どうせ私は狐の子

 「エトランゼのすべて」(星海社FICTIONS)で、謎めくひとりの女性にまつわる不思議を描いたと思ったら、「ウタカイ」(一迅社)では、短歌の内容を実体化させて戦う女子高生たちの愛と青春のストーリーを描いて、多才で多彩な様を見せてくれた森田季節のこの作品「どうせ私は狐の子」(ティー・オーエンタテインメント、1500円 )は、「エトランゼのすべて」と同じように現代の京都を舞台にして、年頃の少女が自分に対して抱く違和感と、外界に対して覚える遊離感を、伝奇的な設定の上に描き出したミステリアスな物語だ。

 主人公は、京都を流れる鴨川のほとりに住む小学5年生の大鳥樟葉(くずは)という少女。しばらく前から、自分は人間ではないかもしれないと思って震えてしまう発作に襲われるようになっていて、その日も発作でめまいがして保健室に行き、そのままいつもより早く家に帰ることにした。

 そこにいたのが、紫乃という名前の母親で、家事も何もかも完璧にこなしてしまう、ある意味では理想の母親だったけれど、どこか完璧過ぎて人間らしくないという思いを、樟葉はずっと覚えていた。そして早くに帰宅したその日、悲鳴のような奇声が家の奥から聞こえて来て、まさか狐だろうかと思って上がると何食わぬ顔で紫乃が現れた。

 その夜を普通に過ごした翌朝、樟葉と兄の弧太郎に向かって父親が、紫乃は家を出て行ってしまったと告げた。父親によると、紫乃はどうやら人間ではないらしく、父親が“北山”という所で出会ってそして結ばれたのだという。そして遠からず北山に帰る気がしていたという。

 やっぱり狐だったのか。その娘である樟葉が自分に抱く、人間ではないのかもしれないという思いは、本当に血筋によるものだったのか。有名な狐の葛葉から取られたような名前。そして「弧」という狐に似た時を含む兄の名前。2人が狐の子で、紫乃は狐だったのだという感覚が読み手の気持ちにジワジワと広がっていく。

 それは樟葉も同様で、下鴨神社の境内にいた時に現れた女子高生で、自分を化け狐だという荊という名の少女に、母親を探そうとしないと狐になってしまうと脅されたこともあって、父親が紫乃と出会った北山はどこかと辺りをつけて登り、紫乃の痕跡を探し回る。

 そこで、狐たちが暮らす集落に迷い込んで、不思議な経験をする少女。そして現世に戻ると、そこには、樟葉とは違って母親の紫乃に並々ならぬ愛情を向けていた兄の弧太郎がやって来て、そして父親までもが現れる。心から母親なり妻が心配だかったからなのか。去ってしまった彼女にお別れを言いに来たのか。そう捉えれば、人間の世界に現れた狐の女性と、その子供かもしれない娘との相克を中心に描く、一種の伝奇ストーリーとして読んでも読めてしまう。

 一方で、人間ではないという感覚も、荊との出会いも、狐の集落での経験も、樟葉の年頃の少女ならではの外界に対して敏感で、自分に対して懐疑的な心理が見せた、一種の幻想なのだとしたら、紫乃はいったい何者で、そしてどうなったのかという別のストーリーも浮かんで来る。そして、人それぞれの心情が滲んできて、平穏に見えた家族に渦巻く、情愛だけでなく、それが余って浮かぶ憎しみも含んだ関係が見えてくる。

 正解が示されているようで、それでもなお見えない真実を論理的に突き詰めていくのも、決して悪いことではない。正解に近づけるようなヒントはしっかりと置かれてあって、それらを選び読み込んでいけば、なるほどという納得の帰結を得られるだろう。伝奇的なニュアンスを含んだミステリーとして、読んで真相にチャレンジしてみるのも悪くはない。

 そうではなく、狐であり狐の子なのかもしれないという認識の元で読ん時に、浮かぶのはやはり異質な者には生きづらいこの世界の息苦しさだ。周囲にとけ込み、必死に化けても浮かぶ違和感を、抑えきれない時はいったいどうすれば良いのか。人間を止めるしかないのか。踏みとどまろうとあがくべきなのか。

 こればかりはひとりでは決められない。周りがどう思い、どう受け入れるかによって変わってくるものだから。そのためにも、樟葉が抱き、年頃の子供たちが抱く遊離感を理解してあげる存在が必要だ。誰にだって居場所はあるのだと教え、諭し導いてあげることで狐の子も、寂しい少女もこの世界を生き延びていけるのだと知ろう。


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