■ 危機的的状況にある冨山常喜死刑囚と恩赦出願−1(2003/02/03) 目次 次へ

波崎事件
獄中から40年、 無実の叫び!
危機的的状況にある冨山常喜死刑囚と恩赦出願−1

波崎事件とは:

1963年8月26日午前零時過ぎ、茨城県鹿島郡波崎町のIY(当時35歳)さんが帰宅直後、急に苦しみだし、近くの波崎済生会病院で手当てを受けたが午前1時30分頃死亡しました。I(Y)さんが苦しみだした時に「箱屋にだまされた、薬を飲まされた・・・・」と言ったと、側にいたI(Y)さんの妻の証言を基に、警察は箱屋こと冨山常喜(当時46歳)さんを10月23日、私文書偽造の別件で逮捕、その後、11月9日に保険金目的の毒殺容疑で再逮捕しました。冨山さんは取り調べ段階から一貫して事件とのかかわりを否定、物証のない状況証拠のみの認定で死刑判決を受け、40年近く獄中から無実を訴え続けています。2000年3月に第2時再審が棄却、現在、東京高裁に異議申立請求を行っています。

W私は無実だ!W

冨山さんは一審死刑判決の不当性を訴えるために、東京高裁第一回公判(s.42/9/2)で400字詰め203ページに及ぶ膨大な控訴趣意書を提出しました。控訴趣意書には、無実であるにも拘らず有罪にされてしまった無念さ、怒りが随所に表現されています。そして、検察・裁判官が有罪と断定した想像と推論のみに基づく状況証拠一つ一つに対して、事実をもって論理的に批判を加え、自らの無実を完璧に証明しています。しかし、渾身の力を振り絞って書いた控訴趣意書(無実の叫び)に対し、裁判官は偏見から聴く耳を持たず、一審同様の死刑判決を下しました。

ここで、1992年6月8日付で日本弁護士連合会宛に提出した「再審請求に関する救済お願い書」から、冨山さん自身の声を以下に引用します。

「先生方におかれましては、まことに信じられないことがらかも存じませんが、本件に関する限り、紛れもなくそれは真実のことであり、全く何らの物的証拠があるわけでもなく、まして身に覚えのないことで自白の致しよう筈もなく、連日休憩なしの、一日15,6時間にも及ぶ、精神的拷問にも似た過酷な取調べにも耐え抜いて、一度としてそれに屈したことはありませんでした。にも拘らず、恣意にデッチ上げた《推認》《推測》《仮定》《推断》などと言う、自らの仮想に仮託した状況証拠の寄せ集めだけを以って、強引に死刑の判決を下されてしまったのであります。・・・・・警察、検察の飽くなきデッチ上げ工作もさることながら、公判に際しての本件受命裁判官が、それらと同類項の検察畑出身者だったという不運等も重なりまして、中立とは名ばかりの、露骨な検察より姿勢を隠そうともせず、私サイドの主張・弁解等にはほとんど耳を借さず、逆に検察側の論述に破綻が生じそうなケースには、さりげなくこれに『それはこうこういったようなことですね』などと『フォロー』の手を差しのべるなどしており、私は公判中何度歯がゆく口惜しい思いをさせられたかわかりません。・・・・昭和41年12月24日『・・・何ら無警戒な被害者に対して、鎮静剤と偽って青酸化合物入りのカプセルを飲ませて、交通事故を偽装して保険金詐欺を目論んだ、史上に類を見ない悪質な犯罪であるにもかかわらず、被告人は未だ無実を主張していささかも反省の色が見られない』として、自らの判決文中で『青酸化合物の入手経路、その所持の事実、これらを証かすべき証人、これを与えたとの目撃者等のいずれも不明であるが』と自認しておりながらも『それでも被告人を有罪とするのを妨げない』という信じられないような強引さで極刑が科せられてしまったのであります。・・・・・・そのような次第で、私もこのような環境を余儀なくされまして以来、今年でまる29年の歳月を無に帰せられてしまったわけですが、それでもこの年月、気の遠くなりそうな、この時間経過の中にも拘らず、唯今こうして御会への救済願いを書いている現在でも、今まで忘れていた様なことまで思い出すなどして、記憶の底の怒りはおさまるばかりか、益々新しい怒りと口惜しさが甦って来てしまいました。・・・・・・・・・」。

団藤重光元最高裁判事の問題発言 "やはり本当は無実だったのかもしれない"

最高裁で上告棄却決定した裁判官の中に、団藤重光判事がいました。現在は判事を退職して弁護士をしていますが、死刑制度廃止を訴えています。1992年7月27日の毎日新聞(夕刊)連載記事「この人と・・・」に登場し、第一回目のインタビューの中で次のように応えています。

「・・・誤審の問題は死刑廃止論者の間では言い古されたことで、私も法学者である以上、大学に在職中から、もちろん、このことは良く知っていました。しかし、正直言って頭でそう考えていただけだったのです。これでは駄目です。私は最高裁判所に入ってから、本当に身をもってそのことを痛感するようになったのです。
それはある毒殺事件でした。状況証拠だけで、被告人はずっと否認していたのですが、『合理的な疑い』を超えるだけの心証の取れる事件でした。刑事裁判の原則として『合理的疑い』を超える心証が取れる時は有罪ということになっているのですから、この事件も有罪のほかなく、しかももし本当だとすれば、情状の悪い事件でしたから原判決が言い渡した死刑判決を覆すことは出来ない事件でした。弁護人側の主張を読むと、原判決が果たして絶対に間違いのないものなのか、一抹の不安がないでもなかったのですが、それだけでは、現行法上、何とも仕方ないのです。それで上告棄却ということに。ところが、法廷で裁判長が上告棄却の宣告をして、我々が退廷しかけたときに、傍聴席から『人殺しっ』という罵声を浴びたのです。やはり本当は無実だったのかもしれない。私には一抹の不安があっただけに、この罵声は胸に突き刺さりました。私はこの瞬間に決定的な死刑廃止論者になったのです。・・・」(同じ趣旨が団藤重光著『死刑廃止論』有斐閣 第三版p26に掲載されています。)

ここで団藤氏が挙げている「ある毒殺事件」とは、他ならない波崎事件です。「人殺しっ」と叫んだのは現在「波崎事件対策連絡会議」代表の篠原道夫さんです。このインタビュー記事から、団藤氏が決定的な死刑廃止論者になった動機と理由はよく理解できます。また、この時点で、なかなか認めずらい自身の過ち(誤審の可能性)を元最高裁判事という立場から、世間に公にすることで、Wやはり本当は無実であったのかもしれないW冨山常喜死刑囚の死刑執行に待ったをかける意図もあったのではないかと思われます。その意味では、自分達は完全無欠で決して誤りを犯さないと信じている裁判官、過去のえん罪事件で有罪判決を下しなが一切の反省をせず、逆にあの時はあれしかなかったと開き直る裁判官、自ら下した判決に一抹の不安を抱えながらも固く口を閉ざし、沈黙を守り続けている裁判官等に比べれば、この団藤氏の言動は良心的で好感がもてます。しかし、冨山さんが40年間、最も強く望んできたのは、誤解を恐れずに言えば死刑制度廃止論ではなく、再審開始決定です。

ここで思い出すのは、財田川事件(1950年)で死刑判決を受けた谷口繁義さんの再審運動に重要な役割を果たした矢野伊吉元判事のことです。矢野元判事は1979年、谷口さんの再審請求書を高松地裁丸亀支部長の時に読み、谷口さんの無実を確信し、他の2人の判事と審議した結果、再審請求受理を決定しました。しかし、本番になって上からの圧力で2人の判事が再審決定に反対したため、再審が延期されました。これに怒った矢野判事は30余年に渡る判事生活を止め、弁護士となって谷口死刑囚の再審に取り組みました。そして、警察・検察の証拠捏造や証拠隠蔽を明らかにしつつ、ついに1981年、谷口さんの再審無罪を勝ち取り、31年振りに獄中から谷口さんを解放したのです(参考:『財田川暗黒裁判』矢野伊吉著 立風書房。1981年)

「・・・弁護人側の主張を読むと、原判決が果たして絶対に間違いのないものなのか、一抹の不安がないでもなかったのですが」と、団藤氏は述べています。ならば、冨山さんの命がかかっているのですから、絶対に間違いないと確信するまで審理するのが裁判官の務めです。「・・・現行法上、いたし方ない・・・」との言葉には、死刑の恐怖で怯えている冨山さんの存在は感じられません。さらに、「・・・『合理的疑い』を超えるだけの心証の取れる時は有罪」とは実に不思議な表現です。合理的疑いはあるが、それを超えるだけの心証が得られたということだろうか。「疑わしき(合理的疑い)は被告人の利益に」の刑事司法の鉄則と矛盾していないだろうか。団藤元最高裁判事の発言の中にいみじくも波崎裁判の特異性(異常性)が表現されています。裁判官の心証が事実より優先する死刑判決は如何なる理由があっても認める訳にはいきません。

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