薄命少女

 誰も死を知らない。死によって肉体は終わり、心が閉じる。その先には、ただひたすらの無があるばかり。苦しいと嫌われ、恐ろしいと厭われる死が、本当にそうなのだと語れる者は、だから誰もいない。

 にも関わらず死は、苦痛や恐怖とともに語り継がれ、認識される。それは死が、自分という存在、この思考して行動する主体を、永劫に失わせるものだからだろう。今、考えている自分が明日、死によって消失する。今、語っている自分が明日、死によって沈黙する。それがどうにも狂おしい。たまらなく恐ろしい。

 なおかつそんな死から、誰も逃げることはできない。だったら早く、終えてしまえば良いのだろうか。未来に希望を抱けない空気の中で、死に恐怖し、生にすら苦しんでいるのならば、もはや存在に意味などないのだと、感じて震えている人がおおぜいいる。

 だからといって、自分から降りてしまうのは、やはり間違っている。なぜなのか。その理由を、あらい・まりこの「薄命少女」(双葉社、743円)という漫画が感じさせてくれる。

 父親と2人ぐらしの女子高生、橘佳苗は、ある日、酔った父親の独り言で、自分の余命があと1年しかないと知ってしまう。嘘だと受け流せず佳苗は、いつか訪れるその瞬間に、心で怯え嘆きながらも、顔や言葉には出さないで、その後の日常を過ごしていく。

 それでもひとりの時、あるいは誰にも気づかれない時に、死への恐怖と、生への執着をのぞかせる佳苗。その描写が、もっぱら起承転結によって描かれる、4コマ漫画というフォーマットの上でオチとして使われていて、シュールな笑いを呼び起こさせつつ、佳苗の身へと、自らをなぞらえ、漫画を読む人の気持ちに、不安めいた感情を覚えさせる。

 男子と恋をしても、親友と喧嘩をしても、来年にはなんの意味ももたなくなる。むしろそうした交流は、相手の悲しみを深めるだけだと斟酌する。娘の延命のための治療費を稼ごうと無理を重ね、かつての親友を訪ねて金を無心する父親にも、申し訳ない気持ちが募る。

 もうたくさん。誰かを悲しませるなら、今すぐにいなくなった方が良い。そう諦めかけていた佳苗が、ある事実を知って気持ちを変える。生きること。生き続けること。それが、誰かに喜びをもたらすものだと感じるようになり、佳苗は逃げない決意を固める。その前向きな姿が、読む人を、降りないでいようという気持ちにさせる。

 笑いが生まれ、ぬくもりが生まれ、あとは歓喜のフィナーレへと向かうだけ。そう、誰もが思い願った刹那。漫画は、1つのコマによって、大きな転機を迎える。

 自分のすべてが消えてしまう。自分の明日が失わてしまう。そう感じさせる、決定的な1コマから、断ち切られてしまうことへの不安と、置いていってしまうことへの慚愧が再びわき上がって、固めた決意を激しく揺るがす。

 やはり、降りるべきだったのか。誰もが迷いそうになる。けれども、答えはやはりひとつしかない。明日、目を開ければ、自分を取り囲むおおぜいの顔に出会えると、信じて佳苗はいったん目を閉じた。そこには、断絶への恐怖は微塵もない。結果はどうあれ、精一杯にやり遂げることの価値が、戸惑いと悲しみのなかからじわりと浮かんで、下を向きかけた顔を上げさせる。

 明日、語ってはいなくても今、語っている自分は確かに存在する。それで十分ではないか。明日、語れないのかもしれないのなら今、語れるだけ語り尽くせば良いではないか。いつか必ず、死は訪れるものだとしても、それまでは誰もが生きている。その生を、精一杯に生きることだけが、死への恐怖を埋めるのだと、佳苗の生き様に教えられる。

 それでも、生に不安になる時はある。死に恐怖する時もある。そんな時、この漫画を最初から読み直し、決定的な1コマに衝撃を受け、死を超える生の意味について思い返そう。たとえ悲しみにむせんでも、恐怖に震えても、そうした感情を今、感じている貴方は確実に生きて、存在している。そしてその生を、どうすべきなのかを、佳苗だったらどうしただろうかと考えながら、精一杯に生き抜こう。


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