デュエイン・ハンソン
展覧会名:デュエイン・ハンソン展
会場:大丸ミュージアム
日時:1995年5月8日
入場料:800円



 リアルなことは芸術になるか。たとえばレンブラントの絵画では、飛び出してくるようなリアルさが芸術の最上の喜びを見るものに与えてくれる。ロダンの彫刻も動き出すようなリアルさが見る者に体温を、息吹を、鼓動を感じさせる。

 ならばデュエインの彫刻はどうか。まるで生きているような彼の作品群は、ロダンのようなリアルに近いなどといったレベルのリアルさを何百倍も超えた、まるで剥製といっても差し支えがないほどのリアルさだ。注意しなくてはならないが、剥製は芸術ではない。記録である。記録はその形に美しさは求められない。醜さも求められない。人々の美的な感性に訴えかける必要などさらさらなく、とにかく本物をコピーしてさえいればいいのである。

 そこでデュエインの彫刻を見返してみる。

 むろんデュエインの作品は剥製ではない。本物の人体から型どりして何やらを流し込んで作った、いわば人体の版画である。版画なら複製が可能という指摘もあろう。それは実際、デュエインの彫刻では、同じ型から何度も同じ人体模型が取り出されて、着色や植毛の差異によって別の作品に仕上げることがあるから、まんざらはずれた指摘ではない。

 版画の芸術性において常々槍玉に挙げられるのが、そのオリジナル性である。唯一無二という絶対的な価値観を、古来芸術は求められていた。ベンヤミンが書いていように、かつての神殿の彫刻が崇拝の対象であったことを発生源として、オリジナル性の神話は形成されていった。

 同一の時間と空間において、ただ一点でのみ鑑賞可能な作品を芸術と呼ぶならば、版画はその認識からはずれるものである。しかし今日、オリジナルと寸分違わぬ色彩を持った版画を、非芸術と呼ぶものは誰もいない。芸術の価値とは、筆遣いの後とか、カンバスの素材とか、画家のサインによってのみ決まるといった性格のものではなく、色彩とディティールとモチーフによっても、認識されうるものと変わって来たのである。

 そこでデュエインの彫刻に話を戻す。版画と呼んだデュエインの彫刻はオリジナル性と複製による多義性を、共に持ち得た芸術であると私は思う。それは芸術家の手によって、様々な形へと変貌を遂げ、その度ごとにまた一つのオリジナルを生み出す、希有の存在。ウオーホールがモンローの肖像を幾たびも幾色もの色彩によって変貌させていったかのごとく、それが行為も含めて芸術と認識され得るかのように、デュエインの作業はまさしく芸術なのである。


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