球体関節人形展
展覧会名:球体関節人形展
会場:東京都現代美術館
日時:2004年2月8日
入場料:800円



 人形と言えばハンス・ベルメールに四谷シモンさんの昔っから人気の芸術で、後継も事故死してなお絶大な人気を誇る天野可淡さんから最近だと恋月姫さんの写真集が人気になったり、タイプは違うけど模型メーカーのボークスが何年か前からウリにしている「スーパードルフィー」が、1体で10万円とか目茶高価だったりするにも関わらず、女性ばかりか男性にまで人気になってイベントが開かれれば作家さんの作った特製のドルフィーを手に入れようと、早朝から行列したり何十万円にも競り上がったオークションに入札したりと、恐ろしいばかりの賑わいを見せている。

 にも関わらずそうした世の中の動きを美術館がひとつのアート的な現象と捉え、自ら独自に企画した展覧会とは違って、2004年3月7日から公開される押井守監督によるアニメーション映画「イノセンス」の関連イベントとして、「球体関節人形展」が開催されることになったのが、ある意味美術館業界の腰の重さみたいなものを現しているように見えて、苛立ちみたいな感情がわき上がる。

 あるいはかねてから企画していた所に、球体関節人形が登場する「イノセンス」の製作が進んでいたことを知って、これに絡めればお互いに良いプロモーションが出来るからと、タッグを組んだ可能性も想像できないことはないけれど、カタログなんかを読んでも「イノセンス」の劇場公開記念企画としか書かれてないところを見ると、やっぱり映画の製作側にプロモーションの一環として持ち込まれた企画を、これは好都合と美術館側がまとめたものと考えるのが妥当かもしれない。

 もっとも美術館側が独自に企画したとして、球体関節人形が持つ、というより「球体関節人形」を愛でる人の心のどこかに必ずやある、ある種の淫靡で猥雑な人形に対する概念は、美術館側がアートの権威で押さえつけてようとしても、漏れ出て美術館側の立ち位置を揺さぶりかねないパワーを持っているから難しい。

 つまりは「球体関節人形」の少なくない作品が、少女をモチーフにしていて必然的に薄く盛り上がった胸とそして、股間に縦に刻まれた筋を持っていてそういった方面への関心を強く抱いている夢多き人たちを惹き付け、そういった方面を敵視している野暮で無粋な面々の逆鱗を刺激しかねないということ。ところがここに1本、アニメーション映画の関連イベントというフィルターを差し挟むことで、サブカルチャー的な何でもありのジャンルへと「球体関節人形展」を繰り入れて、未だ美術の権威を健全さと統合で結びたがる方面からの異論をかわすことが出来る。やはり最良のカップリングだったと言えるだろう。

 もちろん見に来る大勢の人たちも作っている作家の人たちも、球体関節人形をことさらに愛玩の対象として見たり作っている訳ではなくって純粋に、死んでいるようで生きてもいる、この世とあの世の境目に立つ不思議な存在感を持つヒトガタへの興味から、愛でたり作っている訳で、とっかかりはどこか淫靡で猥雑なものへの好奇心でも、あるいはサブカルチャーのプロモーションとしての興味でも、行ってみればそこにこめられた作り手側の意図なり情念を全身に浴びて、球体関節人形なる存在が持つ深遠さと幅広さに、アートとしての価値なり可能性を感じることになるだろう。

 その意味で球体関節人形の世界に大きな転換点をもたらす展覧会にこの「球体関節人形展」はなりそーだしなって欲しいもの。もちろんいつまでも薄い胸と縦の筋への興味を抱き続けていても構わない。人間の煩悩は100歳になっても失われるものではないのだし、眼前に居並ぶ人形から発せられるそうした淫靡で猥雑なエナジーも、美術館の空気や権威によって覆い尽くされるものではないのだから。

 作品について言えば、顔の綺麗さでやは恋月姫が抜けた感じで衣装の華麗さともあいまって、館内でもひときわ輝いていたような印象を持った。対称的に隣の三浦悦子はハンス・ベルメールをよりエスカレーションさせたように、球体関節人形が持つグロテスクな感じをパワーアップさせた作品で、切り刻まれたボディを金具で縫い止められたり縛られたり、棘を生やされたりして人形でありながらもにじみでる”痛み”のようなもので、見る人の心を刺激していた。

 淫靡で猥雑な感じでは山本じんも目立っていた。切れ込みに加えて盛り上がりが本物っぽさを醸し出してて、本物になんて絶対にお目にかかれない目には代替物としての官能を与えてくれてる。男子の人形も山本じんは手がけていて、股間に小さいペニスを生やしてガラスの輝く瞳で来る人を見つる姿に、訪れた女性がどんな感情を抱いたのか知りたいところ。男は盛り上がりに触れたくなるが、女性はひざまづいて握りたくなりものなのか。

 もう大ベテランになってしまった四谷シモンはさすがに大御所の貫禄。顔に関していうと活躍していた時代が時代だったこともあって、バービー系というか画家の金子國義系というか、他の少女少年の人形とは一線を画した大人びた感じがあって、最近の人形に興味を持った人たちの好みの中央線からちょっと外れるかもしれない。キリストを模したような痩せた男の人形は、四谷シモンならではの禁欲的ななかに巣くう熱情を漂わせているようで、写真を介してではなく直接見ると圧倒される。これがベテランの実力、そして人形の迫力か。

 そして天野可淡。写真集が出始めて注目が集まりかかったところで亡くなって伝説になってしまった関係で一頭抜けた存在感を持つようになってしまって、真正面からの評価をし辛くなっていたけれど改めて見るとその顔立ちはやっぱり飛び抜けて強烈で、白人の子供だけが持ち得る可愛さと残酷さを兼ね備えた美麗さが、その目その鼻筋その口元からあふれ出て来て目を釘付けにされる。カタログに入ってないのは急遽出展が決まったからなのか。「球体関節人形展」で「KATAN DOLL」が外す訳にはいかない。出展は当然だ。

 球体関節人形を工夫によって人間をモデルに作ってそれを写真に撮ったマリオ・Aの作品も飾られていて笑み。他に並んでいるのは所詮は人形につけられた刻み目でしかない縦の筋だけど、マリオの写真はつまりはホンモノで、それが堂々を飾られている訳で権威のカタマリのような美術館で、そういったものを見られることに隠れてヌード写真を見た興奮、もしくは街頭をヌード姿で練り歩く快感を覚える。

 もっともヌードの女性の関節部分を糸で縛った写真は、見れば見るほど人形にしか見えなくなってそれが、縦の筋も作り物にしか見えなくて人間とヒトガタの間にある、違いの実に小さくって大きいことを改めて感じさせる。これを収録した写真集が欲しかったけど売っていたのは人間を人間として、とゆーか女をゲイシャとして撮った「F THE GEISHA」だけ。これはこれでオンナの生々しさに溢れた作品で目に幸せな内容で、人形とされた女性の作り物っぽさと比べると興味深いかもしれない。


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