうして教委は、事の重要性に鑑みて、今までの調査態勢とは別に、一〇月一三日にから、特に旧石器のための確認調査を行なうことになった。 (河合、65頁)
  <中略>
ところが、よくあることだが、新たな発掘態勢をとったのに、目的の前期旧石器はなかなか出なかった。<中略>
 そんな苦しい日が一月ほど続いて、やっと設定した発掘区から前期旧石器が出土し始めた。藤原(*)によると「態勢を組み直してから、僕が最初に前期旧石器を発見したのです」という。 (河合、66頁)(*東北大学院院生藤原妃敏)
 その数日後、交友こそあるものも、学説的に芹沢と対立している小林達雄が山田上ノ台にやってきた。仙台市教育委員会の早坂からの要請によるものだった。
「さあ、小林先生が来たんなら、みんなして石器だすべ」。藤村は、そうかけ声をあげ、発掘地に向かった。ついている時は恐ろしいものだ。実際に、藤村の屈託のないかけ声の通りになった。白いチャート製の尖頭器が、タイミングよく土の中から、本当に出てきたのである。しかも、小林の見ている目の前で。
 石器を手にとって観察する小林の体が震えていた。「これは石器に間違いない。これなら、私にも石器だと分かる」。興奮しながら、小林はこううめいた。 (河合、67頁)

というわけで、「引用」は内容的にも、量的にも、引用行為をするがわの記載が、半分以上をこえる場合にのみ許されるのだけれど、
 この場合、詳しく推理とか印象とかいいたいことを残らずを語ると、某方面からイチャモンが来そうなので、なるべく控える。

 要は、特異な、ただし、縄文期のものとすればまったく不思議はない、特定のパターンをもった時代錯誤的オーパーツが本格的に出現する以前から、実にもう、絶妙なタイミングで、藤村氏による大発見/発掘がなされていたということです。
 記者会見のその日の昼間だったり、東京からわざわざ批判派の先生がみられる、その目の前での出土だったり……。

 で、座散乱木の第1次発掘だが、1976年の10月29日から11月4日まで実施された。

 そして、

下層の六層中(後に第二次発掘調査で、六層はさらに細分され、六C層上面に変更されたからは、わが国最古の動物の形を模した土製品が発掘された。何かをかたどった焼き物としては、チェコスロバキアのドルニ・ベストニッツェに次いで、世界で二番目に古いものであった。もちろん、わが国では最古のものである。<中略>
 ついでに言っておけば、この土製品も藤村が掘りあげた。この発掘に参加していた渋谷義嶺(岩出山在住、農業)は、今にいたるも談話会の最長老だが、渋谷によれば、それも「あれは不思議な男だよ。ま、ツキ男だァね」と、彼の強運んい対する感嘆のタネになる。そう言っておいてから「トレンチのスレスレだよ、あのあたり屋に動物形土製品があたったのさ。でも土ついてんだ、藤村君は、尻ポケットに差しておいた刷毛で、基本通りに土を払ったのさ」と、その時の模様を話す。

 この「土製品」が本当に人工物であるなら、たとえ火を通していなくても(普通は火を通すと思うが。事典には土偶とは土を焼いたものとあったぞ)、自然物かどうかの判定や、その素材の鑑定、年代の特定は容易と思えるのだが、きちんとした調査はされているのだろうか?
 また、

より下層の6c層上面からは羽状縄文土器、日本最古の動物形土製品が、有舌尖頭器、鏃状の小形尖頭器などとともに発掘された。

との記述の「ともに」を、同じ発掘調査時に、と解するなら、

 土器型式の、確立された編年に対する、まるで、意図的に別々の時代の遺物(アーティファクト)が混入されたかのように思える「混乱」は、
 すでに1976年に、はじまっていたことになる。

 これは、コレクションの延長である、地表や崖面からの採取調査や遺跡位置の確認をのぞけば、藤村氏が本格的な調査発掘を開始した、ほとんど最初から、オーパーツが混入を開始したことを意味する。

08607 RE^2:座散乱木縄文オーパーツ?

00/11/29 22:13 08595へのコメント

これから泊まり掛けで出かけるので、詳しく書けませんが、日曜日にある勉強会で教わり、一昨日、関連報告書を多数閲覧して確認した点からも、座散乱木第1次調査から、不思議な現象は発生しているようです。

 ようやく今日、某大学の、非常勤で教えてる学部とは別の場所の本校舎に行って、学内OPACでもないはずだったのに、でも、棚にはしっかり実在した座散乱木発掘調査報告書の3点セット+1(1983年のシンポジウム記録)をコピーしてきました。
 その代わり、学内OPACでは存在するはずの、山田上ノ台の報告書があるべきところになかったりして……。

 で、ざっと読んでみましたが、にゃるほど、座散乱木1次調査(1976年)の時点ですでに、もしも地層の策定が正しければ、そんなとこにはあるはずがないんじゃないかと素人ながらに思ってしまう、11,000年以前の肘折パミスよりも下の「縄文のある縄文土器」や、やっぱり、いくらなんでも時代が違うんじゃないのっていう、押圧剥離で作られた(報告書に明記されてます)「旧」石器がしっかり出土してますね。
 このあたりの問題は、小沢さんやキーリーさんも、英語のレター本体では詳しく扱ってるみたいですけど、専門用語への無知と英語力のなさで、まだ読解できてませんです(~_~;)。

 で、さらに、馬場壇の報告書から、「炉跡」問題の該当箇所だけコピーしてきました。

また、岡村氏が、多くの概説書で馬場壇A遺跡から自然科学的手法で炉跡が確認されたと執筆しており、馬場壇Aが確実に遺跡であるという印象を与えていますが、分析者は決してそのようには言っていないことも確認できました。

 ですねえ。
 おまけに、その後の同じ馬場壇の発掘報告書には、炉の直下の土の温度は、cmを最小単位とするような長さぶん深くなるだけで、たかだか100度Cくらいにしかならず、一時いわれたような600度Cなんて領域は狭すぎて、磁気アノマリーなんてほとんど検出できないと、ほとんど明記したも同然の箇所もありますね。
 大原B遺跡で磁気計測をおこなった研究者は、ここにも存在した局所的な磁気アノマリーの発生要因として、落雷をあげています。馬場壇Aの最初の発掘では、レポート本体では、落雷の可能性は否定され、中に掲載された担当研究者の報告ではふれられてもいませんが、
 磁気逆転の時期に、たまたま、炉の遺構が形成され、熱で磁場を失ったのちに、現在の地球磁場とは反対向きの、弱い弱い地球磁場が刻印されたと考えるよりは、落雷による電流によって、既存の刻印磁場の焼失と同時に、地球磁場とは無関係な方角にきわめて強い双極磁場が形成されたとするほうがずっと納得がゆきますもんね。
 さらに馬場壇Aの二度目の調査では、炉で焼かれた植物体のプラント・オパール量が局所的に増加するという可能性が検証されたが、測定結果は逆の値になったとも記されています。もちろん、これは炉のあとではなかったという直接の証明ではありませんが、傍証にはなりえます。

 また、前期旧石器の出土層が、座散乱木では、火砕流のどまんなかだという問題(そもそも遺跡がのった段丘の基底そのものが、火砕流で形成されてるんだ!)も、上の境界域については言い訳もありうるかもしれないけど、下(座散乱木の15層)の方については、わからんって逃げたまんま、ずっと説明がないみたいですね。

08610 RE^3:座散乱木縄文オーパーツ?

00/11/30 01:01 08607へのコメント

押圧剥離で作られた(報告書に明記されてます)「旧」石器

 押圧剥離で再加工され、刃面をとぎだされた尖頭器ですね。

 で、これって微妙な年代みたいなんですけど、藤村氏がらみ以外の発掘で、縄文時代以前に、はっきりとした形で、このような加工がなされている例ってあるのでしょうか?

「ゴッド・ハンド」をめぐって

02255 RE:ゴッド・ハンドとは何か?

00/11/12 19:33 02250へのコメント

2 極真空手の創始者大山倍達は、若い頃、アメリカ遠征し、体格がはるかに上回るプロレスラー相手に連戦連勝。「ゴッド・ハンド」と讃えられたという。しかし、生前から、「本当にプロレスラーと闘ったのか?」と"疑惑がささやかれ続け、関係者の努力にも関わらず、現在も、誰もが疑う余地の無い確実な証拠は得られていない"

 大山さん先生は、小心な詐欺師ふぜいとは次元が異なる次元のお方ですから、その場の気分で、どんどん言うことが、真実らしき方へも、ホラの方へもシフトしてます。
 で、上記の件は、先生の過去の膨大な著作や、お亡くなりになられるちょっと前の聞き書き、死後の松井館長の思い出話などをチェックすると、だいたいのところがわかります。
 で、そんなのどこで手に入れるんだって疑問がおありの方は、けっこうまめに納品されているんで、国会図書館にあたるもよし、所蔵数は少ないが、例えば都立中央図書館にあたるもよし、また、東京近辺なら『東京ブックマップ』とか、マニア向けショップ案内各種で、新世代の古本屋なぞをさがすと、中には、先生の著作ほとんどを用意してある店なんてのもあります。
 また、あくまでも歴史の確認のためではなくフェティッシュなコレクションとして集めたいなら、ネット上の古本ショップや、オークションもありますが、前者は高い上に網羅的な購入は無理だし、後者は、こうしたテーマだとまだまだ未発達でめったに出ない上に馬鹿高いです。

 意外に手に入りにくいのが、上記の膨大な「記録」を比較検討、整合させた検証などがのっかっている「紙プロ」などのマニア・メディアとその関係の出版物のちょっと古いものでして、前出のマニア向け古本屋や格闘技に純化した専門ショップで購入するか、そして、そこで知り合った店長さんや常連に借りるかしかないみたいです。

02262 RE^2:ゴッド・ハンドとは何か?

00/11/13 09:34 02256へのコメント

B おかしなことをいうな。大山先生に失礼だ (まさか)

 総裁はおかしなことを言われたことは一度もありません。

 でも、おもしろいことならいっぱい言ってます。

 で、「紙プロ」などの二次資料ではなく、昔のご本なぞ読み比べると、いやあ、実に奧が深い面白さが……。

      そうなんです、ここでもまず一次史料から…… 花關索/永瀬唯


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