縮刷版2000年10月中旬号


【10月20日】 「東京ファンタスティック映画祭」でも上映されるらしー香港映画の「超速伝説 ミッドナイト・チェイサー」は日本のVシネマあたりで言うところの「首都高バトル」あるいは「湾岸ミッドナイト」って感じの内容で、イーキン・チェン演じる主人公のスカイは金持ちのボンボンながらも愛の足りない母親に反抗気味で、買ってもらたスポーツカーで香港の公道を使って夜毎レースを繰り返している。父親はブラック・トンと呼ばれた伝説のレーサーだったけど、タンフンとゆー男に敗れてそのまま行方知れずとなって死んだと言われて幾星霜、罪を犯して刑務所に入っていたタンフンが出所して因縁も深いトンの息子のスカイとバトルを行いこれを粉砕して香港の走り屋のトップに返り咲き、哀れスカイは同乗していた恋人を失い香港を逃げだし父親を探す旅に出る。

 絶頂から挫折を経て再び立ち上がるストーリーに親子の情愛なんかも絡めた、実にありがちありきたりな内容だけど、無理にひねったわざとらしさに辟易とさせられるよりはストレートな感動の方が脳にジンジンと来るのはやはり完成されたフォーマットだからなんだろーか。あとは自動車やらバイクのレースとゆー緊張感があるシチュエーションが繰り返し挟み込まれていることも、映画を見ていてそれほど飽きなかった要因かも。もっとも車好きなり車を運転した経験のある人なら「分かる」カーレースにかける男の心理が分かっても、車にてんで興味のない人にはどう映ったのかは不明。もっとも最近はゲームでレースを楽しむ人もいる訳だから、そーゆーデジタルドライバーな人でもレースのスピード感なりレースに燃える男たちの気持ちはそれとなく感じられると思う。11月25日からテアトル池袋でもレイトショー。

 しかし驚くべきは香港における日本製品の繁盛ぶり。まず対決する車がスカイの三菱ランエボにタンフンのスバルインプレッサWRX。日本が誇るラリー向け自動車が香港の公道をサイドバイサイドで駆け抜ける様は日本だと交通規則なんかの関係できっと撮れなかっただろー。買ったのはどっちってのは映画を見てのお楽しみ。あとスカイの友達で天才メカニックの青年が改造のテクニックをしたためたノートが「たれぱんだ」のファンシーノートで、ページをめくるたびに「きょうもよくたれてます」の日本語が映ってちょっと不思議な感じ。そのメカニックの妹が兄に似ていると言ってランエボに抱えてのるのがやっぱり「たれぱんだ」の縫いぐるみだったりして、香港で流行りつつあるとは聞いていたけどこーゆー場面で登場するとやっぱり驚く。ゲームセンターで「DDR」に興じている姿も映っていたし、前に見たフランス映画での「ゲームボーイ」の普及ぶりほどは驚かないけれど、映画が作られた99年当時の香港での日本文化の受容ぶりがなかなかなものだったってことが分かって勉強になる。映画ってホントに良いものです。

 阿部和重さんともども「首都高バトル」が好きらしい哲学研究者の東浩紀さんが神田の三省堂本店で新刊「不過視なものの世界」(朝日新聞社、1800円)サイン会を開くってんでちょっとだけのぞく。スタートする30分前に行っていつもの階段に並ぼうとしたら早かったのか誰もおらずいきなり先頭になってしまってちょっと焦る。対談集とは言え哲学研究者によるそれなりに難しい本だったりするから、もしかしたらごくごく少数の人しか並ばずサイン会を開く人にとって前日眠れない理由ベスト1な「サイン会に誰も来ず手持ちぶさたに時間が過ぎるのを待つ」事態でも起こったかと心配したけれど、スタート直前には三々五々とスーツ姿な人にカジュアルな服装の人に女性なんかが集まって行列を作っていたよーで、それなりなサイン会に仕上がったみたい。これなら来週月曜日の青山ブックセンター本店での講演会もギッシリかな。

 それにしても東さん、サラサラだったヘアにちょっぴりウェーブをかけて色も茶色っぽくしてあって変化を目指す兆しがチラリホラリ。手には例の「黄色くてぐるぐる回るもの」の缶バッジ2種類を持っていて、村上隆さんの海洋堂に作って貰った「DOB」キーホルダーほどではないけれど、サブカルチャーには必須アイティムになりつつある「キャラクターグッズ」を手に入れて「キャラクタービジネス」を実践実感できるよーになった。ちなみにバッジは月曜日の講演会の会場で頒布するらしーんで、ファンならずとも世紀末&新世紀キャラクターとして2種類を購入しておくと将来価値がでるかも。東さんが将来ノーベル賞をとった暁には、天文学的な金額で取引されること請負だね。サイン会では1言2言あいさつしつつさっさと退場、観察したけど白いワンピースで論ヘアーの清楚な美少女たちが花束に抹茶ケーキなんかを持って取り囲んでる雰囲気はなく、サイン会が終わった後で「アヤツジさーん」ならぬ「アズマさーん」と合唱する声もなく、知性体アイドルとしてはもうちょっと浸透度を高める必要があるのかも、とか思う。男ばかりで「あーづまー」と叫んだら、やっぱめーわくだろーし。


【10月19日】 ほかだと「デ・ジ・キャラット」絡みのグッズだってあったって不思議じゃないとか思ったけれど、あれはニセ耳ニセ尻尾なニセ猫だったりするからやっぱりあったらおかしいかもしれないと思いつつ、銀座の「プランタン銀座」で開幕した「ねこ・猫・ネコ アート&グッズフェア」をのぞく。枡野浩一さんの「漫画嫌い」で表紙とか中の写真とかを担当していた写真ユニットの八二一さんは写真を6点出展していて、一番右端にあった枯れ葉に埋もれた2匹のネコの写真がどことなく野生っぽさを醸しだしてて良い感じ。カラーでぶれずにあれだけ大きく撮影出来てるってことは相当に近寄って撮ったのかな、だとしたらなかなかな根性と腕前だと撮影の苦労なんかをしのびつつ、たぶんコーナーに立ってた男性女性の関西弁で喋ってた2人組に心の中でエールを贈る。気恥ずかしいから挨拶はしなかったけど。コーナーでは八二一さんの写真を使ったミニカレンダーなんかも売ってるからネコ好き「漫画嫌い」好きはお近くまで行かれたらお立ち寄りを。

 それにしても八二一さんのパネルのちょうど裏側あたりにあったブースで「猫の皮製品」だか何だか書かれたPOPがあって愛猫家の集まりそーな会場に何とまあ残酷な商品が置いてあるんだと近寄って見たら、まさしく三毛にトラにブチな猫の毛皮をはぎとって仕立て上げたハンドバッグにスリッパに財布にリアルネコミミ帽子にリアル猫シッポが所狭しと並べられて猫の聞こえない怨念が渦巻いていた、なんてことは当然なくって「猫の」絵が描かれた「革製品」のバッグとかが売られている、極めて健全に愛猫的なブースでした。もっとも皮は猫ではなかったとしても牛なり豚なり鹿だったりすることは確実な訳で、愛牛家なり愛豚家なり愛鹿家なりが見たら卒倒すること請負。それを思うと猫じゃないから良かったね、なんてことはやっぱりおおっぴらには言うもんじゃないんだろーなー。ここはやっぱり公平を期して、単純に食され消化されるなんてものじゃなく、世紀の音色を聞かせてくれる楽器に生まれ変わって芸術に貢献している猫の姿を見せる意味で、銀座築地新橋柳橋ほか花柳界に伝わる三味線の名器を展示するくらいの「愛猫ぶり」が欲しかったなー。

 山形浩生な数日。まずは「サイゾー」11月号では八谷和彦さんとITに関連して対談した話を枕にアートとITの関係についての考察を延長してアートのアイディアなりアルゴリズムについて言及して、そこから皿に文芸作品にもアイディアとかアルゴリズムがあってそこいらあたりにまで遡る「リバースエンジニアリング」を決行したらどんなになるんだろーかと書いている。「単細胞でワンパターンな作家、たとえば吉本ばななとか田口ランディとか北沢拓也とか蘭光世とか、じゅうぶんにリバースエンジニアリングできるんじゃないか」ってな具合に、1つにはあからさまな作家への評価、1つには呼んでいる作品の守備範囲の広さをサラリと流して読んでいる人をドキッとさせることを平気でやらかすあたりがヤマガタ的。「たぶんその核にあるアルゴリズムは、バカみたいに簡単なものであるはずだ」なんて具合にダメ押ししてるし。アルゴリズムを解析した上で別の人がそれをなぞって書いたものが果たしてオリジナルと等価かというと、例示されているのが自分の好きな作家だったら絶対に違うと断言するところを、テレビ的にはなんだかな吉本さん田口さんだったりするから、あるいはそうかもしれないなんて言ってしまいたくなるところに、作家が生み出す小説とゆー表現形態におけるリバースエンジニアリングの難しさがある。ところで「山形道場」の後から4行目、「書いたのいう話」って、何?

 その「サイゾー」11月号、爆笑問題の「日本原論」で「太田 まあ、あとは、なんつっても柔道のタワラちゃんだよな」「田中 ヤワラちゃんだよ!」「太田 いや、俺のイメージでは”タワラちゃん”なんだ」とあって日本が誇る著名人にも同感な人がいたことを知って、あの奇想ぶりに少しながらも近づけたことにちょっとだけ喜ぶ。風邪薬がドーピングに引っかかったラドゥカン選手について「太田 あんなに毎日対象やってんのに風邪ひくのかね?」と言ったのには流石に参りましたが。あと「ここが変だよ、NHK!」に登場した2人の首領会長に関する記事のそこはかとない配慮にもちょっと感銘。シマゲジと呼ばれ政界との癒着権力への執着が常につきまとった島桂次元会長に関する記述ではロッキード事件の報道番組放送中止事件に関連して島氏の反論を合わせて掲載しているし、失脚にも政府内部の反島派の働きかけがあたことをちゃんと記述して島氏単独でのワルぶりを減殺している。

 よーに見えるのは、もしかするとかつて日本に夏の終わりの線香花火の如くパパッと輝いてポタリと落ちたデジタルでマルチメディアにニューメディアな雑誌「WIRED」の日本版の確か創刊号だかで、かのシマゲジを記憶では表紙にまでフィーチャーした記憶が「WIRED」とは全然関係のない「サイゾー」にも続いているんだろーかとゆー邪念があってのもので、読む人が普通に読めば隣の海老沢勝二現会長と同様に全面的な非難だと思うのかもしれない。そうそう思い出したよ創刊にかこつけて外苑前と表参道の間にあるクラブっぽい店で開かれたすし詰めパーティーの会場で壁際に秘書だかと一緒に立っていたシマゲジを見かけたんだったよ。凄みは健在だったけど威圧するよーな巨大さはなく「サイゾー」の写真に近い痩身でもって目だけギラギラさせていたのが今も印象に残ってる。本人の意志かはともかくネットメディアに早くから目を付けてあれこれ実験しつつ実践してた人だけに、今も存命ならきっと面白い存在になっていたかもしれないと、ちょっとだけその死を悼んでみる。デジタル&ネット黎明期にはホント、オモシロアヤシイ人がいっぱいいたなー。

 でもって八谷さんとの対談が掲載されている「美術手帖」11月号。やっぱりデカいなあ。2600って数字のTシャツは何だろー、靴は相変わらずにエンジニアリングブーツ、レッドウィングかな? 対談の方ではここんところ良く山形さんがモンゴルへと出かけて大統一理論だとかレストランだかを調査研究している傍らで何をやっているのかが判明、モンゴルの郵便システムの整備とゆーことでパオは遊牧しても羊は大切に育てる訳だから人間じゃなく羊に1から100万まで数字をつけて住所にしてしまおうとゆープロジェクトとはちょっと違って、飼い慣らした羊を駅伝替わりにつかって手紙リレーをさせよーとしたら途中に紛れ込んでいた黒羊さんが読まずに食べてしまって慌てて来た方向に向かって「そっちの手紙のごようじなあに」と手紙をしたため贈ったら途中に紛れ込んでいた馬が食べてしまったエピソードなんかも語られず、ローテクだけれどもほのぼのと、けれども場に相応しいコミュニケーションのあり方について示唆してくれる割と真面目な対談に仕上がっている。過去の八谷さん作品の羅列は今もって謎めいた存在な八谷さんの全貌が分かって有り難い。

 しかし何といっても「BT」11月号はあの「明和電機」を表紙にして巻頭特集にする大フィーチャーぶりが凄いし素晴らしい。日本の「美術界」からはパージされても世界の「現代アート」では評価されつつある村上隆さんに比べると、「現代アート」の文脈からもヒエラルキーからも大きく外れたところで絶大な人気を誇り、どちらかと言えばパフォーマンスでタレントで芸能人で芸人みたく見られていた「明和」を、ここに来て大特集する「BT」にいったいどんな心境の変化があったんだろーかと記事を読んでいたら、インタビュアーの人の「はっきりいって明和電機の価値で、今回は『美術手帖』の敗北宣言なんですよ」とゆー言葉があって、ここに至るまでの葛藤と抵抗なんかが行間から滲み出ていて面白い。「明和電機」の副社長の「こっちのほうが前衛だったんですよ。展評に載るよりも『笑点』に出演することのほうが、よっぽどドキドキすることだったし」とゆー言葉なんかにも、業界としてのアートに対する明和なりのスタンス戦略意識が浮かんでる。

 意味も分からず横文字を並べるならアバンギャルドな製品を会社組織の模倣というメタ的な形態でパフォーマティブに提示してコマーシャルな部分での成功とアーティスティックな部分での評価を得た近年どころか長い歴史の中でも稀有なアートユニットだと言って言えないこともないけれど、10年近い活動を経てとりあえず1つの形として感性の域に達してしまった感もあって、これから同じことを永遠にやっても伝統芸能化していくよーな気もしないでもなく、あるいは河原音さんの日付ペインティングのよーな継続が力になる芸とも違って永遠に繰り返すことで生まれる価値もあんまりなさそーで、その辺り「明和電機」によーやく追いついて来た社会の中で、より一段のアバンギャルドさ、一歩先を行た新しさを提示できるんだろーかしてくれるんだろーか、それともネーミングそのものが作品の一端を成す「明和電機」を抜けて別の表現に取り組むんだろーかと不安に期待が入り交じった複雑な感慨を抱く。副社長がトボけた表情でもって演じているスチールに映し出された「エーデルワイス」のシリーズはあんまり良く知らないし、40年会に入ったらしー美大とは無縁だった社長が取り組むドローイングも現時点では判断の仕様がないから、ちょっと観察してみよー。


【10月18日】 唐沢俊一さんの「裏モノ日記」10月17日号で叱られる。ただのネット野郎の日々垂れ流しな個人的思い込み風言説に異議を唱えつつ、「マンガ家とコンプレックス」について歴史的経緯を解説し、現状への言及を行って広く読者に知識を付与しようとする親切さは、我が身を棚に上げて1読者として見ればこれほどありがたいものはない。時の話題に対してほぼリアルタイムに反応が出てくるネットメディアの良さが出ていると他人事のように実感する。タダだし。分からないこと間違えそうなことがあったら生き字引的な人をまず刺激して、反論を頂き自分の知識をデバッグしていくのも相手の迷惑を顧みずに言えば1つの手かなーとか思ってみたりもしたけれど、これって総体的に見ればネットを介してつながった意識の中で一種の”自問自答”をやってるんだとも取れる訳で、そんなところからネット時代の知識のあり方なんてものも考えてみたくなる。

 異議に対して説明するなら、コンプレックスがあるんだろう? と言われた時に「ありますよ」と認めたくないのがコンプレックスたる所以であって、だから「そんなものはない」と反論してしまいたくなるってことがあって、そんな自意識を敷衍させて「コンプレックスは創作の源ではないのだ」と言いたかったかったことが1つにある。その意味では「オタクは滅びた」とゆー断定の元に記事を組み立てる側と五十歩百歩かもしれない。五十歩百歩だなって意識はあるんだけどね。

 あと、漫画家にしても社会的な地位とか金銭的な状況については不平不満が山ほどあって根深いルサンチマンは持っていたけれど、自分が書いている漫画というもの、それ自体が他の表現形式に比べて劣るものだというコンプレックスは持っていなかったのではないのか? と考えたことが当方の「コンプレックスとは無縁だ」という言葉につながったことも言い訳がてら説明しておく。作り手も受け手も作品的にはダメだと思っていなくても、半ば自虐的にそれを愛してしまうのが「オタク」だとして、それが社会的に認められたとしてもともとの評価に世間が追いついてハッピーと思っても、良いものを作り出したいと頑張って来たクリエーターの意識がスポイルされることはあるんだろうか? オタクが滅んだからと言ってクリエーターが生まれなくなってアニメやマンガが衰退するなんてことはあるんだろうか? という考えから「AERA」の記事に対してああいった物言いになった。

 もちろん社会的金銭的な向上心が作品の質に反映されるケースもある訳で、ルサンチマンなりコンプレックスの衰退と作品の衰退との相関関係もあながち排除できないところが悩ましい。それだけでに帰結するのが問題なら、それを排除するのも問題だという意見には納得できるけど、だとしたら「社会的制度的」という部分での「コンプレックス」が徐々に薄れつつある将来、マンガにしてもアニメにしてもフィギュアにしても何にしても、「素晴らしいもの」は登場しなくなってしまうんだろうかどうなのか。ここで心を鬼にして、再びのバッシングを行い発憤を促すべきなのか。なんてことを考えると、オタクを「社会に認められた途端に消えてしまう哀しい存在」と揶揄する「AERA」の記事、つまりは「オタク」批判を通して逆にオタクの発憤を喚起しようとした一種の叱咤激励だったってことになる。そうだったのか「AERA」。ありがとう「AERA」。だったら許そうこれからもガンガンとワルクチバッシングを書いてくれい。

 福田和也大先生が登壇するってことでメッツってソフト屋さんが設立した新会社の発表会見をのおぞく。まだ結構若いメッツの社長が政治も経済も社会も文化も乱れて切った現代の社会に何か言いたいことがあるらしく、硬派な記事を掲載していくメディアを作って庶民の啓蒙啓発に務めるんだってな意気込みに、有名人著名人を書き手に集めたサイトをアドバルーンにしてお客さんを集めてそこで一種のポータル事業ASP事業を展開しょうってな思惑なんかも含めて30億円ばかりを注ぎ込む覚悟でインターネット上に新しいウェブマガジン「アイミディア」ってのを立ち上げた。編集長はPHPだかから招いた人らしーけど、その人とは別に我らが大先生・福田和也さんを特別編集委員っぽい役職でどーんと迎えて政治家のインタビューとか伝を使った硬派な論客の起用とかってな部分にその能力資質人脈舌鋒を使ってもらっている。

 バブル期に儲かった会社が映画とか出版とかに進出しては「文化」の箔を付けようと躍起になった記憶があるけれど、当時の土地長者株長者が今はIT長者による文化支援にスライドしたって言ってもいいのかな。お金に色も思想もないから、パトロンとして何か新しい「文化」の立ち上がりを支援してくれるのことには素直に賛辞を贈りたい。ほかに登場する人が西部萬さんに中西輝政さんに小沢一郎さんといった政治にも経済にも社会にも文化にも一家言ありそーな人たちばかり。既存のなれ合いに終始し下心に満ち溢れたメディアとは一線を画して正しいことを正しいんだと主張していき悪いことは悪いんだと訴えていく、超硬派なメディアが立ち上がるんだと期待をしよー。

 と思っていたところに、目の前で突然始まった事態に果たして「正義のメディア」を期待して良いんだろーかと激しく悩む。だってねえ、記者も含めて発表会に集まった人たちを相手に始めちゃったんだよ、大抽選会を。サイトの中で豪華な商品があたる懸賞を行っている流れから、デジタル機器を初めなかなかに交換な品物を舞台の上に持ち出して、来場している人の中から1人を選んでプレゼントしてくれるってのが抽選会の主旨。来場者には金融機関とから来ているアナリストとか融資担当者の人とかもいて、「中立公正」を錦の御旗にかかげる「ジャーナリスト」とは違って懸賞の当たったプレゼントを持って帰ってもそれほど信義にはもとらないケースもあるけれど、それでも純粋な評価に対する魚心水心な関係を邪推されかねない懸念もある訳で、アナリストでも融資担当者でももらわないに越したことがない。

 1万歩ゆずってアナリストがジャーナリストであっても、抽選に当選して品物をもらうことと、記事に手心を加えることは別なんだと理解してそう振る舞えばちょっとは救われるんだけど、こともあろうに当選した雑誌の編集者に対して「宣伝して下さいね」と念押してしまう主催者側の司会者の言葉を敷衍するに、彼らがこれからやろうとしてるご立派なメディアの言論の公正さを、果たして信じて良いのかどーかと訝りたくもなって来る。さらには当たった「G4」の箱に登壇している編集委員たちのサインを入れたらどうでしょう、なんて提案してしまう神経の不思議さに、果たして皆さんどんな顔をして嫌がるんだろーかと思って最前列から観察したけれど、そこは大人な方々だけあって頷き同意するスタッフとして正しい態度を見せてくれた。こうやって大人って生きて行くんだね。

 それにしても驚いたのは、11月にスタートするウェブマガジンに福田さんとは対立関係にある柳美里さんが登場しているってことで、もしかして仲直りでもしていたのかと思ったら、会見後のパーティー会場で福田さんが知人らしー人と話していた言葉の中で、あれやこれやあるかもしれない可能性を示唆していたのが遠巻きにしていたこっちの耳にも入って来て、ご本人としてもそれなりに意識しているらしーことが分かる。もしかしたら柳さん、福田さんが絡むんだったら出ないとかって言い出すこともあるのかな。それとも本当に仲直りが済んでいて、柳さんを福田さんが引っ張って来たなんてこともあるのかな。取材には来てなかったみたいだけど「罰あたりパラダイス」なんかでそのあたりの経緯とか印象とか、福田さんのネットメディアに対する意識なんかを合わせて書いてくれたら絶対に読みます。

 ちょっとだけ告知。枡野浩一さんの「漫画嫌い」で表紙とか中の写真とかを担当していた写真ユニットの八二一さんも出展している「ねこ・猫・ネコ アート&グッズフェア」ってのが19日から銀座の「プランタン銀座」でスタートの予定。国内のあらゆる猫グッズが揃うらしく猫好きにはたまらないイベントになるみたいだけど、今度は猫科の「AIBO」とか、タカラの馬鹿グッズ「ジャレット」とか世界に冠たる耳なし猫型ロボットのグッズとかが出ているかは不明。化け猫もきっといないでしょー、だから”まや”もいないでしょー。ちなみに来場者には猫大好きな「フリスキークランチ」のサンプルを1セット、プレゼントしてくれるみたいなんで猫を飼っててキャットフードに実需のある人は行って損はないかも。そーでない人も最近の猫飯の人間様以上の高級ぶりにおやつ替わり昼食がわりを狙って行ってもそれほど悪くはないのかも。猫はともかく人間のお腹の保証はもちろんいたしませんが。


【10月17日】 上げたり下げたり。「AERA」で「オタク」を勝手に滅ぼしてくれちゃってちょっと参った朝日新聞社もたまには良いこともやってくれるってことで、「週刊朝日」の10月27日号に掲載されたミス・ミナコサイトウじゃない方の斎藤美奈子さんが連載している「誤読日記」に笑う。槍玉に挙げられているのは朝日新聞が知性と教養と名文の代表格として自慢する「天声人語」。その2000年1月から6月にまとめられた本を取りあげて、中に収録された数々の「天声人語」に何種類かのパターンを見つけてあれやこれやと面白がっている。

 パターンは3種類。まず「中接型(竹が途中で木に変わる)」では新潟の女性監禁事件が柳田国男の「遠野物語」に転じて終わってしまい「女性を心配しているのか、博識ぶりを披露したかったのか」、結局何を言いたいのか分からなくなってしまう。次に「キセル型(木が途中から竹に変わり、ラストでもう一度木に変わる)」。杉村春子の芝居のセリフを枕に竹下登に続いて最後も芝居で占めた回に対して「この型の特徴は、文化芸術が世俗的な話のダシに利用されている感が強く残ることである。竹下登といっしょにされちゃ、杉村春子も浮かばれまい」と嫌味に締めくくっている。

 最後が「逆転型(最後に突然正体がわかる)」。アイヒマン裁判についての枕が最後に日の丸・君が代を尊ぶ命令に服従している日本の風土に対する批判になる回を紹介していっる。でもって3つの型に共通して「天声人語の得意技は、何かを『ふと思い出す』ことだ」と揶揄っている。状況を指摘しているだけだとあるいは書き手なんかは言うかもしれないけれど、朝日の発行する媒体で朝日が誇るコラムについて痛みのツボを付く筆致が揶揄とか嫌味じゃないはずがないし、読んだ編集の人だってきっとそーゆーニュアンスを以心伝心に感じただろー。

 にも関わらずの掲載はあるいは朝日お得意の「批判だって受けますよ」パフォーマンスによるガス抜きかもしれないけれど、そこはやっぱり「天声人語」、槍玉でも犠牲の羊でも挙げるにはいささか重すぎる対象だけに、「週刊朝日」の本気が感じられて一昨日の社説に続いてなかなかなもんだと賛辞を贈る。もっとも誉めれば誉めるほど「天声人語」の「いかがなものか」的安全圏からの論調に対する「いかがなものか」的感情が浮かび上がってやっぱり朝日はなあ、ってな気になるんだけど。まったくもって罪なコラムを書いたもんだねえ、斎藤さんは。

 お台場の「PC WPRLD EXPO」をのぞく。昔むかーし「マックワールド」に行って感じたよーな「未来へのワクワクドキドキ感」をコンピューターの展示会に抱かなくなって久しいけれど、その分より身近な、ふだんの生活に密着した部分でのちょっとした新しさを感じさせてくれる品物が揃っていて、「夢」とゆーよりは「楽」を見せてくれる。たとえば携帯電話なんかに代表されるモバイルで、「IMT−2000」の導入がもたらしてくれそーなテレビ電話なりネットからゲームからビジネスから何から何まで利用可能な電話なりが、今よりも楽しい生活の到来を予想させてくれる。

 流行りのハンドへルドPCだと「パーム」に「バイザー」に「ザウルス」にマイクロソフトの小さい奴がくんずほぐれつの大バトル。それぞれに「GPS」を付けたりキーボードを付けたりカメラを付けたりAVをつないだりってな感じで3合体5合体6合体から16合体へと進化した合体ロボットよろしく格調していく姿を見せてくれる。手軽に簡単なハンドへルドPCが鎧甲に固められて身動きとれなくなるよーな印象もないでもないけれど、そこら辺をポートなりドックなりセンターなりを整備して手軽に接続手軽のデータ移動できるよーにしてくれれば、据え置きのパソコンを核にしたソリューションが巨大な遺跡に見えるくらいに手軽で身軽な「PCライフ」をもたらしてくれる、かもしれない。

 韓国バトルもなかなか。「サムソン」のMP3プレーヤーにモニターが付けばLG電子のMP3プレーヤーにはデジカメがついて多機能化を競い合っている。それが電池寿命の短期化とか操作の複雑化なんかを招くと虻蜂とらずな独活の大木となってしまうんだけど、もとが小さいMP3プレーヤーだけにかろうじて「使って楽しい」「あって嬉しい」範囲に多機能化が留まっている。これがパソコンにズームレンズ付きのデジカメを接合したソニーの新製品になると、持って分厚いパソコンであり使って巨大なデジカメとゆー、進化した挙げ句に余計な部位をたくさんつけて滅びていったアンモナイトやら古代生物やらを思い出させる珍奇な形状になっていて、大丈夫なんだろーかと悩む。とはいえ珍しい物好きな日本人、合理性効率性を越えた「わびさび」の部分に価値を見出す不思議な民族だから、ソニーの歴史にも残りそーな珍品として人気を獲得するのかも。どーせだったら「スタミナハンディカム」に「VAIO」を溶接したり、「PS2」を「AIBO」を背負わせた「ゲーム犬」なんてものを作れば一段を世紀末感が漂うんだけど。「たのみこむ」に頼み込んで付くってもらおーかな。


【10月16日】 「monoマガジン」11月2日号。「岡田斗司夫の新オタク日記9/16−9/30」に例の「ビッグコミックスピリッツ」に掲載された細野不二彦さんによる村上隆さん揶揄なニュアンスの漂う「ギャラリーフェイク」についての言及が。村上さんと海洋堂を引き合わせた人で村上さんの意図なんかもある程度認識している人らしく、その意図どおりに「新聞社の学芸記者とか知的スノッブのおにーさんたち」がそれこそ”リスペクト”して語っちゃった現象に、仕掛けた側がほくそ笑んでる構造を説明してくれている。そーゆー僕自身が「訳知り顔に状況分析なんかしてやがるぜ」なんて具合に、ほくそ笑まれている側にいる可能性も実はあるんだけど、それはさておきいろいろと見えて来ることがあって面白い。

 岡田さんは「コトバへと矮小化されたアート」として現代アートのことを「セコイモノ」と言いフィギュアはその点「世界最先端の芸術」と言っているけれど、日本人のフィギュア好きアニメ好きから見れば分かることであっても不勉強な外国の人の目にはやっぱり異様に見えるもの。そこに岡田さんが「フィギュア」の凄さとして挙げた「斬新なビジュアル」「オタク民族とういエキゾチズム」「造形技法」といった要素を「コンテキスト」として負荷することによって、「フィギュア」も「アートなんだ」と評価してもらえるようになる訳で、その意味ではフィギュアも外に出れば「コトバへと矮小化されたアート」へと落とし込まれてしまわざるを得ず、それでもフィギュアが世界で認められる手段としてコンテキストの添付を認めるか、そんな思考のステップは抜きにして魂で理解しろ、できなれけば理解してもらわず十分と言うべきなのかはやっぱり人それぞれなんだろー。どちらが新の「オタク」かは分からない、だって「オタク」とゆー定義だって人それぞれに違って来ているし。

 だから例えば「オタクは滅びつつある」とか「オタクは衰退しつつある」なんて記事を書くんだったら、さいしょに「オタクとは何か」を定義した上でそこから論旨を発展させていく必要がるんだけど、予想していたとーりに「AERA」の「いかにして衰退したのか オタクの悲劇」とゆータイトルの記事は、ィギュアの世界で朝日的な精神風土では唾棄すべきゴリゴリな愛国者たちがちゃぶ台をひっくり返したに過ぎない「ワンフェス・リセット宣言」とゆー現象をつかまえて「オタクは衰退しつつある」なんて結論を勝手に構築しては、傍証をつなぎ合わせていった内容で、そこには「オタク的」なるスピリッツが様々なシーンへと浸透しているポジティブな現象には触れようとしていない。かと言っていたずらに危機感を煽るだけで「だったらどうすれば良いんだ」とゆー指摘もない、「為にする」記事ではあっても「為になる」記事ではまったくない。

 結論がまずありき、とゆーのは「monoマガジン」の岡田さんの日記の27日付に「AERAの太田記者の取材、『今、衰退しつつあるオタク文化』とゆー主旨らしい」とゆー記述があって、当初からそーゆータイトルで話を聞きに行ったことが分かる。もちろんテーマを持って取材することは悪くないけれど、取材に対して岡田さんは「僕にとっては『衰退しつつある』かどうかはわからない、と答えた」と書いている。「確かにヨーロッパ圏では一時の勢いがないけれど、それは『ドラゴンボール』『セーラームーン』というバケモノ的ヒットが終わっただけのこと。これからのことはまだ、誰にもわかるまい」との説明もしたんだろー。

 にも関わらず「AERA」の記事では、岡田さんの「『オタクという民族』はそのうちにいなくなっちゃう」とゆー発言の後で「ドラゴンボール」や「セーラームーン」以降は海外でヒットしているアニメがないとゆー状況が持ち出され、「衰退の一番の理由は、日本のマンガ・アニメの新しい作り手、つまり『新世代のオタクたち』が育っていないことだという」と続けられている。だからバケモノなんだって、「ドラゴンボール」も「セーラームーン」も。別に衰退してないって。アニメもマンガも。現にアニメは毎日のよーに放映されてて総量では全盛期とそれほど大差がないし、マンガだって「バケモノ」がいない分、まんべんなくあちらこちらにファンが広がって総体としては小じっかりとしたマーケットを確保している。減ってもそれは衰退じゃなく適正規模に戻っただけ。いつか再びスーパーでスペシャルな描き手が現れれば600万部が1000万部の「バケモノ」だって登場するだろう。

 「見下されている」ことが「創造」につながるとゆー宮台さんの説が定説なのかどーかは分からない。少なくともマンガに限って言えば手塚治虫の昔から「見下されている」とゆー意識ではなく「面白い物を作り出したい」とゆー意識が先に立ってあれだけの作家のあれだけの作品が世に出てきて、それがさらに新しい作家の新しい作品を生み出して来たんだと思う。コンプレックスとは無縁だろう。アニメだって宮崎駿さんや富野由悠紀さんが「コンプレックス」の代償として作品を作っているよーには見えない。中には一人二人、屈折し鬱屈した気持ちが原動力となって優れた作品を作り出した人がいるかもしれないけれど、それは決してすべてではない。鬱屈することや屈折することが優れた作品と生み出す絶対条件だと言うのなら、鬱屈も屈折もしてない大新聞の記者様に優れた記事はクリエイトできない、ってことになるけどそれでも良いのかい。関係ないと言うんだろう。

 クリエイトする側へと行かず消費するだけとゆーのは、消費に耐える作品が今は山とあって、かつてのガレージキット勃興期のよーに、マスプロ製品の粗雑さに我慢できないから「俺が作る」的アクションに出なくても済んでいるだけのこと、なんだと思う。自分で苦労しなくても安価な完成品が手にはいることは一方では「飢え」に悩まされない人たちを作り出したけれど、一方では安価な、だけれども「凄い」原型を作る人たちの需要を作り出している訳で、心があり技術も才能もある「作り手」たちはそーいった場へとステップアップしていくだろー。凄い完成品を見て、それ以上に凄いものを作りたいを思う人だって出てくるはず。それは分化であったり浸透であって決して衰退ではない。そーゆーオタクの現状をポジティブに見ようとする思考を一切無視して「創造力という宝物と引き換えに」幸せになったオタクたちは衰退していく哀しい存在だと断じてしまうのはちょっと早計な気がする。「最初に答えありき」な記事にそーゆー「中立公正さ」を求めるのは無理なんだろーけれど。

 もっともそれが直接「衰退」につがなるかどーかは別にして、「オタク」として括られる人たちにも年齢なし趣味思考によって違いが出て来ているのは事実で、その辺り東浩紀さんが11月12日に開かれる「ルネッサンス・ジェネレーション2000」とゆーイベントで、基調講演めかして短い時間ながら語ってくれるらしーんで気になる人は行ってみよー。すでに講演の草稿が公開されていて。読むとあの東浩紀があの「デ・ジ・キャラット」について語っていて、驚きつつも読むとなるほど思い当たる節のある現象が拾われ説明されていて、さすがに東さんだと僭越ながらも感心する。でも「デジ子」はやめてにょ。「でじこ」にしてにょ。もちろん反応が意識か下意識かってことが創造性の低下すなわちオタクの衰退につながるかは不明で、そのあたり短い講演の後の樋口真治さんたちのとディスカッションの中なり直後のミーティングなんかで話して頂けることを希望します。もちろん出没の予定、「ぷちこ」連れていこーかな。


【10月15日】 「新聞週間」だそーで新聞各紙が社説なんかで新聞の役割とか意義とか価値とかを散々っぱら自慢語りしているのが何とゆーか鼻につく。何しろ今回のテーマが「激動のネット社会に確かな活字」。情報の速さと量でもって既存のさまざまなメディアを席巻しつつあるインターネットに対して娯楽の度合いはもとよりスピードだって量だって大きく劣る新聞が、最後のよりどころにしている「信頼性」を前面に押し立てつつ、「電子万態を使った新しいメディアの社会への浸透が新聞に与える影響は、かつてテレビやラジオが普及したときより格段に大きい。若者活字離れのあながち杞憂とはいえない」「活字文化の衰退すれば、それは社会の知的劣化につながるという懸念を抱かざるを得ない」(いずれも産経新聞)ってな感じで、ネットより自分たちは高級でありかつ文化的にも高い意義を持ってるんだってことを訴えてる。

 とはいえだったら新聞の「信頼性」ってのは本当に「信頼」に値するものなのか? とゆー疑念を晴らさなくてはいけないところなんだけど、常々言われているよーな忙しさの中にルーティン化している仕事の流れ、政府公報政党広報企業広報化している紙面といった批判を完全に払拭できるほどの自立性が新聞にあると断言することは難しい。「提供している情報は、信義の確認はもとより、取捨選択し、統合・分析を加えたものだからだ」「当然、官庁や企業が宣伝しようとしている情報とはずれがある。官庁や企業、団体などが隠したがっている事実も報道する。だがこのずれこそ使命だと思っている」(毎日新聞)とゆー言葉、本当に胸を張って言える現場の人たちがどのくらいの率いるんだろーか。毎日の社説に言葉もどちらかと言えば自信の発露とゆーよりは、自覚の喚起を狙いとした身内に向けた言葉と見た方が現状に相応しいよーな気がする。

 活字云々とゆーのはまさしくナンセンスで、インターネットのホームページのどこを開いても「活字」は存在している訳で、ネットの進展を「活字文化の衰退」を結びつけるその言説からして「信頼性」を疑いたくなってしまう。日本語だって僕が言うのはお門違いも甚だしいけれど、真っ当な人の真っ当な文書は新聞の端折られて島国用語に彩られた新聞の記事よりもよほど日本語的に正しいし読んで為になる。ネットとゆーものが秘めたポテンシャルの高さを驚異を感じて、一事が万事とばかりにあらを探してはネットバッシングに走るのは、この何年かの新聞の常套手段だった訳で別に珍しくはないけれど、新聞の高踏さを訴えたい言説で相手を叩いて自らを高く見せようとする手法のどこに「信頼性」なり「確かさ」を感じれば言いんだろう。古い古い古すぎる。

 その点、さすがとゆーか分かってるとゆーか朝日新聞の時代を見る目はしっかりしてる。携帯電話の「iモード」で朝日と日刊スポーツを読む人のエピソードを枕に「アサヒ・コム」へのアクセス数が増加している現状、BSデジタル放送を使って新聞がテレビに流れるよーになる予定なんかを紹介しつつ、メディアの変化を否応なく感じたことを吐露した上で「変わらないものは、まだある。事実を掘り起こして伝えるというメディアの基本的な役割である。たとえその手段が紙だけでなく、テレビやコンピューターに広がっても、事実を集めてくるのは現場に立った記者一人ひとりの確かな目であり、耳である。この原点だけは変わらない」と断じる。

 そこには活字の優位性を誇る自惚れもネットに対する激しい憎悪もない。純粋に現状を見つめて起こっていることを自覚してどうすれば良いのかを考えている。「新聞」が単なる紙に活字をプリンとして配布するろちゅー”形”を示すものではなく、「正しい情報をあまねく伝える」とゆー”スピリッツ”なんだとゆーことを自覚している点で、悔しいけれど朝日新聞にはどこの新聞社もかなわないだろー。その差がこれからの10年でどこまで広がるのか。これまで散々っぱら築地のワルクチ書いて来たけれど、刃向かうんじゃなかったなーと反省してます。もっとも明日の「AERA」に「オタクの危機を憂う」なんてタイトルでおそらくは「ワンダーフェスティバル」のリセット宣言に関連する記事が載っているみたいだけど、その中身次第ではやっぱり築地の高慢さ分かってなさに文句つける可能性もあるんだけど。とりあえず、注目。

 NHKの「世紀を越えて」はロボット特集。ホンダの新しい奴は横にステップを踏む動きが出来ちゃってて吃驚。最初は薄い板1枚、覆ったケーブル1本すら越えられなかったものが、こーまで進化するとは人間の思考能力ってやぱり凄いもんだと感心する。アメリカで18年だかかかって人間の常識をプログラミングし続けているとゆープロジェクトの、今もって人間とまともな会話ができない現実には、人間のやっぱり思考の凄さを思い知らされると同時に、こーゆー無駄な研究でも続けてしまうアメリカの懐に深さにちょっと羨望。おそらくはあと100年かかっても成就しなさそーな気がするけれど、ロボットを研究すればするほど一方で人間自体の研究も進むわけだから、あながち無駄とは言えないのかも。

 しかしドア1つくぐり抜ける動作、もの1つ拾う動作に四苦八苦している状況を見るにつけ、「まるいち的風景」(柳原望、白泉社、390円)の「まるいち」なんてやっぱり夢でしかないんだろーかと嘆息することしきり。いくら動きは人間をトレースするかといって、物を拾うたびにひっくり返ったり冷蔵庫を開けるたびに何分もかかってちゃ、実用にはちょっと耐えられないからなー。もっとも「まるいち」は引っ込み思案でコミュニケーションにちょっと問題がある人の本当の気持ちをロボットを媒介にして描く物語だと思ってるから、実用性云々は問題じゃない。最新刊の4巻でも、目の見えないピアニストと純情一途な青年とを結びつける役割とか、反抗期の少年と母親との関係を確認する役割とかを果たしているし。それにしても冒頭の美人ピアニスト、部屋を汚くしても平気なだらしない人をメデューサ頭になって「だだくさ」だなんて言って、もしてかして名古屋出身なんでしょーか。言うんです名古屋じゃ「だだくさ」って。こーゆー美人に叱られるんなら僕の「だだくさ」も直るかも。誰か言って。


【10月14日】 新作映画「透明人間あらわる」を見に行く。嘘を言っては困ると言われる。「あらわれないのが透明人間です」。ごもっとも。正しくは「インビジブル」を市川妙典のワーナーマイカルへと見に行く。起死回生を狙って自分自身を透明にしてしまった科学者が暴走してしまうってのが大まかなストーリーで、透明になったからモラルも消えてしまったとゆーよりは、どんな理性でも吹き飛ばしてしまう恋の病が折良く透明だった科学者をして皆殺しへの道を歩ましてしまったと見た方が、分かりやすいし十分に説明できるよーな気がする。

 姿と理性とかってな哲学的な部分へと踏み込んで議論を深めるには、映画自体のストーリーが真っ直ぐ過ぎるしキャラクターの造形だって単純過ぎる。それが娯楽のみを追究するハリウッド映画なだと言われればまさしくそーなんだけど。もっとも映画の見所はそんな哲学的な部分じゃないのは自明の理。やっぱり透明人間になっていくプロセスとか透明人間になってしまったあとの描き方が最新のCG技術で実にリアルっぽくなっていることで、人形に沈み込んでいるベッドの形とか、役者の顔にゴムマスクを被らせたとしか思えないシーンでのポッカリと穴があいた目の中の空洞表現とかは、流石にハリウッドだと唸らせられる。

 ゴムマスクが全部CGなのか役者にマスクを被せて撮って目とか口の部分にだけ空洞に見えるよーなCG映像を合成しているのかは分からないけれど、もしも透明人間がゴムマスクを被ったらってなビジョンをちゃんと見せてくれているのには参りました。透明人間に期待した人知れず女性にイイことをするシーンの案外と少なかったのにはガッカリ、でもそれやっちゃうと願望が満たされ過ぎちゃって精神衛生によくないから娯楽映画としてはあの程度が限界なんだろー。ここは「エロム街の悪夢」とか「パイタニック」なんてパロディを作った米ポルノ映画界に期待だ。「淫靡ジブル」とかってなタイトルになるのかな。

 1人の超天才に幾人かの秀才たちがチームを組んではじめて成立するのが最近の科学とか医学とかの研究だとして果たして成果は誰のものになるのかって考えた時に、天才に帰結するのかチームに与えられるか指導教官までも含んだ研究室全体に及ぶのか、理系の研究に疎い身にはちょっと想像がつかないけれど、「インビジブル」に見る天才の成果を秀才たちが分け合おーとしてプライドがぶつかり合う構図ってのは、やっぱり世界共通なんだろーかってことを角川春樹事務所から出たこれがデビュー作らしー武森斎市さんって人の「ラクトバチルス・メデューサ」(740円)を読みながら考える。

 田舎の牛乳会社が作ったカルシウムの吸収を画期的に良くしよーとした乳酸飲料に原因があると見られる奇妙な石化病が岐阜県の奥飛騨山間部で発生。おおよその原因が分かったところで対策のために生み出された画期的な研究が日本の行政だとか研究機関どーしの鞘当てのとばっちりを受け手日の目を見ない愚劣さに、いよいよキレて天才が暴走し始める展開には「インビジブル」にもちょと通じるところがあるかも、あと天才君なのか同期の秀才君なのか秀才君が慕う女性なのか村の医療機関で働く研修医なのか誰が主役と言っていーのか分からないところも、科学者なのか科学者の元恋人なのかその彼女の今の恋人で科学者の同僚なのか、一体誰が主人公か分からずに終わってしまった「インビジブル」に良く似てる。

 そお天才君のどーしてキレたのかって理由が自分の研究が認められないことへの個人的な憤りなのか医者の端くれとして薬がなかなか認められない行政の愚によって患者がどんどんと死んでいく状況への義憤にかられたレジスタンスなのかもっと単純に金儲けがしたかったのか、内面描写がいくらだって可能な小説なんだから分かり易いかと思ったら案外と捕まえ所がなく、読む時の感情移入の器が見あたらずちょっと悩む。それでもトータルで見れば病原菌パニック物として真っ当に良く出来ていて、かつ大学組織のピラミッド的構造やら日本の医薬品認可に絡んだ融通の効かなさとか過疎医療が抱える問題に介護保険制度にあいた大穴等々、社会派的な告発もあって読んで楽しめるに勉強にもなる。

 あの「大森望氏絶賛」の活字にあるは強力になった乳酸菌が日本人の胃袋を強健にしてしまって食糧が足りなくなって共食いを死合う小説とか、巨大化した乳酸菌が牛の都北海道で生まれて徐々に南下して日本中を多い尽くそうとしたけれど、南からこれまた巨大化した病原性大腸菌「O−157」がやって来て日本の背骨にあたる奥飛騨で対決する世界でも希にみる細菌バトル小説とかを想像した人はちょっと期待を裏切られるかも。大森さんが言うほど「バカSF」とは思えないんだけど、乳酸菌とか遺伝子組み替えとかファージとかに得意なカガクノヒトが見たらやっぱり「バカSF」なのかなあ、だとしたら「SF」って僕には難しすぎるなあ。

 なんてことを待望の復刊なった酒見賢一さんの「聖母の部隊」(酒見賢一、角川春樹事務所、620円)に寄せられた酒見さん渾身の「あとがき」を読みながら思う。「何故ならSFはいたるところに氾濫しているからである。日本人はSFびたりといってもいいくらいだ」「マンガもコンピュータゲームもSFないしはファンタジーの設定を使わねば成り立たないほどであり、存在自体がジャンルを越えてごく普通のこととなっている」とゆー酒見さんの言葉は「すべてがSFになった」今を現す言葉。でもって「SFを嫌っているのは一部の小説界だけだと言ってもいいくらい」になってしまうのは、カガクノチカラの部分にのみスポットを当て過ぎて肝心の物語の部分が響いてこなかったりする小説だけが「SF」なんだとゆー雰囲気が充満して、書き手も読み手も遠慮してしまっているからなんだとゆーことが示唆される。

 カガクノヒトには「SFのSをサイエンスとすると、引っかかる原因であるなら、それは心配いらない。略称だと考えるからいえかにのかもしれない」とゆー言葉はカチンと来るかもしれないけれど、解説を喜んで書いたとゆー恩田陸さんも含めてジャンル不定ながらも昔「SF」と銘打たれた小説で読んだ「せんすおぶわんだあ」な雰囲気を感じさせてくれる小説が世の中に満ちている今、「小説という形式、構造自体がSFっぽいものだ」とゆー力強い言葉を発し、「SFは何でもありで」と言ってくれる酒見さんは物語に夢を見たい人間として共感できる。しかし「YU−NOこの世の果てて恋を唄う少女」がどれだけSFで自分はどのくらいハマったかを書き連ねながら「SF論」を展開してしまう芸当はちょっと真似できない。やはりタダモノではなかった酒見賢一に脱帽。こんなに凄い奴だと分かっていたら学校で友達になっておくんだったよ学部同じで語学では同級生だった時に。


【10月13日】 「ブラジャー人に花束を」とか「たったひとつの冴えた張形」とかってなサブタイトルにこれは近年希に見るゴチゴチのSFマンガに違いないと思って西川魯介さんの「SF/フェチ・スナッチャー」(白泉社、581円)を読む。タイトルからして「ボディ・スナッチャー」つまりは「盗まれた街」をもじったものでこれは期待できるぞーとページをめくり、極めて欲望に応えているマンガだったことを知って歓喜にうち奮え、ついでに盛んに手を前後にうち震わせる。当初の「SF」への期待と得られた欲望とはちょっと向かってるベクトルは違っていたけれど、欲望を存分に満たしてくれる上で「SF」の醍醐味もちゃんと感じさせれくれるから安心、もちろん「フェチ・スナッチャー」としての「SF」じゃなくって「さいせんすふぃくしょん」の方もちゃんと。

 眼鏡っ娘が、唾液に弱い宇宙人を探すべく下駄箱の上履きに更衣室の下着にスクール水着の内張りまでをも舌先でたんねんに舐め取る姿の可憐さよ。でもって本当のことを言えずに周囲から白い目で見られても平和のために任務を遂行してスクール水着にブラジャーにアンダーヘアまで舐め続けるふるまいの健気さよ。誰も知らない知られちゃいけない秘密を抱えいわれ無き誹謗中傷に耐え迫害を堪え忍んで生き続ける人々を描いた、そうなのだこれは最近復刊された「ゼナ・ヘンダースン」の「ピープルシリーズ」やら恩田陸さんの「光の帝国」にも通じる人間vs超能力者の激しく悲しい物語なのだ、でもって宇宙人との邂逅を別れを描く「E.T.」的コンタクト物なのだ、違うって。いくら文化の持つ権威で心を正当化しよーとしても中身はおおむねエロなんでご家庭がおありの方男子的欲望とは相容れない方は取りあげる前に心の準備を。健全な男子で「SF」な人は文句もごたくも不必要。読むこと。にしても西川さん、デビュー作でかがみあきら的永野のりこ的な雰囲気もある「すべて機械じかけ」から、魂はともかくフィールドは随分と違う場所へと来てしまったものだことよ。

 20日のサイン会整理券といっしょに東浩紀さんの「不過視なものの世界」(朝日新聞社、1800円)を三省堂書店神田本店で買う。ハードカバーでアカデミックな対談集になるのかなー、とか考えて本屋を探していたら平積みになっていたのは例の「ぐるぐると回るもの」が表紙にドカンと描かれた、紫とゆーか濃いピンクがバックのド派手な表紙のソフトカバーで帯に「2000年代の哲学はこうなる(のか?)」なんて書かれてあって、アカデミズムをパロった本としてサブカルチャー関係の本が集まった棚なんかに置かれそーな印象がある。とは言えそこは流石に書店もわきまえているのか三省堂書店神田本店では人文系の本がある4階の哲学書のコーナーに平積みしてある。ついでに言えばエスカレーターを上がった真正面にワゴンでドカンと平積みするかなりな力の入れ様で、こうまで見せつけられれば買わなきゃいけないと思わせたり、表紙の「ぐるぐると回るもの」にキャラ萌えさせたりする効果が店内のそこかしこで発揮されている。実物をポップにしてしまう、これがリアルな書店の持つ1つのアドバンテージなんだなあ。

 表紙をめくった場所に「極太明朝」でタテヨコに記号然とキーワードを書き連ねる趣味の悪さは、もちろん当然自覚してのもの、だよね。「エヴァ」のファッショナブルでスタイリッシュな部分だけをかじりとる自称リスペクト的な感覚のさまざまなものが登場して来た90年代後半を、2000年にもなって自らならって見せるなんてよほどの覚悟がなきゃ出来ない。ケバケバしい表紙もキャラクターを使う意味も、前出の「2000年代の哲学はこうなる(のか?)」ってな言葉も裏側の帯の「現代文化はこれで切れる!」なんて大袈裟な言葉も含めて怪しげな時代を総体として表現した実に怪しげな本、とゆーことになるんだろーかどーなんだろーか。そのあたりは翌週23日の講演会でじっくりとしてくれることだろー、たぶん。けどサイン会ってどんな人たちが来るんだろー、婦女子かキッズかご老体か。その辺りも含めて20日は密かにカンサツしよー。

 「OKAGE」の毀誉褒貶に「エマノン」の復活もあってSFシーンでも活躍ぶりが再び目立って来ている梶尾真治さんの新刊がハードカバーでそれも新潮社からの登場でちょっと吃驚。梶尾さんの地元とは言え熊本日日新聞にSF作家の小説が連載されていたってことにも驚きだけど、読んでみればなるほど確かに「黄泉がえり」(1700円)は普通の人が一歩身を引くSFてよりは人間の願望のささやきかけつつ人間の優しさにスポットをあてつつ地元の人たちの地元意識を慰撫しつつ進む巧みなストーリー展開で、これなら熊本日日に掲載されていても不思議はないし、「泣けるエンターテインメント」として新潮社から出てもそれほどおかしくはない。死んだ人が突然帰ってくる「黄泉がえり」のおおよその理由が早い段階で分かるよーになっているのが最後にドンデンを期待する人には気になるかもしれないけれど、分かった上で最後に1つ、人間の「想い」の強さ清さ健気さを描き出して締める巧さになるほどやっぱり「泣け」ました。しかしマーチ生まれだからって美少女天才歌手の名前が「マーチン」ってのはなあ、名古屋の人にとってマーチンっていえば「4番マーチンホームラン」の人だもんなあ。


【10月12日】 さすがは良識の雑誌って言うんでしょーか、趣味人の大人たちにアツい支持を受け続ける雑誌と言うんでしょーか「WEB本の雑誌」、リンクページからたどって見られるページに書いてあるリンクする時の条件の、あまりな厳粛にして荘厳にして堅牢さに読んでいて久々に身を震わせる。アダルトコンテンツ含んでちゃダメってことは「夕刊フジ」でその昔連載してたアダルトCD−ROMのレビューなんか置いちゃってるあたしん家からじゃリンクしちゃいけないってことだよね。オタク話にロリコン話したりしてるから公序良俗にも反しちゃってるし勤務先のワルクチだって平気で書くからもしかしたら法律にだって違反しちゃってるかもしれない。「『本の雑誌』の今月号、ツマんなかったよねー」と書いたら誹謗だ中傷だって言われるのかな。でもってそんなページからこっそりリンクしてバレた日には、「リンク修正・削除の申し入れ」が来ておまけにそれには「必ず従」わなきゃいけないってんだから、花盛りのホームページ界にひっそりと咲く日陰のドクダミにはちょっと手がでませんリンクなんてもっての他です今後いっさいいたしません。あの高踏で鳴る朝日新聞社だって最近は「ご遠慮下さい」「お断りすることがあります」と腰砕けな中で、ここまで頑固に己が高邁な精神を貫き通そうとする「WEB本の雑誌」の実直さ素晴らしさに、心底から惜しみない拍手を贈ろうではないか裏声で。

 新型「AIBO」の発表会に行く。すでに報道されているよーに新型の「AIBO」はネコ科の動物がモチーフになっていて、舞台奥の壁からせり出して来た引き出しの中からすっくと立ち上がったその姿は、巨大な球状の頭に寸胴のボディを持った青と白のネコ型ロボット。お腹には半月型のポケットが付いていて、中からいろんなものが取り出せるよーになっている。耳はなし。喋るとドラ声で名前はドラえ……違うでしょ。なんてベタなボケをかますのは1回だけにして、説明すれば新型「AIBO」、原子の力で動くエンジンを中に持ち、パワーは10万馬力(後に100万馬力)(後ってなんだ?)で歩くとピョコピョコ音がする。本名は天馬トビオと言うらしい。んな馬鹿な。はい莫迦でした。

 下らぬボケも3度まで、って訳にはいきそーもないから真面目に説明しよう新型「AIBO」こと正式名称「ERS−210」は、犬をモチーフにしていた前作から一転して「子ライオン」がモチーフ。そのため第1世代では顔の横に垂れ下がっていただけの耳が第2世代では三角形のピンと立った小さいながらも「猫ミミ」が付いていて、おまけにちゃんとピクピク動くよーになっている。とは言え「ネコ科」という程にはボディラインがゴロニャンしてなくって、「子ライオン」と言うほどにもコロコロしてなくって雰囲気的にはスレンダーな山猫のよう。あんまり大きくない耳と、ネコだったら平面なはずなのに前後に長い形になっている顔も、新型「AIBO」がネコっぽく可愛く見えない原因かもしれない。

 とは言えそこはソニー。立てば芍薬座れば牡丹の言葉にも倣ったかのごとく、動き始めれば仕草にしても表情にしても第一世代の「AIBO」に迫り超えるくらいの豊富なバリエーションを見せてくれて、生命のこもっていないドンガラに過ぎないロボットであるにも関わらず、何故かそこに生命の雰囲気を感じてしまう。アクションって重要。前は頭だけだったタッチセンサーが顎とか背中にも付いているから、なでた時の反応は複雑になっているだろーし、 人間の言葉を聞き分けて反応する機能も搭載しているから、成長していった果ての姿も「AIBO」によって相当な違いが出て来そー。あのヒョロヒョロ声で「ドラえ○ーんっ!」と言った時だけやって来るよーな仕込みも出来るのかな。言ったらお尻に新装備のPCカードスロットからLANカードを吐き出すくらいの芸は見せてくれるのかな。

 それにしても15万円とは太っ腹。基本ソフトの9000円が絶対必要だし、開発したソニーの大槻正さんによれば「ステーション芸」と呼ばれている充電器の上での動きを楽しむためには、別売りのエナジーステーションを買う必要があるけれど、本体だけで充電は可能らしーから最低だと15万9000円で基本セットが揃うことになる。第一世代が必要十分な装置を含めて25万円だったから10万円安いお値段で”「AIBO」がいる暮らし”を楽しめることになる訳で、11月16日から受注開始ってなタイミングも見ると、冬のボーナスをこいつでかっぱごうってなソニーの思惑なんかも見えて来る。いやホント、一気に冬商戦の目玉に躍り出た感じがあるよなー、ついつい買っちゃいそーだよなー。

 余裕があるなら1万円だけど「AIBOファンパック」は購入しておきたいところ。実は今度の「AIBO」は鼻先にカラーのCMOSカメラが付いていて、「AIBOファンパック」と組み合わせることで「AIBO」の目線で写真撮影ができるのだ。ってことは低い視線から上を見上げさせて女性のスカートの中をタシロマサシたり、「可愛いねー」と言って「AIBO」の頭をなでるためにしゃがんだスカート姿の女性を正面からタシロマサシることだって可能なのか。それがねえ、できないんだよねえ、残念だねえ、腹立たしいねえ。

 「AIBOファンパック」と組み合わせても、撮影には言葉によるコマンド「写真撮って」が必要。女性の足下に潜り込ませた「AIBO」に目的バレバレな「写真撮って」の言葉を果たしてあなたは言えるだろうか。言えないよなあ通常では。例えば音声センサーの横に小型スピーカーを取り付けて、口元のマイクから小声で指令するとかいった抜け道は可能なんだろうか、とかコマンドを「AIBOお座り」とかいったごまかしの効く言葉に変えられるんだろうか、とか考えているけどその当たり改造マニアの人はどう見てるんだろう。出荷が始まるのは12月の中旬あたりだから、女性の装備も厳重になって実験する機会も少なそーだけど、季節のよくなる春先に向けて是非ともマニア向け改造雑誌で実験&リポートをお願いします、結果によっては僕すぐに買っちゃいます。

 お茶の水の仕事向けに「ガンダムの現場から 富野由悠紀発言集」(氷川竜介・藤津亮太編、キネマ旬報社、1800円)を買って読む、装丁があんまりスタイリッシュじゃないよなあ、タイトルあんまり目立ってないし。でもまあ富野監督の机がモノクロで上にカラーで「ガンダム」のスチールを配した関係上、あんまり目立つ色にタイトルを出来なかったのかもしれない。白一色の上に富野監督の顔を線画で描くってのもあったかな、エンボスで目立たないようにタイトルだけを浮き上がらせるとかって手とかも。値段の1800円は一見高そーだけど、詰まってる発言の貴重度重要度、添えられた脚註の深さ広さから考えると妥当な水準だと思う。

 1980年の安彦良和さんとの対談で富野監督が発している「支える現場が自分たちの携わっている映像媒体を、まだまだ本気で考えているようには見えない」という言葉が、今も案外と警鐘として通用してしまうところにクリエイティブな部分以外でのアニメ作りの構造的な問題の根深さが感じられる。安彦さんの「アニメブームは現象だけで、浮かれていちゃいけない、なんて言ってますが、もうちょっと大きなスケールで、自信を持って世の中変わってるんだなって意識を持って欲しい」との言葉も同様。浮かれ騒いだ挙げ句に反動の沈滞を繰り返し続けて20年経ってしまって今がある。そういった部分で両人のアニメとゆーか作品に対する志の高さが改めて分かる。信念に溢れた言葉の詰まった逸品。今でも、とゆーか今だからこそ大きな意義を持ってるかも。


【10月11日】 知らないうちに千葉テレビで始まっていた「マイアミ・ガンズ」を見て仰天、峠を走る「AE86」の妙にペカペカな3DCGモデリングに、例のアニメを思い出していた次の瞬間、事故った車のドラバーに豆腐がぶつけられるシーンが現れたのを見て、その挑戦的な精神に深く尊敬の念を捧げる。見たのが実はこれが始めてなんで、他の回でカーチェイスなんかが3DCGで描かれているのかどーかは知らないけれど、そうじゃなくってわざわざパロディのためだけに「AE86」とか「アルファロメオ」のモデルを作ったとしたら、その職人的な拘りに今度は心からの賛辞を贈る。もしかして本家な「D」からデータだけ引っ張って来てたとか。とりあえず来週以降、車がどんな風に描かれているかを確かめてみよー。それにしても良く描けてたねアルファロメオは。

 使われている銃がモーゼルってところもなかなか。前に組み立ててキットで作ったモーゼルは踏んで銃身が折れてしまって廃棄処分にしてしまったけど、改めてそのスタイルの良さに惚れてしまった。モデルガンとか買ってしまいそー。肝心の話の方はまあ、2人のハミ出し婦警が失敗しつつも活躍するとゆーお約束の上に、真剣なギャグなのかニッチを狙ったパロディなのか判然としない笑いがまぶしてあって、単純に笑えもできずかといって褒めも貶しもできない不思議な雰囲気が漂っている。空気としては「トラブル・チョコレート」に近いかも。超お約束にパンツも結構出てくるけれど、「Aika」なんかと違って全然色っぽく見えないのはどこか80年代風少年マンガ的な絵のせいか。10年の間に「パンチラ」も相当な進化を遂げている訳で、そこいらあたりを図像的に分析・解読してくれる学者さんがいたら喜んで著書を交わせて頂きます。

 刑事だったこともあったけど防犯課とか保安課といった部署で事件とはおよそ縁遠かった関係もあって、それほど「刑事が生き甲斐」的な雰囲気のなかった父親は退職後もそれなりに意気消沈することもなく日常生活を送っているみたいだけど、中には「警察官こそ我が人生」とばかりに職務に人生のすべてを捧げる人もいるらしく、そんな人がいざ警官を退職した時に抱く虚無感とゆーか脱力感の大きさが、日本推理作家協会賞を受賞した横山秀夫さんの短編「動機」(『動機』所収、文芸春秋、1571円)の中で実にリアルに描かれている。

 盗難防止を唄いつつ、実は父の弔い合戦的な発想もあって警察手帳の夜間集中管理を打ち出した主人公だが、「仕事が大事」とゆー刑事たちの激しい反対もあって、微妙な立場にあった。その最中、集中管理が仇となって30冊もの手帳が一気に盗まれる事件が発生。主人公は当然ながら刑事たちの嫌がらせを想像するが、捜査を進めるうちに、もっと違った複雑な感情が背後に渦巻いていことを知った。何時でもどこでも言い続けることがある種の優越感につながる可能性を、権力に支えられた警察官の仕事は他の仕事より一頭抜けて持っている訳で、そうした職務に対する警察官たちの複雑な感情が、事件の本質を見え難くもし、また事件の本質を如実に現していたりもする。「警察官とは何か」を「仕事とは」に読み代えても為になる。

 元地方紙の記者らしー著者だけに、地方紙の記者の悲哀を描いた「ネタ元」の妙なリアルさもなかなか。女性ゆえに謂れのない中傷を受けるエピソードとか、貧乏な地方紙故に大手が本気を出して来た時に必死ですがりつこうとして紙面的にも人員的にも無理を重ね、挙げ句に反感を買って紙も人材も減らしてしまう展開とか、新聞と言えば一般紙の全国紙しか知らない普通の人々には、なかなか気分の部分までは伝わらないかもしれない。大手の引き抜きに喜びつつも「どうして自分なんだろう」と妙に自制し卑下してしまう貧乏性も地方紙マイナー紙の社員に独特のメンタリティー。そんな気分を味わいつつも、小説の道へと活路を開いて対には松本清張賞から日本推理作家協会賞と着実にメインストリートへと近づきつつある作者の己克心、向上心たるや立派と言うよりほかにない。真似たいけれども地方紙以上にマイナーだったりするから卑下の度合いに劣等感も半端じゃく、更正にはちょっと時間がかかりそう。いいんだどうせ自分なんか(ってな具合に劣等感が分厚くこびりついてるんです困ったものです)。


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