牛腸茂雄展
展覧会名:牛腸茂雄展
会場:東京国立近代美術館
日時:2003年6月1日
入場料:42円



  牛腸茂雄、という写真家については2002年春、「ユーロスペース」で公開されていた彼についてのドキュメンタリー映画「SELF AND OTHERS」を見て思ったことをつづった文章があるのでまず、それから紹介しておく。

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 「ユーロスペース」でレイトショー中の映画「SELF AND OTHERS」が、ゴールデンウィーク中は午前にも1回上映されるというので見に行く。タイトルから分かる人が写真好きの人には結構いるかもしれないけれど、実はその通りで同名のタイトルの写真集を自費出版して、ほかに何冊かの写真集とインクブロッットの画集を残して83年、36歳で亡くなった写真家の牛腸茂雄さんの軌跡を追ったドキュメンタリー映画になる。

 牛腸茂雄は脊椎カリエスを煩って決して丈夫ではない体を押して、子供と街を撮り続けた写真家で、荒木経惟のエネルギッシュな感じとも森山大動の対象をつかみ取ろうとするパワフルさとも違う、時に優しく時に冷徹に世界を切り取って折り畳む手法が、病気に伴う目線の低さとも相まって、一種独特の世界を作り上げている。92年にフォトプラネットから出た写真誌「デジャ・ヴュ」の第8号で特集されて再評価の気運が高まり、94年には代表作「SELF AND OTHERS」が未来社から復刊されて、比較的容易にその世界に触れられるようになった。「日々」や「見慣れた街の中で」といった他の写真集の作品も、「デジャ・ヴュ」の同じ号に載っている。

 もっともちょっとしたムーブメントを起こしたとは言っても、あれから5年以上が経った今、ブームも沈静化して再び幻になりつつある感じもあった。それだけに、今回のドキュメンタリー映画の公開はファンとしてもの凄く嬉しい。撮ったのは佐藤真という、どちらかと言えば社会派なドキュメンタリストでカメラは青山真治監督の「EUREKA」も担当した田村正毅という布陣。それだけに、どんな映像で牛腸さんの独特な世界を映像で甦らせてくれるのかと思ったら、冒頭から家々に囲まれた空き地に立って枝葉を繁らせる絵が映って、死して認められた夭折の天才、といったステレオタイプではないやり方で紹介していそうな雰囲気を感じる。

 映像は「SELF AND OTHERS」のラストを飾っていた、立ちこめる霞の向こうへと子供たちが消えていく不思議な雰囲気を持ったポートレートから引いて、新潟の実家に今もある彼の生活の残滓を映し出したあと、牛腸が歩いた軌跡を撮影した写真や映像を挟みつつ、俳優の西島秀俊による牛腸が姉にあてた手紙を読むナレーションを被せつつ進んでいく。途中、「SELF AND OTHERS」で撮られたあれはどこなんだろう、東京にある曲がりくねった坂道の今を映していて、その変わり様と変わってなさを描き、彼が生きた時代を今の僕たちが生きている時代との連続性と断絶をそこに浮かび上がらせる。

 牛腸については同じ双子を撮影したということで、ダイアン・アーバスと比べて考えた時もあって、どちらかと言えば社会からパージされたフリークスを頻繁にモチーフにした中で、同じ顔が2つ並んでいる異形性を双子に見ていたのでは、といった印象を受けたアーバスの写真に対して、双子であっても普通の子供たちと同じモチーフとして撮っている雰囲気が、牛腸の写真にはあって好感をずっと抱いた。けれどもドキュメンタリーの中で、当時の思い出を語った双子の元少女が、撮影の時の緊張感とか、写真集に入った自分たちの写真のブスっとした表情に対する不満を当時抱いていたこととかを話していて、自らのハンディキャップを逆手に取って、穏やかに自然に子供たちの中へと入り込んで撮影していた訳では決してなかったんだ、ということが分かってショックを受けた。

 他の出演者からもどうしてこの写真を使ったか、といった当時抱いた反発の話が出ていて牛腸茂雄という写真家の決してきれい事ばかりではない、時に冷徹に社会を見つめ未だ底辺であえぐ自分のポジションを見つめ、反感を買っても自分の思いを貫き通すクリエーターならではのたぎる魂が感じられて興味深かった。なるほど双子の少女たちがカメラを見る目は決して優しくなんかはないし、他の自然にふるまっているように見える子供たちもポーズを取ってその場所でフレームの中にパーツとして収まっている。フリークスを愛憎入り交じっても感情で撮ったダイアン・アーバスよりもむしろ冷徹なカメラマンだったのではないかと、そんな考え方にドキュメンタリー映画を見て変わって来た。

 内部と一体化して撮りまくる荒木と、同じ街撮りでも牛腸は大きく違っているのはそうした対象との距離感で、だからこそ「SELF AND OTHERS」なんて自他の関係性の決して越えられない境目を示唆するタイトルを、自分の写真集に付けたのかもしれない。むろんこうした考えの正当性はまったくもって保証できるものではないけれど、それでもカメラの向こうにある世界を懸命に切り取ろうとあがく一所懸命さだけは写真からも映画からも存分に伝わって来て、だからこそ自分は誰でどこに向かって発信しているのかを自問自答し続けた牛腸の、生前にはかなえられなかった想いに対する悔しさが胸を痛める。

 一流であることは有名なこととは関係なしに存在してるんだとノートに書きつづる、そんな態度の清冽ぶりには感動するけれど、それだけ有名になることへの強い意識があったとも言えてどこかもの悲しい。空き地の木で始まった映画が再び同じ空き地の木で終わる、その意図が時間の長さと存在し続ける重さを表しているのかどうかは定かではないけれど、100年1000年と時を越えて立ち続ける木が、本人は死んでも写真集として残り今また映画として残った牛腸茂雄という写真家の象徴なのだとしたら、あの空き地にあの木が存在する限り、否すべての空き地にあらゆる木が存在し続ける限り牛腸茂雄という写真家もまた語られ続けるんだという理解は、あながち外れてはいないだろう。その意志を継いで僕たちは10年後、20年後も語り続け100年、1000年先に語り継ごう、「牛腸茂雄という写真家がいた」ということを。

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 国立近代美術館の片隅でそっと開かれている牛腸茂雄の展覧会に飾られているのは、代表作ともいえる「SELF AND OTHEARS」がおそらく全点に、デビュー作となった「日々」から何点かと、そしてカラーの作品となった「見慣れた街の中で」のこれは写真ではなくスライドの47点。さらにインクブロットの作品でつまりは牛腸茂雄が生涯に残した作品の大部分に、そこでは触れることができる。

 改めて見て思うのは、飾られた写真の表面上はどこまでも静謐なことで、70年代初めから80年初めという喧騒の時代が一段落してどこか日本全体にポジティブな空気が漂っていた時代にあって、そうしたエネルギーをジャーナリスティックに追いかける訳ではなく、むしろ無関心を決め込むように身の回りにあるもの、いる人々を見つめ続けた写真家の日常が、並べられた作品からにじみ出して来ているように感じる。だからといって決して枯れている訳でもなく、自分自身の揺れて迷い葛藤する心を、静謐な対象を鑑にして浮かび上がらせようとした、その強い気持ちがファインダーをのぞく牛腸をレンズ越しに見返す対象者たちの、決して内心のすべてをさらけ出した姿ではない、笑っていてもどこか身構えたような表情やポーズに現れているようにも見える。

 すでに映画を見終わり、被写体となった人たちの言葉を聞いてしまった後だから、なおさらそう思えるのかもしれない。ただ、人を真正面から撮っていた牛腸が、最後となった作品「見慣れた街の中で」では決して相手をファインダー越しに見つめず、逆にノーファインダーで半ば隠し撮りされたかのような構図で街の喧騒を撮っている様を見るにつけ、自分の葛藤が被写体を鑑に跳ね返って来ては苛む、その戦いから半ば逃げ斜に構えて世間を見ようとしたのではいかとも思えて来る。「SELF AND OTHEARS」にあった”自対他”の緊張感から抜け出して、流れていく時間にその身を委ねてしまったような感じがある。なるほどそれは撮影している人間にとって気持ち的には楽だろう。

 もっとも彼が内への関心を捨てて達観した訳では多分ない。むしろより強く内面への探求を、よりストレートな形で始めてしまった感がある。「見慣れた街の中で」と前後して作られた、ロールシャッハテストに使われるような奇妙な形状をしたインクブロットの作品が、外部を経て自分を見つめ直す行為から離れ、深く内部へと心を向けようとしていた牛腸茂雄の当時の姿を伺わせる。ただ見たものを撮った感じが強い「日々」から、対象を通して自分を探った「SELF AND OTHEARS」、そして外では「見慣れた街の中で」で達観を見せつつ内ではインクブロット「扉をあけると」で深く内面へと沈降を始めた、牛腸茂雄という写真家の揺れ惑い悩み怯え達した生涯がギャラリーに飾られた作品たちの上に流れている。見て人は何を思うか。逝ってしまった1人の写真家を偲ぶことも悪くはないけれど、悩み続けた1人の写真家を想い振り返って我が身を思うのも悪くはない。


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