☆桃兎の小説コーナー☆
(09.06.30更新)

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 ドラゴンマウンテン 第二部

  第二話  ここは死都アランカンクルス  

   6 首魁は心を喰らう

      16

「ははん……いいね、最っ高に漲るね! 満月の魔力は最高だぜ!」
 真円の月を仰いで悪魔が笑う。
 蝙蝠の様な羽を大きく羽ばたかせ死都の空をぐるりと旋回しながら、インキュバスは緑
色の髪を物憂げにかきあげた。
「犬と竜……、竜はぼろぼろに弱っていて、犬のほうは……はぁん、そこそこってとこか」
 眼下では激しい戦闘が繰り広げられており、悪魔の手下のガーゴイルがホーラとガント
に向かって容赦なく攻撃している所だった。
「で、ガキは……と」
 インキュバスは怪しく光る赤い瞳を、二人の奥で座り込む少女へと向ける。
 少女は座り込んだままピクリとも動かず、大規模の魔法を使った反動で最早戦闘できる
状態ではない様子だった。
 それに、何かに震えている様でもある。
「へたれてんな、敵じゃねぇな。……と、ん?」
 少女から目を逸らそうとして、何かに気付きもう一度視線を戻す。
 少女から感じ取れる感情は、極度の疲労と不安。
 ただ、その二つの感情の後ろのその奥に『何か』がちらついて見える。
 その『何か』に、インキュバス――淫魔の本能が確かにピクリと反応した。
「……ほぉう、あのガキ、『女』か」
 見た目に反して、少女が既に『女』の体である事を見抜き、淫魔は少し驚いてみせる。
 そして二つの感情の後ろにあるそれが、<魔>の魔力の影響をうけて強く揺れている事
に気付く。淫魔である自分が間違えるはずも無い。
 その感情は、間違いなく『性的な衝動』だった。
「あの女、快楽を知ってやがる。しかもかなり仕込まれてるじゃねえか。体が覚えてて、
<魔>に揺さぶられて……やべぇ」
 淫魔の表情が淫らに歪み、口の端がニヤリと上がる。

 淫魔・夢魔は、人の生気を糧とする下級の悪魔だ。
 男の淫魔はインキュバス、女の淫魔はサキュバスといい、それぞれ美男美女で魅了や誘
惑を得意としている。
 夢や幻覚で人間をたぶらかし、淫らな行為でもって生気を啜る、人間にとって非常に厄
介な悪魔、それが淫魔・夢魔なのだ。

「ガキだと思ってたが……これは旨そうじゃねぇか」
 下ではガーゴイルが一体、また一体と破壊されているが、淫魔は少しも気にしてはいな
い様だった。それどころか、少女を守る様にして奮闘する狼の姿をみてより一層ニヤニヤ
と笑い出した。
「ふぅん、あの犬、あの女を守ってやがる。しかも相当必死だな。……戦い方が無茶苦茶
だ。っていうか、……ただの犬じゃねえな」
 石の体を持つガーゴイルが宙を舞い、直滑降で狼を狙う。
「ガウウウウ!」
 狼は牙を剥いて吼え、エンチャントした腕で渾身の一撃を放つ。石であるガーゴイルを
打ち砕く勢いだが、狼の腕では流石に上手くはいかない。ガーゴイルの片腕を砕いただけ
で、大してダメージを与えられないでいた。
(くそ……人の体ならば……ッ!!)
 本来のガントならば、石で出来たガーゴイルくらいならその拳で簡単に砕いてしまうだ
ろう。打ち抜くのが困難ならば、掌底で中から破壊する事だってできる。
 だが今の体では、上手く芯を捕らえない限り少しづつ砕いていくのが精一杯なのだった。
 思うように戦えない体に苛立ち、狼はぐるぐると唸る。
 後ろを見れば、立ち上がる事すらままならないマリンがいる。
 自分より後ろに奴らを行かす事など、絶対にあってはならないのだ。
「ガントレット! 少し下がれっ! 我が引き受ける!」
 苦戦する狼に向かって、ぼろぼろの竜がガーゴイルを踏み砕きながら大きく叫んだ。
『……そうしたい所だがな!』
 退いて体勢を整えようにも、ガーゴイルが次々に襲い掛かってくるので下手に動くこと
が出来なかった。流石のホーラも、弱った体では何体もの魔物をまとめて相手にする事が
出来ず、中々こちらに近づけない様子だった。
 不意にガーゴイルの一体が、動けないマリンめがけて宙を滑る。
「く、る……!」
 呼吸を荒げながら、マリンは転がりかわそうとして……凍りついたように固まった。
『マリン!!』
 マリンが避けきれないのを察して、狼が地面を蹴り、ガーゴイルとマリンの間に銀色の
塊が割って入ってきたからだ。

(い、いや)

 ドクン、と大きく心臓が揺れる。
『……ッ!!』
 割って入った狼はガーゴイルの体当たりを受け、石畳に叩きつけられて低く唸る。
「や……」
 狼は口の端から赤い泡をふきながらも、何事も無かったように立ち上がりガウッと短く
吠えた。ブン、と振り抜かれた深紅の義手が、ガーゴイルに直撃する。
 ガゴン、という鈍い音が鳴り、石造の魔物に幾筋ものひびが走った。
 石像の真芯を捕らえた攻撃がガーゴイルを内から砕いたのだ。
「ギ、ガ……」
 濁った声を発しながら、ガーゴイルがばらばらと崩れていく。
 狼は石像を後ろ足で蹴り飛ばしがふぅと息を吐き、そしてすぐに後ろにいる少女へと駆
け寄った。
『マリン! 無事か!?』
 駆け寄った狼が見たのは、怯え、涙を流す少女の姿だった。
『マ、マリン……?』
 少女は肩を震わせ、ふるふると首を振る。
 そして、小さな声で「やだ」と呟いた。
『……どうしたんだ、マリン?!』
 飛び回るガーゴイルを警戒しつつ、ガントはマリンに一歩近づく。
「ガントぉ……もう、いやなの!」
 涙をぽろぽろと零し、少女が叫ぶ。
 そして不意にとった少女の行動に、狼は固まった。
 マリンの腕が、震えながらガントを抱きしめていたのだ。
 血まみれの両手を震わせながら、少女は必死に狼を抱きしめていた。
『な、何だ?』
 戦闘中にあるまじき行為に、狼は眉を寄せ困惑する。
 だがマリンは離そうとせず、首を振るばかりだ。
『何だ? 離せ、でないとお前を……守れないだろう!』
 激しく唸る狼に、少女は一気に涙を溢れさせる。
 そして何かを否定するように激しく首を振るのだ。
「解ったの、ずっと、なんで不安だったのか。今はっきり、わかったの」
 途切れ途切れになりながら、少女は必死に言葉を紡ぐ。
「そんな風に私の盾になんか、ならないで、かばったりなんか、しないで」
 震える声が、狼に訴えかけていた。
 心の底から、叫ぶように。


「そんな風に盾になったら、ガントが、ガントが……死んじゃうよ!」


『な……』
 予想もしなかった言葉に、ガントは目を見開く。 
「傷ついてなんか欲しくないの! 私の為なんかに死んで欲しくないの!! 嫌なの……!
これ以上……いや、怖いの! あの時みたいになんか、もうなってほしくないの!」
 マリンの脳裏に浮かんでいたのは、あの夜の光景だった。

 ワーウルフとなったガントが呪いを受け、狼になってしまったあの夜の出来事。

 死んでしまったのではないかと恐怖した、あの時の心。
 生きている事に、死ぬほどほっとした事。
 腕を失い、さらに獣に変えられてしまったガントを見るたびに感じたせつなさ。
 山を登りながら感じた不安。
 妙に優しい狼の後姿を見る度に辛かった理由。
 
 マリンは今、それを完全に理解したのだった。


 自分が傷つくよりも、愛する人が傷つく方が、ずっと辛くて怖いのだという事に。


(俺は……盾になる戦い方をしていたのか)
 いつもよりも無茶な戦い方をしていた事に気付き、ガントは少し自分を振り返る。
 狼にされてから、マリンをいかに守るか、ずっとそう考えていた。
 思うように動けない体では出来ない事の方が多い。だから多少の自分の犠牲など仕方な
いと思っていた。思うように動けない焦りもあっただろう。
 だが。
「ガルウウ!」
 再び狼は牙を剥き、こちらに向かってくるガーゴイルに向かって吼えた。ガーゴイルが
一体、こちらに向かって急降下していたのだ。
 ガーゴイルの狙いは動けない獲物、マリンだ。それを確認したガントは、再び立ちふさ
がった。そして、何の迷いも無く飛来する石像を深紅の手甲で打ち抜いた。
 まるでぶつかり合うように。
「ガント!!!」
 マリンは狼の名を必死に叫んだ。
 だが、狼は声を聴かず、次々に飛来するガーゴイルに立ち向かい一歩も引くことはない。
マリンの前から離れず、ひたすらに石像を打ち抜いていく。
「やめ……て!」
 少女の悲痛な願いを否定するように、狼は首を横に振った。
 自らの体のあちこちに滲む赤い血を振り払うように。

『お前がどう思おうと関係ない。なにがあろうとお前を護ると……決めたんだ!』

 マリンの脳に響く低い声が、強く叫ぶ。
「ガントレット! 今そちらに行く!」
『頼む!』
 ホーラが翼を打ち、低空を飛んでガントの横に立ち並ぶ。そして残ったガーゴイルを金
色の半眼で睨みつける。
 残りのガーゴイルは三体。
 あと少し、そう思いながらも、ホーラは二人を見て眉間に皺を寄せた。
「……何を泣かせておるのだ、ガントレット」
『……俺は、俺は唯、あいつを…………』

 愛しているだけなのに。

 マリンにそれを否定されたようで、狼の心がわずかに揺れた。

 マリンはようやく見つけた大事な存在だ。
 何物にも変えがたいと思うし、手放す気など全く無い。
 マリンを守るためなら、自らの腕のなど安いものだ。失った事に何の後悔もない。
 マリンが呪いで苦しめられるなら、自分が苦しむほうが遥かにいい。
 狼の姿である事の焦りはある。人間ではないこの姿は、不都合も多く、心を不安定にさ
せる。
 だからと言ってじっとしていられる筈が無い。
 獣の手が、この腕がこれ以上マリンを苦しめるなと、叫んでいる。
 

 今の俺が出来る事は、せめてこの腕と牙で、向かうものすべてに抗う事――


 狼の紺色の瞳が少女を写し、そして襲い来る魔物を捉える。
 そんな狼を、竜は金色の瞳で見下ろしていた。
 そしてぎしりと眉を軋ませた。
「……とにかくガーゴイルを始末してからだ。その後で……悪魔を屠り――終わらせる!」
 闇竜の半眼が死都の上空に浮かぶインキュバスを捕らえ、怒りで揺れる。
『あぁ。……でなければ、こちらとて呪いと戦う事も出来ないからな!』
 一体のガーゴイルが急降下するのにあわせてホーラとガントはギンと構え、申し合わせ
たように連続で攻撃を叩き込んでいった。
 その様子を上空で眺めていた悪魔が、口を歪ませた。
「はぁん、やっぱあの程度の魔物じゃ殺せない、か? 多めに呼んだってのに」
 次々と数を減らすガーゴイルを見ながら、淫魔は赤い目を細め口を尖らせる。
 だが、未だ動けない少女に目をむけるとニヤリといやらしく笑った。
「ちょっと腹が減ったよな。ガーゴイル、呼び過ぎたわ」
 淫魔がパチンと指を鳴らすと、その音に反応して残り二体になったガーゴイルがぎいぃ
と叫ぶ。
「お前らはこいつらと遊んでろよ! ひゃひゃひゃひゃ!」
「なっ!?」
『!?』
 ホーラとガントに向かって、ガーゴイルたちが当たって砕ける勢いで急降下する。
 それを見たマリンが思わず叫ぶ。
「ガント! ホーラ! 逃げてえええええええ……っ!?」

「にがさねぇよ、女」

 突然、目の前に現れた悪魔にマリンは声を飲み込み目を見開く。
 大きく見開かれた茶色の瞳に淫魔の赤い目が映りこみ、そしてマリンの目からすうっと
光が消えていく。
「ガ……ント……」
『マリンッ!!』
 それは、急降下するガーゴイルが狼に直撃し怯んだ一瞬の隙の出来事だった。
『ガ……ッ!! クソッ!!!!』
「マリンの精神に入りこんだな、あの淫魔……!」
 向かってきたガーゴイルを太い尾で打ち砕き、ホーラが振り返ったその時には、もうイ
ンキュバスの姿は無かった。
『精神に……? どういう事なんだ?!』
 死都の上空から突然いなくなった淫魔に困惑しつつ、ガントは慌てて倒れこんだマリン
に駆け寄った。
「あいつら淫魔は知っての通り淫らな行為で生気を啜る。それは何も実体でやらなねばな
らないわけじゃない。精神世界、つまり心に入り込んで『同じ様にすれば』生気が吸える。
……これでは我らが手出しできん。それを解ってマリンの中に……小賢しい!」
『何……だ……と?』
 狼の全身の毛が逆立ち、深い紺色の瞳に怒りが燃える。
『くそ! どうすればっ!』
 マリンの瞳に光は無く、揺らしても甘噛みしても目覚めない。
「本人が跳ね除けられればなんの問題も無い……だが、マリンが耐え切れるのかは解らん
な。奴らは狡猾だ。……直接、マリンの中に訴えることが出来れば別だが……!」
『直接……』
 狼は気を失ったマリンに頬を寄せ、そして何かを決めた様に一歩後ろへ下がった。
『…………解った。ホーラ、それが解れば十分だ』
「? ……ガントレット?」
『丁度いいさ。……一石二鳥だ』
 狼はマリンから離れると、満月を仰いだ。
 真円の白い月は、鮮烈に輝いている。降り注ぐ魔力を全身に感じながら、狼はふっと笑
った。月の光にやさしく照らされている少女に微笑みかけるかの様に。


『俺がマリンを救い出す。……俺以外に、マリンを好きにさせてたまるかッ!!』


 ぎりりと牙を鳴らし、狼が足に力を込める。
 満月の魔力を全身に浴びながら、狼は月に向かって吼えた。

 

 

 

 

     17

「……ん、んう?」
 光に目が眩み、気がついたら……そこは森の中だった。
「あ、あれ?」
 マリンは周りの景色を見て、慌てて倒れていた体を起こして周りを見回した。
「なんで、ここ、迷いの森……なの?」
 見覚えのある深い木々。
 薄暗い森の向こうからは、魔物の声が遠く響いていた。
「死都に、いた筈、だよね? ガント、ホーラ?!」
 訳もわからず、マリンは大きく叫んだ。

「思ったより元気じゃねえか、女」

 不意に背後から聞こえた耳障りな声に、マリンは飛びのこうとする。が、疲労のせいで
バランスが崩れ、その場にべしゃりと倒れこんでしまった。
 そんなマリンを赤い瞳でゆるりと眺めて、男はひゃひゃひゃと笑う。
「逃げてもムダだよ。ここは現実じゃねえからな?」
「…………。幻術、幻……って事?」
「ご名答。さすがアレだけの大魔法を行使する魔法使いってだけあるな」
 マリンは、身を起こして辺りを窺う。
 さわさわとこすれ合う葉の音も、勝手気ままに映えている生命の木々達も、殆ど完全に
迷いの森を再現していた。手に触れる草の感覚も、木の根の荒さも、リアルすぎて違和感
が無い。いや、もうまんま迷いの森といってもおかしくない程だ。
 高度に再現された風景に、マリンは恐怖を感じた。
 精神世界に風景を投影するのは幻術系の魔法でも比較的初歩と言われるのものだが、こ
れ程までに再現してくるというのは目の前の男の魔術が余程優れているのか、もしくは、
自分自身がこの男の幻術に完璧にハマってしまったという事だからだ。
「イン……キュバス」
 目の前にいる男を見て、マリンの背筋がゾクリとなる。
 魅惑の視線で相手を惑わし、誘惑し、生気を啜る悪魔。
 そしてその方法は、性的な行為によって、という事をマリンは知っていた。
「そう、でもオレの名前はディザイアって言うんだ、どうせこれからイイコトする関係に
なるんだから、覚えとけよ」
「じょ、冗談じゃないわっ!」
 マリンは真っ赤になりながらも、キっと淫魔を睨みつける。
 怒りに満ちた目で睨まれ、だが淫魔は嬉しそうに口の端を歪めた。
「オーケーオーケー、どんどん抗ってくれよ? その方がこっちも楽しいし、いい飯にあ
りつけるってもんだからな」
「な……、きゃッ!?」
 動けないマリンの腕を、淫魔の両手が封じる。
「お前、疲れて動けないんだろ? な、どうやって抗ってくれるんだ?」
 両手を封じられ、背後は森の木。
 つかれきった体で抵抗も出来ない。
 だが、こんな知りもしないヤツに……だなんて冗談じゃない。
「な、折角なんだ、楽しもうぜ? 大丈夫だ、オレ無しじゃ生きられないくらいの快楽、
教えてやるからよ」
 不意に顔を近づけられ、ビクリとマリンは目を見開く。
 淫魔は誘惑を成功させるために美男美女ぞろいだと聞いた。そして、目の前の淫魔も、
その情報に違わない綺麗な顔立ちの男だった。
 一瞬、そのハンサムな顔に、どきりとする。
 だが。
「冗談じゃないって、言ったでしょ!!」
 疲れた体に残った最後の元気で、思いっきり淫魔を蹴っ飛ばす。
「!?」
 至近距離で思い切り蹴られて、淫魔は綺麗に吹き飛ばされ、森の木にぶつかってずりお
ちた。
「ふぅ、はぁ……」
 今度こそ本当に疲れ果てて、マリンは森の木にもたれかかった。
「……ち、なんて力だよ、乱暴な女だなぁオイ。……解ったよ、もう優しくなんてしてや
らねえ」
 動けないマリンに、淫魔が首をふりながら近づく。

「抗えないように、してやんよ」

 淫魔は両手で顔を覆い隠し、くくくと笑った。
 ざわざわと森の木々がざわめき、淫魔の姿にゆらりと靄がかかる。

「え……」


 細い体はガッチリとした筋肉質の体に。
 黒い服は赤い革のベストに。
 白い肌が褐色の肌に。
 緑の長い髪は銀色の短髪に。

 赤い瞳は、紺色の瞳に。 


「マリン」
「……っ!?」


 低いやさしい聞きなれた声が、両手の向こうから自分の名を呼ぶ。
「マリン」
「う、うそ」
 すっと両手が顔の前から外されると、そこには愛しいあの男の顔があった。
「ガン……ト」
 その顔は、姿は、紛れもなくガントのものだった。
 偽者だとわかっている。
 解っているのに。
 心が激しく動揺を始める。目の前の男の姿はあまりにも完璧だったのだ。
「マリン、俺はここにいる」
「や、やめてっ……!」
 差し出された両手を振り払い、反射的に拳をふるう。
「っ……!?」
 拳が男の頬を掠り、ぴっと筋を作った。その筋から赤いしずくがつぅっと流れる。
 その姿にマリンはびくりと身を震わせた。

 これは偽者のガントだ。
 振り払わねば喰われてしまう。
 だがそのためにはこの男を葬らなくてはならないのだ。
 自らの、この手で。

(どうしよう、ガント)

 ぽろり、と思わず涙が零れる。
 どんなに偽者だと解っていても、ガントの姿をしたこの悪魔を殺せそうに――なかった。
 ふるった拳が、がくがくと震えている。
 ほんの少し傷つけただけで、このざまだ。
 
 男の手が自分の肩に触れ、優しく抱き寄せる。
「や、やめ……て」
 抗いたかった。
 でも抗えなかった。
 力が出ないのもある。抗う魔力だって無い。
 だがそれ以上に、その両腕に包まれる感覚が激しく心を暴れさせる。鼓動が乱れて、勝
手に息が荒くなる。
 今のガントに無いはずの右腕が、耳まで真っ赤に染まったマリンを抱き寄せる。
「……マリン、怖がらなくてもいいんだ」
 耳元でささやく低い声はガントの声そのものだ。
 マリンはそのまま押し倒され、両腕を男の手で封じられる。
 覆いかぶさったガントが、ガントの姿をした悪魔が紺色の瞳でじっと見つめてくる。
「や……やめて、ぇ……」
 口では否定していたが、体はそうは言っていなかった。
 体は熱く、ひたすらにガントが恋しかった。

 一瞬、夢でもいいから抱かれたい、と願う。

(かかったな)

 一瞬の心のほころびを捕まえ、悪魔はにやりと笑う。
 こうなってしまえば女は自由だ。
 頬をなで、首筋に指を這わせ、荒い呼吸で上下する胸をつぅっと撫でる。
「……っ!」
 涙を浮かべ、嫌がりながら、それでも少女はされるがままだ。
「マリン」
 悪魔はもう一度名を呼び、震える唇へと自らの唇を近づけ――


 ドン!


「な、何だ!?」
 もうすこし、という所で強烈な魔力に押しのけられ淫魔は弾き飛ばされる。
 暴風の様に吹き荒れる魔力。
 魔力を発しているのは横たわる少女だった。
「な、何、この、魔力は何だ!?」
 少女の体の奥から溢れ出す闇の魔力の圧力に、幻のガントの姿が一気に消し飛ぶ。
「……私、負けてた。もう、情けない」
 ゆっくり身を起こし、マリンはふるふると首を振る。
 自分の体から溢れる魔力は、間違いなくあの男のものだった。
 体の中で激しく荒れ狂う闇の魔力。
 まるで「しっかりしろ」と怒鳴られているようだ。
「ガント、ごめんなさい。……私が、私がこんなに弱いから、ガントを心配させちゃうん
だよね」
 よろりとたちあがり、マリンは淫魔を睨み付ける。
 血に濡れた手のひらを淫魔に向けて、短く高速で呪文を唱える。
 ガントの魔力が気持ちいい。
 どこか満たされた気分でマリンは魔法を放った。
「ここから立ち去れ!」
「……クソッ!!」
 マリンの手から放たれた光に耐え切れず、悪魔は瞬時に姿を消す。
 同時に周りの風景が真っ白に変わり、淫魔を心から退けられたのだと確信する。
「ガント……」
 暴れる魔力に悶え、ぐらりと膝をつく。
「ん……、ふあぁっ」
 普段なら穏やかになっていく筈の魔力が、一向に収まらない。
 ガントの魔力が流れてくるという事は、向こうでガントが変身しようとしているという
事だ。一体どういうことなのか事情がつかめず、悶えながら自らの身を抱きかかえる。
「どうしたの、ガント!? ……もう! 寝てる場合じゃないわよ私! 起きて!!」

「んあっ!」

 自分の心の叫びに起こされ、マリンは目を開く。
「マリン! 目覚めたか!」
「ほ、ホーラ!?」
 人の姿になったホーラに抱きかかえられていた事に気づいて、思わずびくりとなる。
 だが、体から溢れ出す魔力にはっとなり、マリンは辺りを見回した。
「ホーラ、ガントの魔力が……!」
「あぁ、全く――お前の男はとんでもないな。お前を救う為になら何の迷いもない――が」
 ホーラに指し示され、マリンはそっちへと目を向ける。

「ぐ、ガあぁ……!」


「え、……何?」
 狼が、四肢を硬直させ、魔力が溢れるままに唸っていた。
「が、ガント!?」 
「あいつの呪いを打ち破る方法はひとつだ。自らで呪いを内側から粉砕するしかない。要
領は変身する時と同じようにして自らの魔力の入り口を解放させ、月の魔力を取り込みそ
の無限の魔力で押し壊す事だ。しかし――リスクは高い。お前を目覚めさせる為というの
もあったのだろうな。ガントレットは自ら打ち砕く道を選んだ」
「うそ……そんな、そういうのって危ない筈……!」
「そうだな。内側からの呪いの痛みもあるが、ガントレットは半人半獣だからな。過度な
魔力の使用は……体だけじゃない、精神にも影響がある」
「……っ、ガント、ガント!!」
 マリンの呼びかけにも応じず、それどころか魔力の奔流は勢いを増していく。
 もうこれは魔力の暴走といって間違いない状況だとマリンは確信する。

「だめだよ、ホーラ、魔力が、――暴走してる、ふあああああっ!!」

 暴れる魔力が問答無用でマリンを打ち抜く。
「……、ん、はぁ……ガン、ト……!」
 熱く駆け抜けた感覚にしばし身を委ねながら、潤んだ瞳にガントを映す。
 

 月の光に照らされ、銀色の狼がまぶしく輝く。
 魔力の風で毛を煽られながら、狼は声にならない声で夜空に叫んでいた。

 

 
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