まどろみ消去
MISSING UNDER THE MISTLETOE
 「封印再度」で、驚愕の結末を含んだ大ロマンスを登場人物たちに演じさせた森博嗣を、なおも「理系作家」として語ることができるとすれば、極めて理路整然と筋道を立て、伏線を張り、論理的に結末を明示して見せる、その小説作法故ではないだろうか。

 伏線が入り交じり幾重にも重なる長編では、論理的であっても読み難さが残る場合があって、「だから理系は」と敬遠される要因にもなっている。しかし初の短編集「まどろみ消去(Missing Under The Mistletoe)」(講談社、760円)では、それぞれの話が短いだけあって、「理系」ならではの論理性が前面に出て、読む者にシャープでシンプルでストレートな驚きを与えてくれる。

 「まどろみ消去」に収録された11編の短編は、表面的には情緒的な心の機微を描いた「文系的」な作品が多い。例えば冒頭の「虚空の黙祷者(Silent Prayer in Empty)」では、夫を失い1人頑張って来た妻に好きな人ができ、町を出て頑張ってみたものの思い届かず、結局もとの町へと戻って来る。そんな妻に思いを抱き、結婚してくださいと告白する夫とは友人だった町の寺の住職。儚げな女性と奥床しげな男性の、心温まるラブストーリーのように話は進む。

 しかしどうして。相手を思いやるような言葉の応酬の裏側に潜んでいたのは、相手の真意を探り揚げ足を取り、決定的な言質を得ようとするすさまじいばかりの心理戦。何気なく交わされる一言一句のそのすべてに、裏があり真意があって、それを1つ1つ検証しながら、最後の論理的な結末へと導かれる。

 あえて言うなら、夫を失った妻の真理がどうして有り体な憎悪ではなく、虚無へと昇華されたのかが解らない。こればっかりは男と女、ロジックではおよそ計り知れない部分があるのだろう。いや、それこそスーパーコンピューターが何千年もかかってようやく結論に到達できるだけの計算が、男と女の間では一瞬で行われているのかもしれない。

 「真夜中の悲鳴(Acoustic Emission)」の男と女の結末も、およそロジックとは縁遠いように思うが、これも同様に、高度な数式を解き明かした上での論理的な結末なのかもしれない。主人公の阿竹スピカは、大学院のドクターコースに残って、セラミックスを加圧した時に発生する弾性波について研究している。1年後輩の石坂トミオミは、別の研究室で常時微動の研究をしていて、研究の性格から2人とも、夜中まで大学に残っていることが多かった。

 襲われる女、それを助ける男性。最初は後輩でパシリくらいにした見ていなかった男性が、急に 特別な人のように思えて来たのは、損得を緻密に数えて表示するパラメーターに、微妙な変化が生じたからななのか。それともロジックとは無縁の情緒的な感情の発露だったのか。

 ともかくも導き出された結論は、妥当以外の何物でもなかった。その結論を、部分的な情報から推論させようとする森博嗣の筆致に、倒置とか平叙とかいった文学的な手法以上に、演繹か帰納かといった数学的な手法の存在を見てしまうあたり、どうも「理系」という言葉に引っ張られ過ぎている気がする。

 「まどろみ消去」には、我らが西之園萌絵とそして犀川蒼平も登場する短編が収められている。「誰もいなくなった(Thiryt Little Indhians)」の中の西之園萌絵は、学内ミステリィツアーのコンダクターとして登場し、参加した学生たちに目の前でちょっとした事件をおこして見せ、解答を迫る。その事件とは、四方の階段に見張りを置いた記念館の屋上で、30人のインディアンに焚き火の周りを踊らせて、その直後に消し去るというものだった。

 参加者が誰も解らなかったこの謎を、あっけなく解いたのが犀川助教授。「さて皆さん」などといった時代がかったシチュエーションなど一切抜きに、短編ならではのシャープでシンプルでストレートな謎解きを披露してくれる。

 犀川助教授は萌絵からの情報と、停学覚悟で火を燃やしたという根拠からトリックを見破り、それを自慢することもなく人々の前から立ち去ってしまう。誰も解けなかったトリックに自慢げだった萌絵の荒れることか荒れまいことか。このあたり、女心はロジックではないと言って言えるかもしれないが、それを解らない朴念仁の男心の、なんともはや「論理的」かつ「合理的」であることか。

 およそ世の「理系」の男が犀川のような思考パターンしか持たないのだとしたら、日本の未来は暗いといえる。もっとも情報さえ与えれば、確実な結論を導き出せるのも「理系」の利点であり、そこは女性陣(理系アタックな男性陣でも結構)、「そこはかとなく」「婉曲的に」「示唆する」ような回りくどいことはせず、「シャープに」「ストレートで」「シンプルな」アタックをかけるべきなのだろう。

 およそ「理系」とは言いがたい「心の法則(Constitutibe Law of Emotion)」のような観念的な作品や、「キシマ先生の静かな生活(The Silent World of Dr.Kishima)」のような私小説めいた作品もあって、これで森博嗣、なかなかにフトコロの広いところを垣間見せてくれる。だがいかな幻想的、あるいは情緒的なシチュエーションであっても、底流にはロジックの積み重ねによる論理的な思考が秘められているように思えて仕方がない。

 と、どうしても「理系」に縛られてしまう辺り、読者をその思考の範疇に取り入れて他の思考を許さなくしてしまう森博嗣一流のロジックが、計算高く働いているのかもしれない。ともかくも情緒的な「文系」は、過去も今もこれからも、その手の上でただ踊らされるだけである。

森博嗣著作感想リンク

「すべてがFになる」(講談社ノベルズ、880円)
「冷たい密室と博士たち」(講談社ノベルズ、800円)
「笑わない数学者」(講談社、880円)
「詩的私的ジャック」(講談社、880円)
「封印再度」(講談社、900円)


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