森万里子 ピュアランド
展覧会名:森万里子 ピュアランド
会場:東京都現代美術館
日時:2002年1月19日
入場料:1000円



 改装が終わった「東京国立近代美術館」に行った際に「東京都現代美術館」で森万里子の個展「森万里子 ピュアランド」が始まったってことを知って木場へと回る。チケットを買おうとしたら、パソコンでバーコード入りだかのチケットをプリントアウトする「現美」に独特の発券システムがダウンしてしまったらしく、3分待っても5分待ってもチケットが出てこない。おそらくはホストがダウンしてるんで受付にある端末レベルでこちょこちょやったって無駄だろう、なんてことを言ってやったのに現場で取り繕おうとして「もうしばらくお待ち下さい」「あと2、3分で直ります」なんてことを言い出したんで、ここは大人に待っていたけどやっぱり直らず、ちょっと切れかかる。

 結局はどっかから前売りチケットだか招待券だかを持ってきて、それを現場で売るように変えたんだけど、そこに至るまでに15分近くを費やした辺りに、自分たちにとって都合のよいパソコンでのバーコード入りチケットの発券をまず第一に考えて、チケット売場の前で並んで待っている人が何を求めているのかを考えられない、マニュアル化され硬直化して融通のまったく聞かなくなってしまったシステムの問題点が見える。石原都知事が着任してスピーディーな行政がどうとかサービス精神が大事とかソフト面の充実が大切とか言ったところで、所詮は親方日の丸な行政の出先機関、こーゆー部分でボロが出る。芸術の都への道、遙かに遠し。

 とはいえ、チケット売場で待っていたのも決して悪い事じゃなかったようで、並んでいるうちに、あの浅田彰がやって来てはインビテーションで会場に入っていく姿を発見。ようやく買えたチケットを手に後を追い、3つ目くらいの部屋で追いついてよく見ると、やっぱり浅田彰だった。後は美術館での散策にによく起こる、見る速度に前後して抜いたり抜かれたりしながら、だいたいの展示を眺めていく現象に沿って場内を見物。とりわけ3D眼鏡をかけて立体映像を見る作品では、同じ暗室に浅田氏と連れの編集者か誰かと3人でひとつ空間に入るという、なかなに贅沢な体験をすることができた。

 作品自体は、森万里子が天女になってCGの脇侍だか如来たちだかを周囲に従え、歌を唄うキッチュにゴージャスな作品で、そのベタな感じに苦笑していたら、やっぱり浅田氏一行もおかしがっていて、そうかなるほど別に現代アートだからと言って、笑える物なら笑っても良いんだと得心する。花びらが散る場面は手前にちゃんと花びらが流れて来る感じが味わえて、3D映像を使った作品ならではの良さを感じる。あと3D映像だけあって、森さんのふくよかなバストがちゃんとふくよかに見えたことにも感心。技術の有難みを強く感じる。

 今でこそ1000年以上もの時を経て渋くシックになてしまった飛鳥天平白鳳な美術品だけど、当時は金色銀色朱色等々がふんだんい使われ、相当にゴージャスだったってことは想像に難くなく、そんな当時の雰囲気を取り入れ今風な素材なりで見せた森万里子の作品は、目にまぶしいくらいの色使いに加えて森万里子自身のキッチュでゴージャスな雰囲気が加わって、俗っぽいけれど神々しく、煌びやかなんだけどシンプルでもあるという、複雑で不思議な感じを体験させてくれた。

 1回1人ということで、予約がいっぱい入っていて見られなかった「ドリームテンプル」という作品の外側に使われていた、アクリルみたいな透明の板を始め現代の素材がふんだんに使われた夢殿は、なるほどシンプルで清浄で綺麗な外観をしていながらも、どこか空虚で紛い物っぽい雰囲気があって、これには苦笑がこぼれる。天上から光を採光して光ファイバーで中へと引っ張り蓮華みたいなドームの中を照らす作品も、モチーフの聖性と技術の無駄遣いっぽい俗さが入り交じった感じがやっぱりおかしい。

 石庭よろしく白い岩塩を敷き詰め、アクリル製だかの飛び石を渡した大がかりな作品も、日本的なモチーフの今風な解釈だと喜びつつ、しょせんはフェイクに過ぎない現実に「やれやれ」といった感情も浮かんで、どっちつかずの曖昧な気持ちにさせられる。所詮はフェイクなのに昔風に似せよう似せようと背伸びする、戦火で焼けて再建された天守閣とか放火で燃えて再建された金閣寺よりは、よほど潔さにあふれてはいるんだけど。

 ただしそうした古代の現代化という捻りも、外国人が見ればキッチュでジャポニスムなアイティムとして映ることは想像に難くない。笑いと嘲りの芸術だと日本で思われているものが、外国だと聖性のみで語られ称賛されてしまう可能性もあるし、ある意味そうした称賛を受けている部分もあるようだけに、何とも悩ましい。まあ、日本人としてはそうした海外のストレートな評価も含めて森万里子のアートとしてとらえ楽しめば良いんだろう。とかってなヒネクレた見たかも含めてアートなんだとほくそ笑む、アート的セレブリティがいたりするのかもしれないけれど。

 森万里子自身が、宇宙風のファッションに身を包んで秋葉原のような場所に立つ初期の作品は、現代美術の文脈で見る人だったらそのキッチュでちょっぴりグロテスクな感じが楽しめたんだろうけれど、いわゆるオタクの文脈から見ると、はなはだに出来のよろしくないコスプレで、場所をわきまえずに出没して見せる態度にちょっと鼻白む。

 なりきり、という意味なら例えば森村泰昌が、通天閣の下で女優と言い張ってハーレーにまたがって見せた写真をはじめとしたシリーズに、男が女優に扮して映画のパロディをやってのけるという、2重3重の仕掛けがオタクの文脈とは無関係に楽しかったし、その前段、新ディ・シャーマンのなりきりシリーズから受ける、現実であってもどこかテレビの中の出来事のような落ち着かなさがあるから、森万里子に今さら宇宙人っぽくやられても、それほど心が躍らない。

 とはいえこの国では、そうした非日常的なアイティムなり意匠なりが平気で日常へと紛れ込んで来て、ゴチャゴチャになって来ているのも事実。そんな現代を象徴する事象を、現代の最先端アーティストとして突っ走る森万里子が自らつまびらかにしてみせたんだと、言えばなるほど正しくも真面目なアートなのかもしれない。


奇想展覧会へ戻る
リウイチのホームページへ戻る