あなたが空へ帰る日
−ヘリコプター事故で逝った妹へ。−

 宇井かおり、というシンガーソングライターがいて割と最近まで松本引っ越しセンターのCMで「DOOR」という曲が使われていたから、名前は知らなくても歌声は知っている人が多いかもしれないけれど、CMで聞くよりしばらく前にFMで同じ「DOOR」を聞いて詞の何とも言えないシリアスさと曲の何とも言えない切なさ、そしてその世界観を静かに凛として歌い上げる声が気になって、CDを買ったか録音したかは部屋が混乱している今となっては確かめようがないけれど、何度も聞き直していた記憶がある。

 その宇井かおりの名前を、立ち寄った本屋の「あなたが空へ帰る日」(名古屋流行発信、1143円)というタイトルの本を唐突に見つけて、おや、と思って帯を読むと載っていた言葉が「1997年1月24日(金)8人乗りヘリ、愛知県豊川上空で消息を断つ……。」という文章。トヨタ自動車のヘリコプターが、豊田市へと向かう途中に消息を断った事件は記憶にあって、それとシンガーソングライターの宇井かおりとがどうつながるのか一瞬分からず、本を手にとって題字の下の字を読むと、「ヘリコプター事故で逝った妹へ。」とあって驚いた。あの事故機に妹さんが乗っていたんだ、といった具合に知ってる人と知ってる事件が結びついた衝撃は、けれども帯に小さく書かれた本のあらすじについて触れた文章でさらに強まる。

 「日本唯一のヘリコプターアテンダントとして、夢に向かって大空をかけめぐっていた妹、ちはる」。つい最近、小川一水がが書いた、同じように空への憧れからヘリコプターのナビゲーターになった女性を主人公にした「回転翼の天使」(角川春樹事務所、720円)という小説を読んで、危険を省みずに頑張る「空の女」のカッコ良さに触れたばかりだったこのタイミングで、同じように空への憧れを成就しつつも、これからまだまだという時に消えてしまった女性がいたことに、ある種のシンクロニシティーを覚えると同時に、感動のカタルシスが得られた小説と、厳しく哀しい結果が訪れた現実との、おそらくは見えないカードを1枚はさんだ裏表のような関係を見て、しばし呆然とする。「あなたが空へ帰る日」の213頁、ヘリコプターの前で敬礼する宇井さんの妹のちはるさんの姿と、「回転翼の天使」の表紙の何と似通っていることか。

 浮いていれば爽快な空も、墜ちれば待っているのは紛うことなき死の哀しみ。それが現実となった「あなたが空へ帰る日」を前にすると、いささか楽観的な虚構がしばしたじろがざるを得ないのは仕方がないことかもしれない。けれども路半ばで断ち切られたとは言え、空の仕事の中で亡くなられたちはるさんが思い描いていた「空への想い」は、「回転翼の天使」の主人公、伊吹に引き継がれ凝縮されているとも言える。その意味で「回転翼の天使」は、厳しい現実を踏み越えて後に続くだろう同じ「空への想い」を抱く人々への、良き導き手となっている。2冊を合わせて読むことで、厳然とした事実を突きつけられ、残された家族たちの哀しみに触れつつも、意義深い空の仕事へと向かう勇気が沸いてくる。

 レコーディングを行っていたスタジオに飛び込んで来た事故の一報。行方不明の状況が続くなかでかけていた一縷の望みが断ち切られる瞬間の心の痛み。そして葬儀から荼毘へと至る数日間が綴られたエッセイは、全編が家族を失った人々の哀しみに彩られていて、厳しすぎる現実を感じさせてくれる。けれども不思議なことに、何かに対する憤りを覚えることはない。「あなたが空へ帰る日」の中では、娘を、妹を奪った空への恨み言を誰も言っておらず、誰もつづっていない。これは勝手な解釈かもしれないけれど、亡くなられたちはるさんの「空への想い」を誰もが感じ、その想いが合わせ持つ危険を含めてちはるさんを理解していた現れではないのだろうか。本当に理解し合えた家族が持つ強い結束と相互信頼が、読んでいる人に憧憬と安らぎを与えてくれるのではないのだろうか。家族を奪った「空」に「帰る」と書いたエッセイのタイトルが、たぶんそのことを示してる。

 「その夜、父と母と私は、昔のように布団を川の字に並べて寝た。もちろん、ちはるも一緒だ。『甘えんぼだで、淋しがるだろ』と言って、父は寝室のテーブルの上に骨壺から遺影から何までを全て持って来て並べた。『かおり、夜中に寝ぼけてひっくり返すなよ』……夜中に何回もお手洗いにいくのは、お父さんでしょうが。久し振りに、四人一緒に眠った夜だった」(194ページ)。離ればなれになって、それぞれが立派に自活していても、いざという時には家族の結束の強さ、家族が家族を想う心の優しさは絶対に失われないし、むしろ純粋になって高まっていくのだということを見せつけられ、この文章を読むたびに胸が熱くなる。目頭が濡れて来る。1人で生まれて来た人はいない。1人で生きていく人もいない。家族が仲間でも、人が人の中で生きていく上で大切な何かを思い出させてくれる。

 「あなたが空へ帰る日」は、一面で音楽業界の厳しさも見せてくれていて、CD3枚を出したシンガーソングライターでも、商業主義の中では売れなければ切り捨てられるんだという現実に足がすくむ。契約を解除され、仕事がなくなりかといって家にも帰れず「涙がボロボロとこぼれる。『苦しいよう』と声に出して言ってみる」(232ページ)東京での生活。化粧もせず、早朝の新幹線に飛び乗って実家へと帰るシーンの凄絶さは、読んでいてなかなかに身につまされる。それでも今、そんなシーンを文字にしたためられるようになった所を見ると、騒々しい都会での数字だけをよりどころにした生活よりも、求める人のところへ音楽を届ける暮らしの方に、充足感を覚えているんだとも思えてちょっとばかり羨ましくなる。そんな満ち足りた環境で作っている宇井かおりの音楽こそが、人と人とのつながりが壊れかけている今こそ、必要なのではないのだろうか。


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