「ひとがた・カラクリ・ロボット」展
展覧会名:「ひとがた・カラクリ・ロボット」展
会場:O美術館
日時:1996年2月26日
入場料:500円



 1体も持っていないけど、人形が好きだ。それも人間そっくりな人形が。展覧会でそんな人形が出たら、僕はいつまでも、その人形を見ているだろう。

 1点だけを見続ける人形の視線をそらして、顔をななめから見続けていると、ふいにその視線が、自分の方を向くんじゃないかという感覚とらわれて、ゾクゾクとしてくる。瞬きをして睫を振るわせる、口を開けて言葉を発する。硬質な皮膚感を持った人形が、暖かい息づかいをする人間に変わる瞬間を見逃したくなくて、僕は人形を見続けているのかもしれない。

 大崎のO美術館には、初めて入った。小さい美術館で、間仕切りのなされた空間に、4部構成になって人形やロボットが置かれていた。1部は生き人形から「芸術へ」のテーマで、主に首から上を写した人形が幾体か、ガラスケースの向こう側に飾られていた。灰褐色の顔色をしていて、何だか人形とうよりは、さらされた生首のような気がして気味が悪かった。

 2部はマネキンにおける人体表現の展開がテーマ。ベルナール・フォコンの写真集に登場する、毒々しい存在感を持った子供のマネキンが数体、衣装をつけたままで飾られていた。そして日本のマネキンも数体。七彩という制作者の名前が入った女性のマネキンは、外国人女性を写した他のマネキンとは違って、どこかおどおどしたような眼差しと、少しばかりかがめた背筋が印象に残った。大向こうを張ったような、大上段に構えたようなマネキンの中にあって、妙に人間ぽかった。

 横に向けた視線の、その正面に立って、顔をじっと見つめると、いつか相手が根負けして、視線を外してくれるかもしれない。人間がマネキンになる、昔のテレビ番組にあったシチュエーションと逆の現象が、今、この場で起こってくれないか。人形を見つめる視線が、次第に強くなっていき、人形との距離が、どんどんと縮まっていく。多分僕は、現実の人間に対して、うまく接することのできないその代償を、人形に対して求めているのだ。

 人間そっくりな人形は、表情やしぐさを写すことで、その内面をも写そうとしていた感がある。それはモデルの内面であると同時に、作り手の内面でもあったわけだが、4部で登場した、現代の「ひとがた」に至って、見る側に回った大勢の人々、つまり観客の内面を、それぞれに反映するような人形が登場し始めた。

 コンピューターテクノロジーを使った、インタラクティブ性を持った人形。それはスクリーンの中、テレビモニターの中に現れる3次元の画像に過ぎず、もはやかつての人形というイメージは、全く持ってない。そして、マイクで話しかけたり、音やリズムを与えると、様々な反応を返してくる。もちろん、あらかじめ決められた法則性によって、反応しているのに過ぎないのだが、その法則性を導き出すのは、からくり人形のような仕掛けでも、あやつり人形のような糸の先の人間でもない。声や音やリズムを発する観客なのだ。

 人間がそれぞれに意思を持った人形ではないという保証は、どこにあるのだろう。

 動いている宮田二郎(鳥光桃代作)を初めて見た。なかなかに好奇心と恐怖心を煽られる作品だった。


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