ジョージ・シーガル
展覧会名:ジョージ・シーガル
会場:セゾン美術館
日時:1996年8月9日
入場料:1200円



 火山灰の下に埋もれたポンペイの街を掘り起こしていると、灰の中にポッカリとに抜けた空間が見つかるという。そっと石膏を流し込んで固め、それから灰を取り除くと、熱さに全身をゆがめた格好で息絶えた、古(いにしえ)のローマびとの姿が、何千年という時を隔てた現代に、白いヒトガタとなって蘇る。

 もし今、私たちの暮らすこの都市が、一瞬のうちに灰の下に埋もれたとしよう。汗を拭きながら信号待ちをしているサラリーマン、短いスカートのすそを翻して繁華街を歩く女子高生、公園で鳩にエサを投げ与える老人。そのほかすべての人々が、瞬間の形象を凍りつかせ、長い眠りにつく。

 いつか誰かが都市を掘り起こす。そして灰の中の空間に石膏を流し込む。掘り起こされた都市の形象に、何を見いだすことだろうか。時代を流れる不安? 繁栄をおう歌する歓喜に満ちた表情? 世紀末に顕著な退廃的な表情?

 セゾン美術館で開かれている「ジョージ・シーガル 型取られた都市生活者の日常」は、未来の生活者たちが石膏像から感じ取るであろう、現代の、つまり彼らにとっては過去の私たちの心象を、ほんの少しだけかいま見せてくれる。生きている人から型取りし、石膏を流し込んだだけの人物像。今にも動きだしそうで、けれども決して動き出すことのないヒトガタの表情からうかがい知れるのは、喜びでもなければ悲しみでもない、不安気な彼らの生活者ぶりだ。

 世紀末への不安、人生への不安、生活への不安。今を生きている私たちが感じている諸々の不安が、像を通してふたたび自分へと跳ね返り、無表情な彼らに表情を与えているだけなのかもしれない。未来の人が見いだすのは不安か、孤独か、恐怖か、怒りか、喜びか。

 これだけはいえる。置かれた逆境から逃避したいと願い、過去の、つまり私たちにとっては現代の人々の表情から、無理に喜びを見い出させるような、そんんな環境に未来の人々を送り込むことだけは、絶対にさけねばならない。そんな時代が今より良くなっているはずがはない。

 無表情なジョージ・シーガルのヒトガタは、無表情のなかに時代の不安を映し続ける。


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