縮刷版2012年5月中旬号


【5月20日】 やっと見た「エウレカセブンAO」はぬいぐるみみたいなおじさんが自爆してその周辺にいた眼鏡っ娘含む3人も病院贈りであの集団が決してモンスターに対して最強にして至上の舞台ではなさそうなことを見せていた。けどそんな中でアオはやっぱり特別なようで乗ったばかりのニルバーシュを自在に操り巨大な敵の弱点をくりぬいて撃沈。やっぱ生まれが違うと強さも違うよね、っていった絶望感をこれで周囲に与えないものかと心配になる。というかあれに乗ってるのってどうして子供たちばかりなんだろう。理由って説明されてたっけ。そして登場の少年にして美女にしておっさんにしてトゥルースとかいうキャラクター。何物だ。つかトゥルースにならなくていいからグラマな美女でずっといてくれ。さもなくばまだ見ぬ美少女に。「交響詩篇エウレカセブン」だとコーラリアンって設定があったけれどもこっちだと異次元人とかになるのかなあ。

 日食月食金環食からコマーシャル。というCMがあったっけ。なかったさ。というわけで買い逃していた金環食の観測用メガネを買いに街まで出かけてとりあえず、秋葉原のヨドバシカメラに行けばあるだろうと思って3階の双眼鏡売り場とかにいったら最後の書き入れ時とばかりにワゴンに乗せエスカレーター脇にもぶら下げて大声で販売中だった。種類もいろいろあって気になっていた仮面ライダーフォーゼの顔の形をしたメガネもあったけれども流石に歳も歳なんで、手塚治虫バージョンから選んでやっぱりこれだと「火の鳥」の模様が描かれたものを購入する。これなら太陽がいくら眩しくたって跳ね返してくれそう。その代わりに顔が丸焼けとかになったりして。

 不具合がどうのこうのって言われているけれども手塚治虫のは確か天体望遠鏡とか双眼鏡でお馴染みのビクセンの製品だからそのあたり大丈夫そう。見たら蛍光灯なんてまるで見えなかったし。それで太陽とかって見えるんだからよっぽど太陽って凄い光を放っているんだなあ。そりゃそうだ、絶対零度のこの宇宙にあって地球を暖めちゃうんだから。仮面ライダーフォーゼのは確かケンコーの製品でこれもカメラのフィルターなんかを作ってたりするメーカーだから安心そう。でも使い終わった後はいったいどうするんだろー、他に流用が効くものでもないし。太陽の前を金星が横切る時の観測には使えるけれどもそれも6月で終わり。あとは日本で金環食も皆既日食も見られる時なんて当分なさそうだからこれはひとつ、11月にオーストラリアからニュージーランドあたりで見られるという皆既日食を見に行くときに使うか。そんなお金はないし。それを観察したい人向けに集めて売るとかしたら儲かるかな。きっと誰か何か考えるだろー。

 女子っていったい何日まで、同じパンツをはき続けられるのかって疑問にひとつ、答えてくれている子がいたけど何しろ腐っているから本当に、それが女子において正しいことなのかどうか分からなくって悩んだ竹井七草さんの「猫にはなれないご職業」(ガガガ文庫)。主役はその女子ではなくって猫又で、陰陽師だった春子という女性の家に変われているうちに歳を重ねて猫又になったんだけれどその春子が死んで、娘はすでになくって孫の桜子だけが残されてしまってその桜子は、気丈にも家を継ぐと親戚一同を追い返したものの肝心の春子の家業については知らずしまい。おまけにそんな桜子を狙って八尾の狐が復活したから猫又は困って桜子ではない人間に助けを借りることにした。

 それが桜子とは同級生の命という少女で、何くれと泣く桜子の家に来て様子を見ていた命が、八尾の狐の操作によって狐の封印を解いてしまったことにつけこみつつ、習性にしているある趣味を世の中に露見させると脅しもして、猫又は彼女を桜子の身代わりとしてまず立てて狐の目をそちらにそらさせ、隙にこんなこともあると育てていた蒼竜を甦られて狐を討とうとする。そんな命が狐に正体がばれたて食われそうになった時、猫又が放った言葉が「その女は腐っておるのだ」という言葉。これには狐も驚いた。

 いったいなにがどう腐っているかというとそれれは例えばボールペンのキャップを外したりつけたりしながらうっとりしたり、鉛筆と鉛筆削りの関係に妄想をふくらませたりするような腐り方なんだけれどもそうした指摘に開き直ってそうだと言う命の言に、偽りがないと受け止めた狐の認識は本来の意味からの腐敗。食べたらどうなるかと迷って結局それで命は食われずに済んだけれども、もしもそれて食べていたとしたらいったいどんな味がしたんだろう。やっぱり腐った味がしたのかなあ。

 という感じに内に腐っている命が家でどう過ごしているかというと3日ルールというのを勝手につくってTシャツでもジャージでも3日くらい洗ってないのなら着て大丈夫ってことらしいけれどもそこにどうやらパンツも入っているらしい。一般常識として1日で替えるなりそれこそ1日に何回か履き替える人もいたりするらしいけれどもそうではない、3日くらいなら大丈夫かもって心理を抱いてそれを実効に写している女性が果たして世界に存在するのか否か。周囲に尋ねられる人もいないんで分からないけれどもそういう人がいて、腐っていておまけに美少女だったらそれはそれでとっっても魅力的だと思うのです。

 さて「猫にはなれないご職業」は狐を倒したものの今度は狐を倒させながらも呪いが帰ってくるのを恐れ封印した犬神が復活して桜子を襲うってんで再び命と猫又が結集。皆を護ろうとして自ら命を差し出しながらもそれを分からず怨みの塊となって飼い主を襲う犬の清十郎がどうにももの悲しい。そんな周囲の戦いや犠牲を知ってか知らずか引きこもって祖母の思いでに浸っていた桜子もどうにか陰陽師として立つ決意、だけどこっちも着物を着たら裾からパンツを見せてしまう粗忽者だけに果たしてどうなるか。続刊での成長なりそろっての腐れっぷりに期待だ。

 違うよな、医療費用が嵩むかどうかってことと、高齢者が尊厳死を選ぶかどうかってこととはまるで違う話だよな。高齢者がたとえ介護を必要としてもそれでも生きていられる社会の実現には、費用が足りないからそうした金のかかる高齢者はお国のことを考えて、道を自分で選べとかいう見解がメディアでもって開陳されてたんだけれども、用済みになったらさっさと退場しなくちゃならない社会とか国のためにいったい、若い人がどーして頑張ろうって思えるんだ、自分たちには訪れない未来だったら今を目一杯に楽しんでしまえという享楽に、向かってそして断絶から崩壊へと至る道。そうさせないために自分たちにも来る未来のために頑張ろうって思わせなくっちゃ国なんて回らないし立ちゆかない。

 これでディストピアなユートピアを描いたSFみたく一定年齢になったらハイサヨウナラと楢山節に至るってんならまだ平等だけれども、現実問題、国とかに頼って生きなくちゃならなくなってくる層ってはつまり、経済的に格差の下に属する層でそうした層をねらい打つように尊厳によって死を選べって言うことははつまり、金持ちは生きよ、貧乏人は死ねって言ってるのに半ば等しい論なんだけれどもそうした理屈を尊厳だなんて美辞麗句に包み隠してしゃあしゃあと語ってのけるその身にだったら、あなたはいらないから退場してって宣告が下されたらいったいどう思うのか、わかりましたと身を投げ出すのか、だったらその前にそうした主張が時流にそぐわず人倫にももとると非難を浴びて媒体の価値を凋落させる可能性を鑑みて、尊厳を保って退いていただきたいものだけれども、そっちへ回る思考でもなし。結局のところは言いたいところを一転突破で周囲への目配せが効いてないのは前の「入れ墨者は今なお罪人」という極論を出した時と同じってことか。はあ。


【5月19日】 能登かわいいよ能登。こと能登麻美子さんを見に行く。じゃなかった、朝も午前7時半には家を出て向かった新宿はバルト9で、今日から上映が始まった長編アニメーション映画「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の上映と、舞台挨拶を見に向かう。すでに1度、試写で見ているけれどその時ですら感涙にむせび泣いた作品。ストーリーを言うならユウタという名の少年が、ダムのそばにある山にひとりでカブトムシを取りに来て、嵐に巻きこまれて濁流に流され気がつくとそこは昭和52年という、少年の生きていた時代からはおよそ30年前後は遡った時代で、自分が見た時はダムに沈んでいた村がまだあって、出会った少女に引っ張られるようにそこに連れて行かれたユウタは、何故か少女の従姉妹だとして受け入れられ、秋はもうみんなが引っ越してしまうだろう最後の夏休みを目一杯に過ごす村の子供たちに混じって、いっしょに昔の田舎の夏を遊ぶ。

 昭和を描いて今の大人に子供の頃を思い出させるというノスタルジーな感動だけなら、他にもいっぱいあるだろう展開だけれど、ここにまずダムに沈む村という要素が入って、そこに暮らしている人たちの離別という悲しみが折り重なって気持を揺さぶる。ケンゾーというダムに沈む村に暮らしているて、未来から来たユウタとすぐに仲良くなった小学6年生くらいの少年にずっと好意を寄せていた芳澤さんという少女も、夏の祭りが開かれる前に村から引っ越して行かなくてはならなくなって、今まで言えなかったケンゾーへの思いをユウタを介して、っていうかまあ彼をダシにして告げ、一夏の一晩の逢瀬を繰り広げてそしてしばしの離別へと向かう。

 何とも切ない展開。また会えるね、絶対に会おうねっていった転校とかにまつわる子供の約束なんて、その後かなったためしがないんだってことを妙に知ってる大人たちには、そんな記憶も重なって余計に切なさが募るけれども、そこは純情一直線なケンゾーだった様子。物語が現代に戻ったところで、ダムの湖に蛍を呼び戻そうと頑張った彼の横にいた女性たぶんあの時の芳澤さんじゃないのかな。離れても忘れないで出会えて結ばれて。そんな関係がちょっと羨ましくなって来た。っていうか無茶苦茶羨ましい。ケンゾーもげろ。爆発しろ。ケンゾーと元芳澤さんが連れてた子供2人がユウタとサエコに似ていたように見えたけれども、一瞬だったんで不明。次に見るときはしっかり見よう

 そしてもうひとつとして、自分とは違う過去という時代に来たことで生まれる離別がある。それはユウタが夏を通じて仲良くなったケンゾーや、面倒をみてくれたおばあちゃんたちと別れなくてはならない寂しさでもあるけれど、それよりもユウタをおばあちゃんの家まで連れて行った、サエコという少女をめぐる離別のドラマがどうにも寂しく、そしてどうにも狂おしい。それはいったいどういうシチュエーションから浮かぶ感情なのかは、映画を観て知って欲しいけれどもとにかく、その道を選んではいけないという切なる叫び、けれども留まったとして何を拠り所にできるのかという懐疑、そんな狭間で懸命に手を差し伸べることで開ける可能性への歓喜といった様々な感情が、わき上がってせり上がってきて知らず目を涙で濡らす。例え出来過ぎかもしれない奇跡でも、訪れて嬉しい奇跡。安寧の中に瞼を閉じて彼と彼女の未来に喝采を贈りたくなる。

 そんなストーリーをしっかりと、昭和50年代の山間部の風景に描いてみせた宇田剛之介監督の手腕に拍手。加えて、そうしたノスタルジックさと田舎の子供たちならではの躍動感を、揺れて動くキャラクターたちの絵の中に表現してみせたアニメーターの人たちにも。まるでいわゆる「アニメ的」とは言えない絵で、イラストや絵本が動いているような感覚を人によって味わうかもしれない。アニメ的な定まって綺麗で可愛らしい絵に慣れてしまった目には、ちょっぴり雑で不思議に映ってしまうかもしれないけれども、やっていることはとてつもなく凄まじく高度なことだったりする。

 どんなにデフォルメされて簡略化された場面でも、あるはアップのシーンでのべつまくなし線が動くような絵にしても、人物としての雰囲気は崩さず、しっかりと動きを見せつつ、それで空気感から心象から表現してしまっているから驚くばかり。日本のアニメーションが持つ技術力の高さ、表現力の幅広さって奴をまざまざと見せつけられる作品として、絶対に崩れず最後まで極めて真っ当に整っている沖浦啓之監督の「ももへの手紙」とは、表現の方法として対局に置かれるかもしれないアニメーション。個人的には内容とのシンクロ具合、それを表現するための必要さって意味で「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」に気持が傾くかなあ。この話を「もものへの手紙」の絵でやっては、受ける印象がやっぱりちょっと違うんだ。

 子役として活躍している少年少女が声優として実に巧みな演技を見せてて、とりわけユウタを演じた武井証さんと掛け合いをやった、青天狗として出演していた大塚周夫さんも驚いたという話。サエコを演じた木村彩由実さんの可愛らしさといったら、能登さんに負けず劣らずとてつもなく。小さくて細くて映画のサエコみたいだったけれども、その淡々と喋る声に反して、映画の方では明るく気丈に見えるサエコから、夜にひとり悲しみを思い出してむせび泣くサエコまでを演じきってみせてくれる。その声を、あの作画による千変万化の表情とともに見るだけでも価値は存分。もう可愛くって頬ずりしたくなる。ふくらました頬をひっぱたりとか。出来ないけどね、絵だし。

 観客を前にしても動じずそしてしっかり自分の考えを言えて世間に対して映画の良さを伝えられる言葉ももった子役の人たちの舞台挨拶に、大人たちも冗談めかしたことは言えないで、ユウタの大人を演じた櫻井孝宏さんも、サエコの大人を演じた能登麻美子さんも、ケンゾーの大人を演じた中井和哉さんも、それぞれに映画の良さ、子供たちの演技への賞賛、そして過去に戻れたら行ってみたいところといった質問に答えて観客を喜ばせつつ、映画の魅力を伝えていた。誰もが参加したことに喜びを感じている映画。見た人も好かったと喜び涙する映画。大スクリーンでやっているうちに絶対に見るべきと断じたいけれど、これほどまでにすべてが重なり合ってかみ合ったアニメーション映画を、新聞メディアあたりは、映画の紹介で小さく扱うくらいでその超演技も超作画も超演出も紹介しようとはしないんだよなあ。もしもこれがスタジオジブリの映画だったら、誰の作品だってでっかく取り上げるのに。見るべきものを見ず伝えるべきことを伝えない新聞の至らなさ。そうやって取り残されていくんだろうなあ、時代から。

 せっかくアニメーションの最良を見られたんだからと新宿から足を伸ばして荻窪にある杉並アニメーションミュージアムまで行って、最良のアニメーションを送り出し続けて来たマッドハウスの展示を見る。そうか明日までだったのか。上がってまずは出崎統&杉野昭夫のコンビが贈る「宝島」関連があって涙。りんたろう監督が生みだした驚異の世界「幻魔大戦」の直筆絵コンテがあってその緻密さに感動し、奥に同じりんたろう監督の「メトロポリス」の原画なんかがあってあまりの精緻さに人間ってどうしてこれほどまでに巧みな絵が描けるんだという驚きと感動に胸ふるわせる。その隣には愛らしい「カードキャプターさくら」の原画等が。可愛いなあ。こんなアニメも作れるんだと思ったらその側に「デ・ジ・キャラット」があって桜井弘明監督の絵コンテなんかがありました。絵コンテがまんま動いてたようなアニメだったんだなあ。

 間には大地丙太郎監督による「十兵衛ちゃん ラブリー眼帯の野望」のコンテがあってこれが巧み。作画的には「シベリア柳生編」での落ちながらの剣戟が凄まじいって印象もあってともに凄い作品なんだけれどもブルーレイディスクは出ないのか、出ないなあ、なかなかやっぱり。そしてフロアを上がるとこそは今敏監督ワールドが。「PERFECT BLUE」の今敏監督によるコンテを並べつつその緻密さがどれだけ実際の画面と同じだったかを切り抜きを添えることによって示してる。コンテをすべての設計図として用意してみせる監督だった訳でその手を放れてしまうと作品にならないってことも納得できた。だから止まってしまったのかなあ「夢みる機械」。でも影だけでも見たい。見たいけど既にマッドハウスから人は……。辛いなあ。

 「PERFECT BLUE」関連ではあと江口寿史さんが描いたというキャラクターの原案なんかも展示されてて師匠、ちゃんと本当に描いていたんだただ単に名義を貸しただけじゃなかったんだという証明を見せてくれた。それはそれでちゃんと江口テイストな未麻だったけれども今監督と濱洲英喜さんの手を経るとちゃんと今監督テイストなキャラになる。それでいて江口さんっぽさも残っているという変遷と関連を目の当たりに出来るので興味がある人はゴー、ってても20日までなんだけど。その裏では「ヴァンパイアハンターD」の川尻善昭さん関連の展示も。耽美で強烈な絵がいっぱい。川尻さんりんたろうさん出崎さんといった神様たちが集い共演した中に今さん大地さん桜井さんといった面々も混じり繰り広げられたマッドな日々よ願わくば訪れよ今ふたたびこの地へと。そして満たせよ豊穣なアニメによってこの地を。

 一ツ橋から音羽から、あれだけの有力なライトノベルの版元から協力を得て運営しているように見えるライトノベル情報有力サイトの主が、満天下に向かって真正面から不必要だと訴えるならそれは、バックにあるライトノベル業界のあるいは総意に近いのかもしれないと想像も浮かぶ昨今のライトノベル評論家不要騒動。資本だの商業だの権威だのに叛意を抱きたい青少年ならいざしらず、出版の世界に携わり起業までしている人間が、背負っているものを見せつつ理解もした上で行った発言が、業界の総意に背いて反発を呼び込みかねないものだなんてちょっと思えない。だからつまりはそういうことなんだと理解するのが妥当なんだろー。

 そうなるともはやライトノベル評論家という存在に、生きていく道はなさそうなのだと、ここは受け止めるのが妥当。かといってミステリやラブロマンスやBLの評論家に転じるだけの才覚もないものは、似て非なるヲイトノベル評論家に転じるのがやっぱり良さそうだけれど、問題は現時点において評論の対象となるヲイトノベルが存在していないことで、ならば自分で書いて書いて書きまくっては小説の世界にヲイトノベルというジャンルを打ち立て、その上で評論も行い両輪を回せばちゃんと動き出す。というわけで書きたいんだけれどヲイトノベル、何をいったいどう書けば良いんだ。誰か教えて。


【5月18日】 あんなに冷徹な守銭奴っぽく見えた喜界島ちゃんが、案外に女の子っぽく初(うぶ)で意外に映ったアニメーション版「めだかボックス」をやっと見る。何でいきなり生徒会室で着替えているんだって謎は、つまりは読者サービス視聴者サービスと割り切りつつ、たった2人きりとなった生徒会で人吉善吉を相手に喋りたくても喋りかけられない喜界島と、そんな喜界島に向かって普通に会話しようとしたら途端にエロくなってしまう人吉とのドギマギとする関係に、ラブコメディって良いのもだなあって思ったけれども「めだかボックス」って別にラブコメじゃないんだった。むしろ学園バトルなんだけれど本当にそうなっていくんだろうか。妙にクライマックスが続いている連載の展開がアニメで描かれることはあるのか。以前だったら夕方とかに1年2年で放送されてしかるべきだったジャンプアニメが深夜になって、こういう不安を抱かないといけなくなったのはやっぱりアニメが変質している現れなんだろうなあ。

 こっちは正しく2年目にも入った「SKET DANCE」は冒頭でパラドックスについてスイッチが振っておいたのが後半のエピソードで活かされるところに工夫。でも前半は得体の知れないジョージ声なおっさんの発明でボッスンが透明になってしまってそれで姫子を驚かしにいったら途中で薬の効き目が消え始めて頭から首から上半身が見え始めたのをどうごまかすかって遊びが愉快。生首を持って歩いているっぽい場面でボッスン、膝立ちで歩いてたりしたのかなあ。最後は頭に馬の首を被り体に紙袋をかぶってそして腰にはタペストリー。描かれたキャラの顔に下に潜んだそれが触れたタペストリーをスイッチよ、洗っただけでオッケーにしてしまうのか。とはいえ焼けないし。後半は力士みたいなパワードスーツに入ったボッスンがスーツの暴走を止めようとして発した命令がパラドックスだったという落ち。なるほど巧い。「BLEACH」も「銀魂」も消えて夕方のジャンプアニメって今これくらい? 選ばれた理由とか知らないけれども面白いから良いってことで。キャプテンもっと活躍しないかなあ。クエッチョンもう出ないのかなあ。

 そんなに3バックをやりたいんだったらセンターバックタイプを両脇に置きつつ真ん中は、ボールダッシュに優れた上にラインを統率しつつ自ら攻撃にも上がれてそして前線へとボールを送り込めるビルドアップ力にも優れた人を置いておくのが常って気がしないでもないんだけれどもザッケローニ監督が選んだ代表のディフェンスを見てどうにもそういう選手が見えない。まあさすがに30歳も過ぎた阿部選手を呼ぶのはキツいかもしれないけれども浦和レッズでの動きからすればまだまだやれそうな感じだし、今野選手だって存分に活躍はできるはずなんだけれどもこちらはお家のガンバ大阪の不審を咎められてか選出されず。槙野選手に栗原選手は壁タイプだし内田選手と駒野選手と長友選手はサイドタイプ。4バックでやるなら存分な陣容だけれど3バックでいったいどうするのか。

 やっぱりボランチにもうちょっと仕事をしてもらうってことになるんだろうけれどそこには遠藤選手の名前がない。いったいどうやて組み立てるんだろうなあ。あるいは徳永選手と憲剛選手を並べるとか長谷部選手と細貝選手を置くとかするのか。でもやっぱり組み立てに不安。本田選手も戻ってくるけど実戦に復帰してまだ日が浅い。かといって香川選手だけだと周囲が彼を生かし切れない。抱負に見えて案外に人材難かもしれないこの日本代表の責任は、新しい選手を見つけられない監督にあるのかそれとも送り出せないリーグにあるのか。どっちにしても興味の薄めな代表メンバー。せめてだから宮市選手と香川選手にはいっしょに出てもらいたい。あと佐藤寿人選手がやっぱり日本人で1番得点をとっているんだからと選ばれるとか。前田遼一選手のワントップより佐藤選手をシャドーで置いた方が絶対に効果的だと思うんだよなあ。目が向いてないのかなあ。

 夜ごとに現れるチェーンソー男ならぬシマウマ男を相手に制服姿の美少女が手に武器とか持たずその肉体だけで戦い沈めるのを通りがかった少年が見ているといった構図は滝本竜彦さんの「ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ」で存分に味わった一種のスタンダード。「ネガチェン」はそこからチェーンソー男の正体へと至り寂しさに圧迫された心が浮かび上がってそれを何の力も取り柄もない少年が見守り共に戦うことでちょっとだけ気持を高めるという展開に、ここではない他の場所での誰かとの出会いを夢みる少年少女が引きつけられて今なおエバーグリーンな1冊となって君臨している。対して野中美里さんの「2WEEKSイカレタ愛」(講談社BOX)は少年自身に一種の異能の力がってシマウマ男と戦う少女にもやっぱり力があってそれだけじゃなく未来予知やら計算といった異能を持った少年少女がいっぱい出てきて宇宙から来た何物かと戦うという展開に向かうところが目新しいというか独自アレンジというか。

 それはつまりよくある異能バトルの一種かっていうとうーん、そうとも言えるしそうでないとも言えそう。それぞが異能を使うと何かしらリアクションがあってそれを払拭するのに苦しんでたりする。果てしないパワーを発揮できる少女はそれをふるった大小に次第に強くなるシマウマ男と戦わされて最終的には敗れて食われてしまう。それを助けて生き返られた少年はそうしたことをすると少女が半透明から実体を持って現れ妹ととして少年のそばにずっといる。でもしばらくすると消えてしまって少年が力をふるえば現れる繰り返し。作り出したものであっても存在してしまったものを消したり出したりするのはなかなかにストレスだ。

 未来を探れる少女もそれによって変えてしまったひずみが別に出て、そこで起こった状況をずっと心に引きずっている。いつか捨ててしまいたい力だけれどそれを与えたらしい宇宙船の事故がどうにかかいけつする時に、起こることが彼ら彼女たちにとって決して幸福ではないと知ってそれでも運命と受け入れられるかというとなかなかに酷。だからと解決の道を探り妹が消えてしまう可能性も見えて迷いながらもどうにかこうにか事態を解決していく展開に、異能をふるうことによる万能感は浮かばずむしろやっぱり余計な力を与えてくれてといった懊悩が浮かぶ。力とは決して人を幸福にするものではないのだと知れる物語。シンプルで男女1組の関係がよく見えた「ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ」の方が好きだけれどもこっちもこっちで現代的。どれが欲しいかっていうとやっぱり生き返らせたり治したりする能力かなあ。うん。


【5月17日】 なんか近隣にソノシー・マクラーレンが来ているってんで見に行ったら中身はソノシーだったけれども身に蒼井優さんの着ぐるみをまとっていてソノシー本来のスレンダーなナイスバディが隠れて見えなかった残念、って違うだろ、逆だろ。そんな蒼井さんは何やらビールの店ができたってことで宣伝に来ていたみたいだけれどもこの電気がどうだこうだ言われているご時世にマイナス5度まで泡を冷やして飲ませる店が果たして世間的に大丈夫なのか、っていった心配もちょい浮かぶ。いくらビールはキンキンに冷えたのが美味いからってねえ。

 っていうかエジプトとかメソポタミアで生まれたらしいビールが冷えているってのは明治以降の風習で、本来はビールは普通に常温で飲まれるものでおそらくそうした状態でも美味いように作られ方も工夫されてきたはず。探せばだから常温でも美味しいビールはあるはずで、それらをこのご時世だからこそと持ってきて売れば世間にエコだって評判もたっていっぱい飲まれるかっていうとうーん、カラリとしたエジプトの暑さもそうだし夏場はともかく秋冬春はまだ寒い欧州とかの気候で飲まれる常温のビールは、このすでに暑くて蒸す日本の気候には合わないかもなあ。どうなんだろ。とりあえずギネスを冷やさずその辺に積み上げ昼間にごくりとやってみるか。

 暇に飽かせてボツボツと積み上げてきた読書感想文が目分量でだいたい1300冊くらいに達した模様で、これは目出度いかというと個人的にはお目出度くっても世間的には何の影響力も持たないただの素人の感想文、ぶらんちだとかだびんちだとかいった世間に絶大な影響力を持って取り上げられれば10万部確実、フルコンプリートならミリオンだって楽々な書評媒体には遥か遠く及ばずむしろ比べようって心理自体がおこがましいことこの上ないんだけれどまあ、そこは一文にもならずとも趣味でやってる素人の戯れ言と聞き捨ててやって頂ければ幸い。16年なら本当だったら1600冊には届かせたかったけれども数年、さぼってた時期もあったからなあ。これから頑張ろう。

 せっかくだからと切り番に積み上げる本でも探していたら目に入ったのがあらい・まりこさんの「霧の中のラプンツェル」(双葉社)という漫画。前にネットでチラと中身を見てその凄まじさに驚き書店に慌てて探しに行って買って呼んで素晴らしさに滂沱した「薄命少女」(双葉社)という4コマ漫画の作者の人が、ずっとネットで連載していたらしい漫画なんだけれど前がギャグの中に死を交え、自らのいつか絶対に断ち切られる生への諦観めいたものを考えさせてくれた傑作漫画の「薄命少女」とはまた違い、理不尽に与えられる死と苦しみにいったいどうやって立ち向かっていけば良いのか、ってものを強く感じさせてくれる内容になっている。

 だってホロコーストだよ、テーマが。「アンネの日記」に「夜と霧」に「シンドラーのリスト」なんかで描かれ悲惨で悲哀にあふれた時代だったと誰もが知ってるホロコーストの理不尽が、ひとりの少女の視線から描かれているから受ける印象はひたすらに理不尽、平穏だった日常が数年でがらりと変わってきゅうくつになって圧迫されて迫害になって収容からそして死へ。ほんの15年くらいで一気に変わるその時代にいったい人はどういう気持で生きていたのか。これはヤバいと感じなかったんかそれともなるようになるさと思っていたらどうにもならなかったのか。市井の生きているだけの少女やその一家にはたぶんきっとどうしようもなかったんだろうって読んでいて思わされる。それゆえにこれからも起こり得るかもしれない恐怖に身がすくむ。

 というかい現在、起こりつつある似たような状況があるだけに、これをどうしようもないんだと、受け入れていいかというとそうではないんだてことを多分、知るべきなんだろうなあ「霧の中のラプンツェル」を読むことで。過去の名著も山とあってそちらに騙られた史実としてのホロコーストから受ける恐怖心を甦らせることも重要だけれど、それでも足りなかったからこそ戦後60年とか経ってもなお似たような理不尽な差別に迫害って奴が繰り返される。ならばさらに積み重ねていくしかないってことで書かれた1冊だと思うんだけれど問題は、話が途中で終わっている割に1巻とも1部とも書かれておらず、ネットの連載も同じところで止まっていること。どーしてだ。どうしてなんだと浮かぶ憤り。けどこれもまた資本主義、なら買って必要とされているんだと世に訴えて続きを描いてもらうよりほかにない。それこそだびんちだとかぶらんちだとかすかんちだとかに取り上げられれば1発なんだけどなあ。

 「入れ墨が見えなければよいとした教育委員氏には特にうかがいたい。悪事はばれなければよい、と子供たちに教えるつもりなのかと」と書いてた媒体があったけれどもちょっと待て。入れ墨は悪事なのか。公序良俗等からなるほどあんまり見せたくないものかもって意見はあっても、法に背くものではない。それを入れることが儀式として神聖視され生活として必要とされている世界もあって、それでも入れ墨は悪事と説くのは世界への目配りがちょっと足りない。日本では、といった限定とそしてその歴史を語り説明する手間を惜しんで悪事と言い切る言葉の乱暴さにまずひっかかる。

 なるほど「装飾用途の入れ墨も禁止され、この法的規制は昭和23年の軽犯罪法の公布まで続いた。こうした歴史を考えれば、入れ墨に恐怖心や嫌悪感を抱くのは、ごく自然な市民感情、社会通念といえるだろう」とも書いてはあるけど、これもまた乱暴な展開。これだと法に規定され差別された病気の人たちに、未だ残る意識をも自然な市民感情と肯定しかねない。社会通念なんて曖昧なもので判断されることで世界が過去にどんな過ちを繰り返してきたか。そこへの意識もなしに断じていいものではない。そりゃあ意識として入れ墨が認められる場所があり、認められない場所もあることは当然だけれど、そのことを説明して理解させようとする言葉が、やっぱり足りていないのが気に掛かる。悪は悪だから悪なんだというトートロジー。それが通ってしまう世界って、やっぱりヤバいよ本当に。


【5月16日】 あそこで文明ちゃんの過去をマヤに見せておいたことが後の子供な文明ちゃんとのイチャイチャにつながったのかもなあと再放送の「世紀末オカルト学園」なんかを見ながら本放送の記憶を重ねてあれこれ。臨死体験マシンに入ってそこに取り残して来たこずえの心を取り返しに移行と競泳用水着になったマヤを脇にやって自分がと志願した文明が、マシンを通して見せた心の映像には同級生たちから切り離されて遊ぶ時間も持てず、楽しみにしていた母親とのプラネタリウム行きも母親がそれを知ってか知らずが仕事を入れてしまって行き場のない気持を漂わせる文明に、マハはオカルトにのめり込んで家族を蔑ろにした父親に邪険に扱われた記憶を重ねて抱くシンパシー。人間気取らず心をぶちまければ同情も引けるって感じか。あの新しく入った仕事ってのがオカルト学園での講演だったっけ。そこで何かが起こるんだっけ。まだ続く再放送を楽しく見ていこう。

 浮き立つ気持に踊りたい、と思った衝動を食事する店で発露したとたんに当人は捕まらずとも店が違法がと摘発されかねない状況が、あったとしたらもうそれは表現にたいする著しい圧力であってどうにもこうにも居たたまれない。あるいは営業にあたって許可を得るのが面倒とばかりにそれを得ず、かといって場所は作り雰囲気も作ってさあ踊れとやればそこに違法の意図有りと見なされ摘発されるのもやむを得ないけれどもそうした店側の意識とは離れた場所での自発的な衝動までをも、絡め取りかねないところにこの問題の難しいところがありそう。

 適用が厳密化されたらそれこそプロポーズでもして受け入れられてひゃっほーと小躍りした途端に警官隊が乱入、摘発だなんて事態もあり得ないこともない。あったらギャグだけれどもギャグが現実化しかねない世の中なんで。ただそれでも踊りたいという意志は留められるものではなく、そうした抵抗の意識を表現するための新たな手法なんてものが未来、生まれてきたらそれはそれで歴史になる。ブラジルで手かせをはめられた奴隷たちがそれでも戦うためにと逆立ちし、足だけで戦うカポエイラという武術を生みだしたように、ってそれは俗説らしいけれども人はそういう具合に抑圧から何かを生み出すんだ。武器を奪われた沖縄の人が手足を鍛えて武器とした沖縄空手はそんな例えにはまるかな。

 そして飲食店でのダンス禁止令から生まれるのは、手足を動かさないで顔だけで踊るという「フェイシャル」というジャンル。目に口に眉に頬に人によっては耳なんかを自在に動かし顔の左右上下前後への少しの移動も混ぜ合わせてそこに豊穣の表情を作り出す。社交ダンスよろしく向き合って座った男女でまずは男性がすっと目線を横へとずらしてそれかキッと女性を見つめて微笑み、女性は受けて顎をさげてはにかみ上目遣いからウインクへ。そして互いに認め合った表情は笑顔に憮然とした顔に怒り顔を表情のすべてをつかって表現しながら会話し対話をしてそして最後は見つめ合い微笑み合って顔を近づけキスを交わして終わるという、ああ何てロマンチックなダンスだことか。

 これを一種のソーシャルな「フェイシャル」とするならロックは顔にあらかじめ隈取りのような模様を描いてより大勢に強烈に表情が伝わるようにし時に口に仕込んだ血のりを吐き出すギミックも見せて驚かせ慌てさせて喝采を浴びる。さらにギミックを仕込んでウイッグを回して隠した顔が一瞬のうちに早変わりするイリュージョン、ただひたすらに無表情を貫くなかにかすかな変化を読みとりそこに美を見るゼン等々、広がる「フェイシャル」の幅はやがて言葉すら超えて人間のコミュニケーション手段に成り代わり、心と心とをつないで世界をひとつにまとめるのであったという、そんな夢物語が描けるんあらダンスの規制もまんざらでもないけれどもやっぱりダンスも立派にコミュニケーションの手段、それを禁じて生まれる心の退廃は、いずれ国を膿ませ滅びへと導くと世間は知れ。どうしてこんな社会になってしまったのかなあ。

 それは関西の方で蠢動している節電隣組発足につていも言えることか。どうやら相当に電力が足りなくなりそうな中で無駄に電気を使っていそうな家々をチクりあう仕組みをマジに作ろうとしているらしいから恐れ入るというかやれやれというか。とんとんとんからりと隣組じゃないけどそれで夜勤の人が昼間にクーラーつけて寝ていたら、無駄だといってたたき起こされ寝られず夜に居眠り運転で事故多発、なんてことになったら誰が責任をとるのか。昼間に電気は悪といった観念が広まり輝いている電飾に石を投げてそれを暴力ではなく正義と胸をはる輩の登場を、許しかねない空気が漂い始めているのがどうにも不気味。それはいつか来た道で、その道がいったん行き着いた先を思えばなおも不気味さは募るばかり。けどだれも止められないし止まらない。未来は。というより明日は。しばし呆然。

 そんな強権による抑圧がとくに見える大阪市の動向を、いつかのナチスドイツのようだと例える声も響き始めているけれど、あれでナチスはゲルマン人限定ながらも文化水準を高め生活水準も上げて技術水準の向上にも務めようとしてたんだった。そこからリーフェンシュタールの映像が生まれラジオが行き渡りアウトバーンができてモータリゼーションも進んだんだけれども大阪市はむしろ文化を削り生活水準を下げ技術水準すら大停電への不安の中に低落させようとしているように見える。これはナチスドイツってよりはやっぱり、既にいろいろな人が言っているように、カンボジアでクメールルージュが行った文化や社会の破壊と似た雰囲気。カンボジアでは都市からは大勢の人が農村へと追いやられ、労働を強要される中で文化を体現する人たちはキリングフィールズに沈んでいった。もしも関西広域連合を担いで大阪あたりが農林水産業回帰なんて言いだし山に畑に海に人を送り込もうとし始めたらその先に来るのは。閉鎖され分限免職された知識人文化人の行く先は。怖いねえ。

 誘われて高円寺HIGHまで和装侍系音楽集団MYST.のライブを見に行く。ワンマンではなく4つのバンドとの共演で行くと1つめは終わってて2番目のEthnic Legistというファラオなビジュアル系のハードロックバンドから観賞、雰囲気を作って見せる上にバックで踊る2人の女声によるコーラスが響いて幽玄のエジプトな雰囲気を醸し出す。ギターとドラムがなかなかに美形でベースは迫力。そしてボーカルはミステリアス。ファンもいるみたいで最前列でいっせいに頭を目一杯に振っていた。楽しそうだったなあ。それから東京バブリシャスってバンドを見物、メンバーはメインの3人でちょい猥雑な雰囲気を醸し出しつつにやけた声で唄う人、スリムな長身の頭をツンツンにした上に東京タワーまでぶったてて低い声で唄う人をツインボーカルにしてポップでキッチュな世界を見せてくれた。

 バックでは太めな髭のパパイア鈴木さん系な人とスリムでゴージャスな美人の人がコーラスをやっていたけど美人は浜田マロンさんてソロで活動している人が入っていたのかな、とってもキレイだったのでどこかでソロを見たいなあ。最後の曲では1番目にやって見られなかった井の頭フォーキーズ人がステージに上げられてたけど残って何をやっていたかというと名物らしい豚汁をつくって売っていた。東京バブリシャスのCDを買ったら東京バブリシャスが買い上げふるまってくれるというので東京バブリシャスのCDを買って豚汁をもらって食べたらこれが名物だけあって美味しかったよとっても。味が染みてて。どんな味噌を使っているんだろう。ほかに何を味付けに使っているんだろう。レシピ公開したらイケるんじゃないかなあ。

 そしてMYST.は前に渋谷で見たときにでていたくのいちな人がいっぱい登場。伊藤ゆりえさんというタレントな人で格好だけじゃなくって殺陣も本格的に学んでいる様子。舞台ではこちらもただ甲冑を着ているだけでなくってちゃんと剣道も学んでいるボーカルの佳上哲也さんを相手に小太刀や薙刀をつかってぴしっと決めてみせてくれていた。迫力あったなあ。間違えれば怪我をしかねないところをちゃんと収めるその腕前を、ドラマか映画で見たいもの。伊藤ゆりえさん、他に何に出ているんだろう。そんなライブは最初ちょい声がかすれているようにも聞こえた佳上さんが唄い込むたびにちゃんと声を出せるようになって最後は「夢を見る間に抱きしめて」で大盛り上がり。やっぱり良い曲だよこれ。デザインフェスタと違いフルバージョンで聞けるのもライブの良いところなだけに7月の浅草でのワンマンライブは頑張って行こう。作り手の思いも深いらしい「東京の空に」も東京スカイツリーの間近で聞いてこそ、だし。


【5月15日】 電撃大賞といったらライトノベルでも応募数で最大を数える新人賞だけれどもその20回を記念してか、来年に応募が締め切られる電撃大賞には何と電撃学校大賞って部門が特別に儲けられては学校に所属する学生が、いろいろと応募できるようにするらしい。募るのは電撃文庫かメディワークス文庫に収録されている作品をモチーフにしたもので、演劇でもアートでも彫刻でもフィギュアでもパフォーマンスでも何でもござれ、それを映像なり画像に収録して応募したのを審査して、優れてこれが電撃ってなものを選び表彰することになっている。

 さても自分が学生だったら何をどうして応募したかと考えるとすると例えば演劇部に所属していたら割と劇にしやすそうな時雨沢恵一さんの「キノの旅」をもとに戯曲を書いて舞台にかけたかもしれないし、映画研究会だったら街と学校で撮影可能な「ブギーポップは笑わない」を映画にしたかもしれない。アニメーション研究会だったらどうするかなあ、秋山瑞人さんの「猫の地球儀」の部分を抜き出しアニメにしてみせたかもしれないなあ。美術部だったらやっぱり彫刻として鎌池和馬さんの「とある魔術の禁書目録」に出てくるミサカたちを1万体は流石に無理でも50体くらい作って並べてその異様さって奴を浮かび上がらせたかも。

 そういう時にたとえば戯曲なんかだと著作権を持つところに了解を求めることになっているけれど、こういう場合だとそうした権利はとりあえず気にせず応募のためにと作品化して良いってことになっているのかな、そんな辺りの規定をもうちょっと書いておいたらいろいろと問い合わせも簡略化されて良いんじゃなかろーか。イラストなんかだと今でもイラスト部門で作品をテーマにしたものを求めているけど、アートとかだともうちょっと違ったものが出てきそう。それこそ美奈川護さんの「ヴァンダル画廊」シリーズでヒロインが描くビルの壁を覆う名画の際限とか。ちょっと見てみたいかも。ロボット研究会とかなら挑戦して欲しいのが松山剛さんの「雨の日のアイリス」に出てきたアイリスの際限、美少女のロボットで、巨大な魚を背負って歩く姿を見てみたい。力があるなら鎌池さんの「ヘヴィーオブジェクト」に登場する巨大な兵器、オブジェクトの再現を。校舎すら超える高さで僕等を驚かせてくれい。

 どれほど大きいかというと同じジェフユナイテッド市原・千葉でもゴールキーパーの選手とあと数人といったところ。日本代表クラスならあの中澤祐二選手と同じ高さを誇る上に年齢もまだ21歳で、それでいてキャリアはJAFアカデミーの頃から含めればかれこれ5年とかそれ以上。スーパー少女プロジェクトでもって目をかけられ抜擢され、夏のオールスターでは前座の試合でJAFアカデミーのチームから出てゴールを守って西ヶ丘に来た観客を驚かせ、そのまま福島に拠点を置くTEPCOマリーゼに入団しては、やっぱりその圧倒的なフィジカルで子供たちから大人気だった山根恵里奈選手に、いよいよスポットが当たる時がやって来た! って4年おせーよ。まあ仕方がない、それが日本の新聞って奴だから。

 日刊スポーツに「なでしこに秘密兵器! 187センチGK」として取り上げられ、ロンドン五輪に向けてメディカルチェックを受けるメンバーに入っていたと報道された山根選手。マリーゼの活動休止もあって行き場に迷い練習もままならず暗澹としていたってことは想像していたけれど、疲労骨折とかヘルニアとかで休んでいたことまでは知らなかった。あの大きさだものなあ、よっぽど鍛えておかないと体調も崩れて当然、そこはだからマリーゼとは違ってトップチームからユースまでが揃い、フィジコもちゃんといてGKコーチもいるジェフ千葉で、直接ではなくても関心をもってもらえばちゃんと治るを思いたい。せめてそれくらいのことはしてあげて欲しいよ丸山佳里奈選手が抜けた後で注目を集められる選手は他に清水由香選手くらいしかいないんだから。シンガーな石田美穂子選手も辞めちゃったしなあ。

 昔で言うなら「プラレス三四郎」で今だとさしずめ「ダンボール戦機」か。折口良乃さんって人の「デュアル・イレイザー」(電撃文庫)は組み立てたプラモデルよりはもうちょい生硬なロボットをセットした上で大型の筐体に入ると、あたかも自分がそのロボットを操縦しているような感覚でもってバトルを楽しめるというゲームが実現した世界が舞台。決して強くはない2人組のうちのひとり、東城刀雅がその日もゲームを終えて見渡すと、日本でも屈指のプレーヤーとなっていた如月紀沙羅が現れ、やっぱり勝利を重ねていた。2人で動かすのが基本のゲームをなぜか彼女はたった1人で操縦していたけれども天才だけあって決して負けない。というか彼女には負けられない理由があった。

 デュアル・イレイザーというゲームを開発したのは彼女の母親。そして娘はその技術を明かすようにと脅迫する宗教団体にさらわれ、奪還されたもののデュアル・イレイザーで負けた時は死ぬ時だという強迫観念を心に植え付けられていた。そんな気持と持ち前の天性で今は勝ち続けている紀沙羅。とはいえそこに宗教団体の後をついだ少年が現れ彼女にプレッシャーをかけ、時には暴力に及ぶようになる。通りかかって彼女を助けた刀雅は、彼女のボディーガードにも頼まれ周辺を警護することになり、その延長でペアも組んで少年の挑戦を受けるおとになる。

 もちろん刀雅には一切の操縦をさせないようにしていた紀沙羅だったけれどもそこは直情径行気味な刀雅だけあって勝手に触って怒られ危機にすた陥れる。どうにも鬱陶しい野郎だってそこで思うこともあったけれども紀沙羅ではできない戦いの時に持ち前の感性が発揮され、互いを補うような戦いぶりを見せるにいたって人間、何かしら取り柄があるものだなって思わされる。まあでも最初に余計なことをしなければ、そうした力が発揮されることもなかったかもしれないと思うとやっぱり鬱陶しいことこの上ない奴なんだけど。やっぱりテレビアニメとかに先行されてるアイディアであり、キャラも類型的なところがあって既視感にまみれていたりするところもあるけれど、それはすなわち誰からも関心を持たれているという現れ。読んで楽しく面白いならそれで良しってことで。次があるとしたらいったいどんな敵が出てくるのかなあ、柔王丸とか出てきたら楽しいなあ。


【5月14日】 黒いユニコーンかっこいい。そういや大昔にガンダムマーク2も黒くなってダークにスタイリッシュなモビルスーツっぷりを見せていたけど、「機動戦士ガンダムUC epsode5 黒いユニコーン」に登場する黒いユニコーンは、真っ黒な上に体から鱗粉(違う)とか出して、何か毒々しさってやつを世界にまき散らしている印象。アムロが見たらこれが人の悪意かって叫びそうなくらい、凶悪さで過去の数多のモビルスーツを上回っている。けどでもそれが白いユニコーンにとってライバルにならないことは、マーク2の時とも同様で、あくまでも白いユニコーンに立ちふさがっては、踏み台となって脇にやられて過去現在未来におけるガンダムシリーズで終生のライバル的存在、赤い奴に乗った仮面の人を相手に、バナージ・リンクスがラストバトルへと至る道を開くのだ。しかしプラモデルは売れそうだなあ。いっそ再生プラスティックで作れば黒さにエコさも乗っかるのに。

 そんな「epsode5」の中身は、原作を読むなり劇場での公開を見るなりして戴くとしてとりあえず、成田剣さんに前作から声優が代わって登場したブライト・ノアの雰囲気がとっても良かったというのは抱いた印象、あの凛として響き渡る鈴置洋孝さんの声を継げる人がいなかったからこそ亡くなられてからもしばらくゲームでは代役も立てられなかったけれども、登場機会の多い「ガンダムUC」に過去のストックから使う訳にも新たにボーカロイドを開発する訳にもいかない、ってことで抜擢された成田さん、ブライトさんの凛とした強さを持ちながらもあれからいったい何年経った的な深みをブライトって実直キャラの中に混ぜ込んで滲ませ、企みもすればはかりごともして思う正義を貫こうとする狡さを持ったキャラへと昇華させている。

 それは変化ではなく成長。派閥もあれこれな軍人の世界でブライトさん1人だけ、ファーストの時のような実直で純真な性格を保って生き残っていられるはずがないからね。そんな老成したブライトさんを得て作品は、予定を1話伸ばしたepsode7まで作られる予定になったとか。評してシャアでフル・フロンタルな池田秀一さんは、52話の予定が43話になった「機動戦士ガンダム」の怨みを晴らしたぞってな感じのことをイベントで話してたけれど、打ち切りになるより伸びる方がファンとしてはやっぱり嬉しい。あるいは6話を見込んで過去に削られたエピソードがあるなら、これを機会に作り足したディレクターズカットバージョンを再発売とかする、ってのは流石に無理か。つじつま合わせって必要か。それは分からないけどともあれ充実の展開を楽しめそう。完結も伸びるけれどもそれまでは生きていたいもの。その頃には劇エヴァも完結しているんだっけ。

 祝日には白黒のポールに金色の玉をつけてそこに日の丸を縛り付けて玄関脇に掲げていたし、ボーイスカウトでも隊で集まる時には朝礼で国旗掲揚国歌斉唱をやって、遊びではない行事の始まりをそこから感じて身を引き締めていた。それはそのまま日本という国への忠誠とか、少し下がって親愛とかいった感情ではなく、今をこうして生きていられることへの感謝として、地の神時の神に祈るような感覚か。あるいはもっと個人的に、自分という存在を起点として家族があり集団があり社会があって国があり、そして世界があるんだということを自覚する上でのイニシエーションに似た行為か。いずれにしても拝め讃えよと押しつけられたことはなく、そうする行為の連続の中で考え身につけていった感覚。だから今も行事で国歌斉唱があれば立って国旗に見入り、自分たちが今いる地への思いを抱く。他国の国家国旗が掲げられても同様に彼らへの、彼の国への認識をそこに抱いて地に、時に敬意を表す。

 それらはだから教育の現場で教育されたたから得た感性ではない。日々の生活のなかでだんだんと得られていったもの。もしもこれが上から押しつけられるように教わったものだったとしたら、果たしてその形式は学べても真髄といったものに近づけるだろうか。そう考えてみたくなる。たぶんそうはいかなさそう。口で国がとか国体がとか言われたところで、それは日々の暮らしから縁遠いどこか異次元の存在。それへの敬意を払えだのどうだの言われたところで、実感としてはなかなか浮かんでこない。やるならば家で。あるいは毎日の暮らしの中にひっそりと、けれども確実に行い続けることなんだけれど、世間にはそうした機微を、あまり理解しない人たちがいるってのも実際なだけに悩ましい。もちろん讃えよ崇めよと言うのも主義主張だから良いんだし、そうやって鍛えられて学ぶ人にも敬意は抱く。問題は、理由として国がお金を助成しているから学校は国家国旗を教育すべきだなんて話をして悦に入ってるメディアがあるって状況だ。

 公立だって私立だって、教育は国の主義主張を単に押しつけ刷り込ませるだけでなく、世界のロジックの中で何が適切かを自分自身で判断出来るような感覚を身につけさせることが重要なんだけれど、そうした教育の自主性なんて大切なことにまるで思いを馳せずに、上から目線で教育とは押しつけである的論旨をぶち挙げていたりするから筋が悪い。ましてや私立学校という、それぞれの来歴を持って思想信条の中から立ち上がってきた存在に対して、一方的に主義主張を押しつけて是とするような感覚を、自由な言説を尊ぶべきメディアが振りまいて果たして良いんだろうか。とても拙いし私立学校に対して失礼極まりない。抗議されたってしかるべき事態なんだけれども、幸か不幸か目に留められてないからそうした動きは現在なさそう。いややっぱり不幸なのかなあ。改められずに向かう先を思うと。

 それ以前に、国旗国家への尊敬を助成とかいった支払うお金の対価の如きに位置づけている言説がどうにもこうにも見苦しい。助成したんだからお金をもらっているんだから忠誠を誓え、国を敬えって風にしかとれない言説は、国旗国家への純粋な尊敬をこそ求め欲しがる傾向に対してむしろ反旗を翻しているようにしか見えない。助成は助成。尊敬は尊敬。それなににそこに関連性を持たせる言説がはらむ卑しさなり貧しさに、どうして言ってる側は気付かないんだろう。情けない。そもそも教育っていうのは国が国民に対して行うべき義務のようなものであり、人は等しく同等の教育を受ける権利を持っている。それに助成するのが自然であって、対価なんか求める方が間違っているはずなんだけれども、そうした基本への思索や逡巡もなしに、直結させて意見をそれも偉い人たちではなく兵隊が、放って平気というかそれがむしろもてはやされている状況が、続いていいったい何が来る? 潮時ってのはとうに過ぎたけれども、やっぱり潮時なのかもなあ。

 大事な指輪を寝ぼけ眼で動き回っているうちに落としてしまう間抜けな船長なんていらないなあ、って思いたくなったけれども「モーレツ宇宙海賊」、気張ってはいてもやっぱりそこは高校生でとりわけ手練れのクルーもいない中を海賊船を守るために奮起し背伸びして一仕事した後だけに、ゆるんでしまったのも仕方がないと同情してあげるべきなのかも。そんなまわりでしっかり指輪を拾って世話を焼いたりするお姫さまたちがいたりするのも船長としての人徳。自分ひとりが気張るんじゃなく集団として、チームとしてまとまったものを作り上げる才能って奴が見えたってことにしておこー。という訳で「モーレツ宇宙海賊」、次はディンギーの訓練か、何で水の上でヨットに乗ってるんだ、ヨット部だから、いやしかし。それにしても加藤家のポトフってやっぱりおでんじゃね。

 すげえ昔にライブドアがポータルとしてニュースを集めるだけじゃなく、自分たちでも独自のニュースを集めて提供していこうぜって感じにニュース部門を強化したことがあってそれに未来を感じ、いっぱいのメディア関係者が集ったみたいだけれどもボスの失脚とともに業容の建て直しが行われて、その過程で独自のニュース部門はなくなりパブリックジャーナリストのネットワークも余所へと出されて今はやっぱり普通のポータルとしてニュースをコンテンツのひとつとして流している。グーグルは徹してニュースをあくまでポータルとしてそこへのリンクを示すのみ、ヤフーもやっぱり同様にリンクを示すのみで独自なジャーナリズムとしては機能していなかったりする状況で、遅れてきたようにニコニコ生放送のドワンゴがニコニコ生放送に夕刊ニコニコニュースとか作り、それからニュース部門なんてのも内部に作って割に本格的にニュースの提供をスタートさせようとしている。

 んでその1回目を見たらだいたいは時事通信社からのニュースをそのまま受けてウエブサイトを写すくらいで、あとは柔らかいネタを流すポータルサイトから情報を集めてそのサイトを紹介すると言った感じで、映像でやるポータルといった域はあんまり飛び出していないけれども今はそれがコストもかかわらずニュースへの関心を集められるという判断だとして将来、そこから独自のニュースを作り発信していく構えがあるのか、なければニュース部門なんてところは作らずポータルに括っていただろうから意欲はあるんじゃなかろーか。生放送の舞台はそうした心意気でもって記者会見とかに突っ込んで言ってる訳だし。だからそこから真新しくって面白いニュースが集まって来る場だという認識が世間に広まり、目線が集まるようになった時、ひとつのジャーナリズムとして立ち上がっていくって期待もしたいけれども果たして。


【5月13日】 デザインフェスタで見かけた中でもっとも目を引いたのがくずしまきんさんって人が出してた不思議な人形。ちょい体をかしがせた女の子たちは頭が檸檬だったりネジが刺さっていたりと様々で、腹からジャムを出したりネジを生やしたりとこれまた様々な意匠でもってズラリとならんでそれぞれに個性って奴を感じさせる。凄いのはよくみるとちゃんと目がはめこみになっていることで、頭のパーツを外して後ろから眼球をセットして閉じて髪型をつけてあるからそれぞれに視線が違い目つきが違ってこれも個性って奴につながっている。ブライスにちょっと目の感じが似てるかな。

クール&スタイリッシュなくずしまきんのフィギュアに刮目せよ  スタイリッシュな少年少女の人形をテラコッタでもって作る北川宏人さんによくにたフォルム。とはいえ工芸の分野で鍛えられた北川さんが工芸の技術で作ったそれらはアートになるけど、この人の場合はクラフトなんだろうかそれともやっぱりアートなんだろうか。そんな辺りの曖昧さ。でもソフビの人形よりは手作り感があるし何より怪獣ソフビなんかよりもずっとクールでスタイリッシュ。だからアートだクラフトだホビーだってのは関係なしに、良い物は良い物だってことで。1つ5000円とか6000円とかで販売中だったけど、当日は手元不如意でちょっと手が出ず。夏のワンフェスにも出るとかどうとか言っていたようだし、いずれどこかで会えるかも。その頃には超有名になってたりして。

 普通の人はだからネットなんて見ないし、ネットで行き交っている情報なんてそれほど気にはとめてない。「家族のうた」というフジテレビで4月から始まったドラマが、大昔に人気だった「パパはニュースキャスター」に設定がよく似ていたらしくて、脚本家の人が異論を差し向け、それを受けて中身を改めたとかいたゴシップを認識して、なんだそんなドラマだったら見る必要なんてないねって、チャンネルをほかに合わせるような行動に、出ることもたぶんそれほどない。もっと純粋にその時間のそのドラマ枠を見るべきかどうかを感じているか、あるいはそのドラマ自体を見たいと思えるかどうか、ってところが行動を大きく左右するんじゃなかろーか。

 だから「家族のうた」がスタートからいきなり低視聴率を突っ走って、過去最低すら記録した挙げ句に、たったの8話で打ち切りになってしまって事態に陥ったのも、純粋にそのドラマを見るべきだって多くの人が、思わなかったことがあるんだろー。その理由が面白さで劣っていたのか、裏にやってる「ATARU」の方を見るべきだと誰もが思ったのか、両方のドラマを見ていない目には判断がつかないけれども、結果から見るならやっぱり「ATARU」が面白いってことになる。あるいはあの時間帯はTBSであってCXではないっていう認識が、多くの間に広まってしまっているってことになる。前者だったら作品単位で逆転も可能かもしれないけれど、後者だったらこれは将来において深刻なダメージを与えそう。

 というか前に「マルモの掟」がやってて、誰もが目線を集中させた時間帯の番組枠。それが1年くらいでガラリと様相を変えてしまったのが驚きというか。だからやっぱり作品単位と見るべきなんだろーけれど、それにしてはな凋落ぶり。稼いだ視聴への習慣をごそっと削ぎ落とすよーな何かが、この間にあったってこも考えられる。その理由を芸能評論家の人は、地デジへの移行で番組表からCXが右端へと追いやられてしまって目にとまらなくなったってことを挙げていたりして、本当かいなとも思う一方で実際、何がやっているのか目に入りにくくなったってのも事実だったりするから分からない。あるいはチャンネルの数字が最大だから、順に変えていってもたどり着くまでの止まってしまうとか。これもあり得ないようであり得るようで。つまりはそんな心理的な複合要因もあったりするってことなんだろー。

 いずれにしても過去にない最低な視聴率で「家族のうた」が突っ走ったのは事実。直前にやってたドラマが10%台をそれでもとってた訳だから、番組表やチャンネルの位置からそれを見る関心を余所に移されたことだけでもなさそー。そうした諸々によってついたネガティブなイメージも、1本すっげえドラマがあれば払底できるのがあの世界だけれども昨今、CXから繰り出される番組によって世間があんまり動かなくなっているような印象も少しある。ニュースにしろバラエティにしろワイドショーにしろドラマにしろ。アニメもやるにはやっているけど「のだめカンタービレ」ほど世間は関心を持っているか? 否って感じでココのパッケージメーカーは頑張っていても局として本気のPRをやっているようには感じられない。そんな全体の賃貸が蔓延していった挙げ句に来る長い停滞が招くもの、それはって考えると他人事でもないんだけれど、それ以上の衰退を既にたどっているだけにせめてここで踏みとどまって欲しいと願う限り。「鈴木先生」より「IS」より視聴率良いんだから。中身は? それは言いっこなしなし。

 せっかくだからと世田谷文学館まで行って「史上最大の手塚治虫展」ってのを見る。史上最大かどうかってのはまあ言葉の問題だとは思うけれどもそれほど大きくはなかったスペースであるにも関わらず、予想以上の充実ぶりについつい長居をしてしまった。まず原画が多い。展示してあるのはほとんど原画でそれらを主要な作品から抜粋してあってそれぞれの時代のそれぞれのヒーローでありヒロインってものを、手塚治虫さんの筆の跡をたどるように見ていける。「新宝島」を全集に入れるために描き尚した原稿から「鉄腕アトム」から「どろろ」から「リボンの騎士」から。そうした作品単位の展示に加えてサファイアでありアセチレン・ランプでありハムエッグでありロックといったスターシステムのキャラたちをピックアップして、作品横断的に並べていたりするのも面白い。こんなに出ていたのかサファイア、それも「ブラックジャック」1作に。ってな感じ。

 寿司屋が事故で腕を亡くして引いたトラック運転手が代わりの腕となって寿司を握るエピソードでもトラック運転手の奥さんはサファイアだったし、子供たちがバス事故でトンネルに閉じこめられた話でも幼稚園の先生はサファイアといった具合。「リボンの騎士」よりは大人だけれどもそれでも変わらない美しさにやっぱり手塚漫画にとっての最大の比論はサファイアなんだって思えてくる。夜の街をよっぱらった漫画家が歩くシーンでも幻想の中で手を繋ぐ美女はサファイアだったし。男だとやっぱりロックかなあ、その美しさと内面の悪辣さはアセチレン・ランプとは違った存在感。なおかつそうした多数のロックから、わざわざ選んで展示したのが「アラバスター」でもって全裸になり鏡に身を映して自分の美を誉めるロックってところにキュレーションをした人の意識の高さを感じる。すっぽんぽんで電話をかけるロックの何と艶めかしいことか。伸びた睫毛とも相まって女性美すらそこに見え隠れ。ついてないんじゃないかとすら思えたけれどもでもついてるんだよなあ。何がだ。

 そんな展示に混じって第1回日本SF大会「MEG−CON」の様子を伝える映像があってそこに手塚治虫さんが登場して漫画やサインを描いているシーンも紹介されていてSFファン的に得した気分。映像の音声ではなくってNHKかなにかのラジオで紹介された当時の様子には手塚さんのインタビューもあって今でこそSFって言葉があるけどそうしたものは神話なりファンタジーといったものが出てきた昔からあるんだよ、っていった紹介をしていた。好きだったんだなあ、空想や幻想の世界が。映像には星新一さんとか映っている様子だったけれども若すぎて誰が誰だか。手塚さんは珍しくベレー帽を被っていなかった。そしてスリムだった。ラジオで1人、SF大会に参加した女子の高校1年生がインタビューに答えていて「SFとつくものが何でも好き」って話していたけど、この勇ましくも将来性豊かな女子はいったい今なにをやっているんだろう。実は有名作家の奥さんでしたとかってことになるのかな。ちょっと知りたい。


【5月12日】 朝から騒がしいので情報を追いかけたら高殿円さんの「トッカン 特別国税徴収官」(早川書房、1600円)が日本テレビによってドラマ化だそうで当初からこりゃあドラマ向きだと叫んでいた身には朗報、かといって主演をやっぱり見ばえが良いからとJ系なタレントを持ってきてぐー子ではなく鏡をメーンに置くような改変なんかをしかねない、昨今のテレビドラマ事情からいったいどうなっているかって心配も浮かんで情報を見返すと、キャストが発表になっていたのはぐー子だけで井上真央さんが演じるってことがニュースになっていたってことは、誰よりも井上さんを前面に押し立てていくって覚悟がそこにあるってことなんだろー。これは僥倖。

 問題はそんな井上真央さんが誰かってことで、おっぱいが大きくってそれでいて3回転半を飛ぶからもう遠心力が凄まじい人か、っていうのはまるで冗談、井上和香さんと浅田真央さんが混じってた、いやそういうフィギュアスケーターがいたら見たいけれどもきっと巨乳ハンター相手に戦う場面でしか出てきそうもないからさておいて、井上真央さんが「おひさま」で明るい女子を演じていたっていうけどそれほど強い印象はなし。逆にいうなら強烈な個性でもってぐー子を演じてみせるってよりは、あのぐー子っていう虐げられ鬱屈して惰性で生きているように思いこんでいながら鏡の叱咤や出会う人たちのドラマから、時分自身を見つめ学び成長していくキャラクターを、そのまま見せてくれそー。だから安心。

 むしろそれより鏡が誰になるか、ってことの方が重要で、ぐー子相手に罵詈雑言を投げつけ冷たい態度を見せるもののそれが嫌味ではなく、かといって熱血でもなくクールでそれでいて優しさもほのめかせるような役者って誰かいただろうかと見渡すけれども、松山ケンイチさんは大河ドラマでお忙しいし妻夫木聡さんて柄でもない。小栗旬さんは笑顔の優しさが出てしまうしやっぱり美形過ぎる。岡田将生さんは若いし瑛太さんではワイルド過ぎるか。加瀬涼さんは前に押し出すような演技をするとどんな感じになるんだろう、「平清盛」の郎党めいた感じか、というとやっぱり松山さんと同じで忙しそう。玉木宏さんも同様。難しいけどそれだけに誰になるのか楽しみたのしみ。

 美少女がいっぱいでてきて少年と学園でいちゃいちゃとか、異能使いの少年少女が果てしないバトルを繰り広げるとかいった形式のものをこそライトノベルと認めて流行っているのはそういうものだというか、そういうものしか流行らないというか、そんな言説を世の中に蔓延らせている輩はメロン熊に囓られろ。超売れてると評判の「涼宮ハルヒの憂鬱」だって「とある魔術の禁書目録」だってそんな単純な図式におさまらない物語の奥深さでありキャラクターの多様性であり展開の意外性の方がむしろ尊ばれて読まれて楽しまれている。「俺の妹がこんなに可愛い訳がない」だって「僕は友達が少ない」だって登場してくる人たちの絶妙な関係性があったればこそ、こうまで大勢の引きつけベストセラーになった。そうした精査をしないで単純に美少女がいっぱい、異能が激突といった図式で括ったところでそこからベストセラーの秘密なんて見えやしないし、それに合わせてチューニングしたてベストセラーなんて出やしない。と思うんだけれどそういう考えって今や少数はなのかなあ。

 いやいや今やベストセラーリストのトップに名を連ねる鎌池和馬さんなんか見ると「禁書目録」だって新約に来てさらに世界の構造自体に挑むようなスケールアップを果たしているし、「ヘヴィーオブジェクト」だって巨大兵器の運用が変えた戦争が人間の人海戦術によってさらに変わる様子をそこに描き出している。新作として投入した「インテリビレッジの座敷童」(電撃文庫)だってなるほど少年の家に美女の座敷童というのが同居しているって設定がいかにもと思わせそうだけれどもその座敷童がグラマラスな女ってところでひとつ外し、雪女が現れたところでそれがいっしょに暮らし初めて腐れ縁になるような有り体の展開は見せやしない。農産物をブランド化させて立ち直りを謀ったインテリビレッジって設定がまずあって、そしてそうした農村や伝統を重んじるスタンスから妖怪変化が現実に現れるという設定へと展開。その上で妖怪変化にまつわる伝承をひとつのパッケージとして導入することによっていろいろな騒動を起こせるという設定を重ねることによってサスペンスフルにしてミステリアスな世界をそこに現出してみせた。

 雪女は人間を誘い引き入れ凍らせる。船幽霊は人間から穴の開いた柄杓を渡されるともはや絶対に船を沈められない。座敷童は家にまつわるよくない未来を予言する。そうした決まり事を人間と妖怪の単純な関係から敷衍させることによって起こること、起こせること。それらを逃れるためにやるべきこと。妖怪というシステムについてまずは理解し、その上で穴を探していく展開はある意味でミステリーにも近い。あるいは妖怪と馴れ合う話の多いライトノベルの構造をメタ化してみせたフィクションとも。書けば何だって売れてしまうだろうビッグネームの作家なのにそうした場所に安住せず、捻り重ねて描いてみせるところが凄いけれども考えてみれば「禁書目録」の頃からそうだってことで、つまりはヒットさせる人はどこかが違うってことをもっと、世間は知るべきなんじゃないかと。不足はないけど過もないライトノベルがブームだ的記事を書いている新聞とか特に。

 デザインフェスタが始まったので東京ビッグサイトへと向かい中をいろいろと見物、「KAMATY MOON」をのぞくとユニコーンなフィギュアがあったりヒヨコの飛行士がいたりと新作が続々。もう何年になるんだろう、5年くらい前に見かけてからこっち、ずっと追いかけて来たけれどもアイディアは抱負で腕前も確かな上にさらに手がける世界が広がっている。決して若くもないのに脱サラ気味に初めてここまで。見習いたいなあ。それからこれも常連になった透明標本の「新世界」。ほかにブームに追従するように透明標本を出してくるブースが幾つかあったけれども、嚆矢として築き上げたブランドへの信頼って奴はやっぱり衰えないようで大勢を集めてた。漁師のところを歩いて時にはいっしょに船にも乗って彼らが捨ててしまうようなものを集め標本にしているというスタンスは、ともすれば死を意図的に呼ぶ者だっていった批判にさらされかねない作品を手がける人として、しっかり持っておかなくてはいけないもの。そこを固めた上で作品に臨んでいるっていうところが確かさの理由か。格好いいからといって真似してはいけないジャンルなんだよな、やっぱり。

 相変わらずに格好良かった和装侍系音楽集団NYST.は、今回から電気楽器が使えなくなったハンディを何やら前に透明なボードを置き、背後にもボードを置くことによって反響させ、増幅させることによってカバーしようとした模様。ギターはアコースティックでも結構鳴るしパーカッションも割となる。ラジカセも仕様可能だとやっぱり人間の声が奥に引っ込んでしまうところをどうにかしようって工夫が凄い。そしてやっぱり巧いから、大勢が集まって聞き惚れる。あれだけ囲まれているなんてもうほとんどスターじゃん。けど市井ではまだまだ。はやく何かの音楽に使われないかなあ、「夢を見る間に抱きしめて」。名曲なんだよ。和装系では柳瀬式さんはブースを離れアトリウムのステージに登場してパフォーマンス。その歌声を聴かせ踊り子さんの強力も仰いでみせたアクトはきっと大勢の心に染みたことだろー。ここから一気に羽ばたいて欲しいなあ。


【5月11日】 眉村卓さんによる永遠のジュブナイルSF「ねらわれた学園」が、あのサンライズによってアニメーション化とかで、古いテレビドラマとか、薬師丸ひろ子さんが出ていた劇場版とか強い印象を残した作品を過去に持っていったいどの線を狙うのか、「時をかける少女」みたいに原型をより進歩させたような作品にするのかって興味が今のところ湧いてたりするけど、そうした語られる「ねら学」史の中で1997年に村田和美さん主演で公開された劇場映画と、同じ村田さん主演のテレビドラマがすっぽり忘れられてしまっているのはやや残念。結構見てたし。

 何しろテレビドラマ版の方はエンディングが「超時空要塞マクロス」の歌姫、リン・ミンメイを演じて世間に強い印象を残しすぎた飯島真理さん。けどその印象を引きずりすぎてしまったことを当人もいろいろ考えていただろう時期に、あの透明感ある声でもって深夜にとっても不思議な戦慄の歌を響かせてくれてまるっとミンメイ的な印象を塗り替えた、ような気がしている。というか「MIDORI」やら「キモノステレオ」といったアルバムですでに脱却してたんだけれどやっぱり世間はそうはひっくり返らない。テレビって媒体を使って響かせたその声はやっぱり強力だったんじゃないかなあ、って思いたいけど果たして。

 洋泉社から出た「鮮烈! アナーキー日本映画史 1959−1979」ってのが届いて表紙がとてつもなく美人でこれは誰だと調べたら知っている人には有名過ぎるとてつもなく美人だった頃の加賀まりこさん。「月曜日のユカ」からの1場面で下着の上に男物のパジャマの上だけを羽織って鏡台の横に腰掛け加えたばこでこっちを見つめるその視線を、映画館の大きなスクリーンで浴びたらもう男子だったらそのまま昇天してしまいそうになって当然かも。和製BBって言われてたって話もあるけどブリジッド・バルドーよりよっぽどコケティッシュなのはその黒髪とその黒い目に深遠さが見て取れるせいなのかも。金髪は明るいんだやっぱり。

 ちなみに僕がこれを加賀さんだって固有名詞意識したのって、NHKの大河ドラマ「花神」でもって村田蔵六こと大村益次郎のちょいエキセントリックな女房をやっていたのが最初くらいだから、年齢的には30歳を過ぎて女盛りではあったもののキツ目のおばさんといった今に繋がる加賀さんイメージ。最近はそうしたキツさを前面に出すことによってよりくっきりとキャラ立てしているけれど、かつて六本木で評判になった美少女ってイメージになるホント、まるで記憶にないんでこの時期にこうして世に問われてみたのをきっかけに、見返してみるのも悪くないかも。というかしかしどんな映画なんだろ「月曜日のユカ」って。共演の中尾彬さんはやっぱり首にねじりマフラーを巻いているのかなあ。

 あったなあ「ダメおやじ」。それから「ドーベルマン刑事」。さらに「ドカベン」「野球狂の詩」なんてものもあって時折テレビ放送されたりもして見ながら漫画とまるで違うじゃねえかと怒りつつ、それでもあのキャラがこうなるんだ的な楽しみを覚えて笑って見ていたような漫画原作の実写映画って奴が1970年代とかには結構あったりもしたんだけれども、今のようにそうした映画がロードショーの看板を背負ってたりはしてなかった。「鮮烈! アナーキー日本映画史」の中でBazilさんが書いているコラムによれば「あくまでも併映作品のための穴埋め企画、混載パンフの裏表紙側」といった扱い。何週間か上映されては次へと消えていく、それこそ連載漫画のような印象だった。

 とはいえBazilさん、「それでも40年近く経ってなお輝くのは、イロモノに賭けたカツドウ屋魂ゆえではなかったか。今や花盛りの実写マンガ作品群にあって、40年後に顧みられる作品はどれほどあるだろうか」って続けて書いていたりするのはなるほど納得で、散々っぱらイメージと違うって文句を言われた果てに消えていくもの、存分にイメージを表現していると讃えられるものも含めてどちらも映画という歴史の中で、どれだけの存在感を残しているのかっていうと、映画ってものへの人の関心の重さが変わってきていることもあってちょっぴり掴みづらい。「デビルマン」くらいになると歴史に刻まれているのかな、あるいは「キューティーハニー」とか。「宇宙兄弟」に「テルマエ・ロマエ」は果たして。まだ見に行ってないんで見ておくか。

 これは静かな物語。それでいて激しい物語。ササクラという人のデビュー作らしい「緋色のスプーク」(講談社BOX)は、領土を奪ったり奪われたりする戦いにある国で、赤の死神と呼ばれるくらいの凄腕ながらも当人はクールな少女のニケというニックネームの戦闘機乗りと、彼女の専属のようになっているアガツマという整備士との間に繰り広げられるドラマを描くストーリー。といっても純粋な恋愛ドラマにはまるで向かわずお互いを認め、どこか愛おしく思っているような風さえありながらも、一皮むいたその下では何か真意を探るような行為心情が見え隠れ。信頼と疑惑の交錯が読む人の緊張感を誘う。

 ニケとアガツマだけではなくって、ニケとは学校でも動機だったらしい男の戦闘機乗りに整備士とは故郷が同じながらも戦火の中で国が別れ別れになってしまった女性がいて、ニケの義理の父親らしい監察官がいて整備士たちの基地にいる軍医がいてさらにパイロットたちが通うバーのマスターがいて、そんな出てくる奴らの誰もがストレートに実直な人間とはほど遠い何かを腹の奥底にもっていて、探り合い刺し合うような関係にあったりするからたまらない。誰がいったいどこの所属で何を目的にしていて、そして誰を裏切っていたりするのか。一筋縄ではいかない関係性に帰結する先が見えずページを繰る手に戸惑いが浮かび、手探りのような感情を浮かび上がらせる。

 そんなまるで見えない展開の果て、起こるエピソードの何と切なくて愛おしくて狂おしく痛ましいことか。そこでようやく訪れる純粋な愛の発露に誰もが戦慄し、屹立して喝采を贈りたくなるだろう。奴は果たして安心して眠れたか。そう思いページを閉じて祈る。いつ果てることもなく続く戦闘機同士の空戦や爆撃機による襲撃の描写、親しい人が明日には死んでいたりする戦争に痛み倦んだ精神のもの悲しさ、上がればそれでも戦う戦闘機乗りの習性にそうした戦闘機乗りたちによって繰り広げられる圧巻のドッグファイトシーン等々、森博嗣さんの「スカイ・クロラ」を思わせつつより人間関係を複雑に、猥雑にしたようなストーリー。押井守監督の手で映画化して欲しいって思わせる。いや無理か。

 戦闘機乗りとスパイって意味では時雨沢恵一さんの「アリソン」にも通じるところがあるかな。あれともっと殺伐とした感じ。「とある飛空士への追憶」シリーズとはちょっと違うか。を殺伐とした感じか。いずれにしてもよくあるライトノベルのように全体が見えやすい構図でもなければ、理解しカタルシスを得られるような顛末でもない物語。それがとっかかりを阻むかもしれないし、読んでいても愛が欺瞞に満ちて信頼が虚実にあふれた関係に、これは感情を添えづらいと思うかもしれないけれども、それだからこそむしろ今、読む価値がある。これが次のライトノベルなのかもしれないし、もっと別の小説ジャンルかもしれない。規定の枠組みなんてもはや無関係だと思わせ、読ませ考えさせ戦慄させて頷かせる。その意味で傑作。だから迷わず読むように。ササクラ「緋色のスプーク」を。


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