中平卓馬展
展覧会名:中平卓馬展 原点復帰―横浜
会場:横浜美術館
日時:2003年10月24日
入場料:1000円



 「パシフィコ横浜」で開催されていた「A&Vフェスタ」の帰りに寄った「横浜美術館」で開催されてた中平卓馬の本格的な回顧展「原点復帰−横浜」の最初の部屋で驚く。最近の横浜のあちらこちらに出没しては、公園で寝ているホームレスの顔とかその辺に出てくる猫とか、茂みで羽根をつくろう鳥とか畑で作業している人とか出会った女性とかを、ひねらずただあるがままにピントもはっきりときかせてくっきり撮った写真群。カラーだから色も鮮やかに表現された写真がずらりと並んでいて、そのモチーフの選び方その構図の切り取り方の平凡さに、これがラディカルで鳴らした中平卓馬の作品なのかと立ちすくむ。

 続く「新たなる凝視」というテーマの写真群は、1975年以降というから40歳前後の人間にとって子供から大人になる間に見た車とか、バイクとか風俗とかいったものがそのまま切り取られた、それも鋭い構図とモチーフ選びによって切り取られている写真ばかり。77年に急性アルコール中毒で倒れて記憶を失って以降もそれなりに、変わらないスタンスで写真を撮っていたことが伺え、それがどうしてこうも平凡になってしまったんだろう? と不思議に思う。

 時間を遡る感じの配置になっている展覧会は部屋を進むごとに作品の先鋭性が増し、フランスのパリで行われたビエンナーレに出た時に出展した、パリの街を撮ってはブースに張りだしていく手法で見せた作品群の、街頭から広告からパリの街をスパスパと鋭利なナイフで切り刻んでは並べてみせる手法の冴えっぷりに驚かされ、荒れたトーンで被写体の部分をトリミングしてみせるポートレートの強さに惹かれ、なおのこと今との違いに思いが及ぶ。

 そして大トリの「来るべき言葉のために」に収録された写真や、捨ててしまったと思われていた当時のネガのうちで残っていたものからプリントされた写真は、影の中に光が浮かぶ荒れたトーンで工場を、川を、都会を、歓楽街を写し取っては印画紙の上にほの暗く浮かび上がらせてあって、そのモチーフの選び方といい、その構図の取り方といい、今見てもとてつもないほどに格好良い。そこから頭を逆に回して最初の部屋へと向かわせた時、これほどの才能がどういった経緯をたどって今の境地へと至ったのかを知りたくなる。

 そのあたり、会場でも売っているし書店にも並んでいる展覧会の図録で、中平と同志的な間柄としていっしょに写真誌などを出していた森山大道が、最新の作品と「来るべき言葉のために」の作品を並べて論じている文章ががあって、読むと「来るべき」も「横浜」もともに写真の極北であると論じてあって、写真の素人が見て抱いた近作への平凡な印象とは違うものを、プロフェッショナルの写真家である森山大道は見ているんだということに気づかされる。

 それが何かは写真家である森山大道、あるいは中平の古い友人でずっとその活動を見てきた森山大道ならではのものだけに、俗人には預かりしらないものだったりするけれど、それでも想像できるのは、「来るべき言葉のために」の写真では、選んだモチーフも含めて中平がそこにこめた意図よりも前に、アレブレボケという手法こそが凄いんだ、新しいんだと解釈されてしまって愕然とした中平が、沈思黙考した揚げ句に変わっていったことを踏まえ、写真は写った結果としてのプリントをただながめるだけじゃなく、どういう意識でそれが撮られたのかまで含めて理解する必要があるんだ、ということだったりする。

 写真は1つの作品であって見る側がそこまで親切にしてやる必要があるのか? 何であれ結果がすべてじゃないのか? というのもなるほど作品と対峙する上でのひとつの姿勢ではあるけれど、創る人間あっての作品である以上は作った人間にも目を向ける必要はやっぱり否定し切れない。結果としての平凡さはそれとして、そこに意図されている中平卓馬の思想なり、思考を探る努力をしなければ、近作についての理解は出来ないのかもしれない。


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