■ 山際永三氏講演 多発する冤罪‐1(2001/02/11) 目次 次へ

山際永三氏講演 多発する冤罪(1)
二〇〇一年二月十一日 土浦人権集会

 こんにちは、山際と申します。
 今ご紹介にありましたように、私は映画監督で主に子ども向けのテレビ番組「ウルトラマンシリーズ」とか「俺はあばれはっちゃく」とか、そういうテレビ向けの映画を作ってきました。十年ばかり前から現場から離れていますが、今は日本映画監督協会という協会がありまして、そこで映画監督の組合活動のようなことをやっております。今日はこういう機会を与えてくださったことを感謝しております。
 皆さん、この地域で普段いろいろの形で市民運動、あるいは弱い立場におかれた人々のための運動にそれぞれ関わっておられることが多いと思うので、私からあれこれと言うよりは、むしろ一緒に考えていただいて、冤罪が多いということは、日本の社会がどこかおかしい、ゆがんでいる、日本の根幹である司法制度が病んでいるということでありますので、非常に重要な問題にかかわることでありますから、今後我々はどうすればいいのかということも含めて、皆さんと一緒に考えていきたい。また、ご批判、あるいは、こういうことはどうなんだ、ということがあれば、どうぞご意見を出していただきたいと思います。
 今日は「多発する冤罪」という題で私のレジュメをおくばりしてあると思います。この三十年ばかり、私は冤罪の問題と取り組んできていますので、言いたいことはたくさんあるんですが、問題は多岐にわたっていますので、なかなか整理することが難かしいんです。

国連規約人権委員会
 今日は、少し整理して、一時間の時間にぴったりと話せる内容にしたいと思ったんですが、整理しきれないで、途中からは走って項目だけになっていますが、一応、今日のテーマにそった問題点をコピーして皆さんにお配りしてみました。最初のほうに書いてあるのですが、日本には無実事件が多すぎるということです。波崎事件を支援していらっしゃる方々が、ここにも何人かおられますが、その方たちとも一緒になって、今から十年くらい前に「再審事件交流会」というゆるやかなネットワークを立ち上げました。ちょうどその頃、国連の規約人権委員会が日本の人権状況を審査するという時期がありました。国連の人権条約に日本も加盟しているので、五年にいっぺん日本のいろいろな問題点を全部整理して政府が国連に報告を出すんです。
 この政府報告は、日本にはほとんど問題がないと、たとえば精神病院の問題はだいぶ改善したとかですね、外国人に対する差別は少しづつなおしているとかですね、それから、いわゆる世界的にも有名になっている「代用監獄」という言葉、これは訳さないでそのまま「DAIYOKANGOKU」とローマ字で書いてどこでも通用しているそうですけれども、警察の中で二〇日間以上も拘留して取り調べるという日本の警察制度のあり方、これなんかも前から世界で問題になっているんですが、そういうのも今は、捜査をする警察官と留置場を管理する警察官は別にしているからいいのだ、というようなことで日本の政府が国連に報告を出すわけなんです。
 ところが、よく読んでみるとその報告は非常に欺瞞的で美しいことばかり書いてあるのです。そこで日本の市民団体、いわゆるNGOが国連の規約人権委員会に対してカウンターレポートというのを出します。委員会には十八人の委員がいまして、日本人もひとり入っているんですが、この日本人はあまり発言しない。まあ、自分の国のことが審査されるのですから、日本人はあまり発言してはいけないらしいんです。ほかの国からはそれぞれ裁判官の経験者とか、大臣経験者とか、その国では権威のある人が出てきていて、十八人の委員がいるんです。この委員が非常に熱心に日本のことも研究してくれてですね、我々みたいなNGO、つまり非政府組織が出したカウンターレポートもよく読んでくれるんです。私たちは「再審事件交流会」として「日本には無実事件が多すぎる」という題のレポートを十年前に出しました。その結果も含めて日本政府に対して「死刑廃止条約」、それから「拷問等禁止条約」というふたつの条約、これに加盟すべきだと、日本ではまだまだ拷問が行われていると。この拷問というのは、ただ殴る蹴るの拷問ではなくて、精神的な拷問も含めて、公務員の指示によって、意図によってなされる、一切の圧迫も含めて、これを拷問「等」と言っているんです。「等」が非常に重要なわけです。それらの条約に国連の規約人権委員会は加盟しろということを日本政府に勧告してきています。きょうのレジュメもそのときのレポートに沿ってだいたい書いているつもりです。

死刑再審第一の門
 ここにもありますとおり、一九八三年、いまから十七年前ですが、免田栄さんが死刑確定して三十四年六ケ月獄中にいたにもかかわらず、やっと無罪になって帰ってきました。免田さんはその後、我々とも親しく付き合ってくれて、いま大牟田に住んでいますが、なにかといえば東京へ出てきて、また、全国をまわっていろいろと訴えてくれています。免田さんの話を聞くと、本当になぜ免田さんが助かったのかを深く考えさせられます。
 免田さんはこう言っています。彼が三十四年入っている間に福岡拘置所で約七〇人の死刑囚が死刑執行されていくのを見送った。その中の相当多くの人が免田さんに対して「俺も冤罪なんだ、実は」ということを訴えていたといいます。確かに話を聞いてみると、それらの人たちも裁判に問題があるということを免田さんは感じていたと言っています。免田さんは非常に几帳面にノートをとっていて、しかもただノートをとるだけでは拘置所当局に潰されちゃいけないというので、自分の事件に絡んで裁判所に提出する上申書の形で書類を作っているんです。裁判所に出すという形でその七〇人の名簿を書いています。その名簿の中に、この人は自分の裁判にいろいろと違うこと、不公正なことがあったと訴えていた、ということを免田さんは印(しるし)したものを、今でもコピーが残っていますが、こういった形で七〇人の中の相当多くの人が福岡拘置所だけでもですね、冤罪を訴えながら死刑執行されてしまったという事実。これを免田さんから聞くと、本当にそういうことが許されていいのか?これではたして日本が近代国家と言えるのか?という疑問にぶち当たるわけです。
 免田さんが死刑から無罪になって出てきたということは画期的なことでありまして、それまでもいわゆる「吉田岩窟王事件」など、何十年も獄中にいた人が釈放されたあと社会に出てきてから自分で訴えて、弁護士に頼んで再審で無罪を勝ち取った人は何人かいます。だけど、死刑で釈放されずに三十四年も入っていて無罪になって出てきたのは免田さんが初めてなんですね。少なくとも近代的法律体系の中では初めてなんです。
 これは日本の裁判所なり、司法全体のとんだ大恥と言いますか、汚点であるのは当然だし、皆んなびっくりしたわけです。ところがその後、さらに免田さんのあと、続けて三人が死刑から無罪になりました。
 「財田川事件」の谷口さん、「松山事件」の斉藤さん、それから「島田事件」の赤堀さん、この合計四人が次から次へと約六年の間に奇跡的に私たちの社会に戻ってきたんです。これが続いたんで皆んな呆れたわけです。日本の裁判はこんなにいい加減だったのかと。この四人について何故それまでなかった死刑再審・無罪ということが可能になったのか。これは多くの関係者が努力したし、それからこの四人については日弁連の中に特別の委員会ができて日弁連の予算の中で弁護団ができてがんばったということもありますし、免田さんの場合のように第六次の再審でやっと無罪になる、というようにそれぞれの方たちが努力された結果であることは事実です。日弁連ががんばったことも事実です。

戦後民主主義のプラス面
 私に言わせればやはり、日本の戦後民主主義のひとつのいい面がやっとでてきた。戦後民主主義というのは一九六〇年頃にはどちらかといえば風化してしまって、戦後民主主義とあんまり言われなくなってきた一九六〇年代です。それに対して、むしろ戦後民主主義の欺瞞性を見なおすという形で、いわゆる七〇年闘争があった。にもかかわらず八〇年代になってやっと戦後民主主義のある種の積極面というか、無実の人を殺してはいけないという、このあたりまえのことがやっと実現するという形が一九八〇年代になって滲み出たというか、日本の社会制度の中から搾り出されたというのか、やっと実現された。それが、この四人の無罪だったように思います。
 これは、法律的には最高裁判所が出した「白鳥決定」、それと「財田川決定」という大きな前進があった結果です。それまで再審というのは、いわゆる新証拠が無いといかんという、その事件の裁判中に出ていた以外の新しい証拠で、全く明白な証拠が出てこないと再審は通らないんだとなっていたわけだし、今でもそうなんです。この新規かつ明白というふたつの条件はなかなか難かしいんですね。裁判中だってその人にしてみれば死刑になるんだから必死になっていろいろな証拠は出したでしょうし、弁護団もいろいろがんばるということですから、裁判が終わってしまってから新しい証拠を見つけ出すということは本当に難かしい。この事自体が稀有なことなんですね。ところが、それまでの再審というのは、新規・明白な証拠が明らかで、その証拠だけでその人は無罪だとはっきりする、たとえば真犯人が出てきたとか、あるいはその人にとって完全なアリバイが証明されたとかいうことがあとで出てくればこれは無罪にするという非常にきびしい枠がありました。ところが「白鳥決定」、「財田川決定」、この最高裁のふたつの決定はその新規の証拠だけひとつだけをとって無罪か有罪かを決めるんじゃなくて、それまでの多くの旧証拠と新しい証拠とを総合的にみて、総合判断をするとこれは無罪だということでいいんだ、ということになったんです。
 素人の目からみれば当たり前のことのようですが、法律の世界ではその総合判断というのが大きい変化でした。「白鳥事件」というのはご存知のとおり北海道の公安事件で、当時の共産党系の人たちが巻き込まれた。これも冤罪事件なんですが、この事件そのものは無罪にはなりませんでした。だけど、最高裁の「白鳥決定」は非常にいい決定だったんですね。それと、つづく「財田川決定」、このふたつの決定が再審の枠を拡げるというか、再審の新証拠の枠を拡げる、単なる単独の新証拠ではなくて、それまでの証拠の全てを総合判断して無罪という心証が得られれば再審を開始していいんだ、ということになって、免田さんたち四人の死刑再審の門を開くことに大きく役立ったわけです。
 この決定を出すときの最高裁のメンバーの中には相当民主的な人も居てですね、この人たちがやっぱりがんばってくれてふたつの決定が出たということを考えますと、私が言うところの戦後民主主義のある意味での良さがやっと最高裁に達して、最高裁の中でそういういい決定が出た結果、一九八〇年代になってこの四人の死刑囚が再審となり、結果、無罪になったということだと考えるわけです。

逆流のただ中で
 ところが、その後、それはとんでもないことだと、こんなふうに再審無罪を続出してしまうのでは日本の司法制度はやっていけないと、これからは絶対再審無罪にはしないという動きが裁判所だけじゃなくて、いろいろなところで始まりました。確定判決がこんなことで揺らぐようでは日本の秩序はこわれてしまうと、だから、再審無罪という流れを出さないようにしようという動きがあった。その線に沿った論文もたくさん出ています。
 要するに、総合判断することにはなったけれども厳密に見てみなければいけないということで、その新規性・明白性を再度強調する論文が随分出ています。裁判官が書いた論文も出ました。せっかくの再審無罪の流れが赤堀さん以降ばったり止まってしまったわけです。もちろんご存知のとおり、最高裁判所の裁判官には歴代の内閣が気をつかって、民主的な考えを持っている人は最高裁の裁判官にしないという流れが定着して、そのために「白鳥決定」と「財田川決定」という、このふたつの決定のいい面を無視してしまおうと、なるべく再審の門を狭くしてしまうという動きがひきつづきずっと一九九〇年代にあったわけです。そのために、本来、完全に無実だという事件もどんどん再審が却下されてしまいました。これを弁護士さんたちは逆流と呼んでいますが、確かに逆流があり、今でも逆流が続いているわけです。その逆流のなかで波崎事件の冨山さんも、今八三歳ですが、いまだに再審が通らない。一九六三年の事件ですから、もう四〇年近く経っています。
 免田さんと同じくらい長く入っている人が何人かいるようになってしまいました。再審請求が棄却されつづけるという状態が、ここのところ十何年かつづいているわけです。北海道の「梅田事件」とか、四国の「榎井村(えないむら)事件」とか、いくつかの事件では再審無罪になって出てきた人もいます。ところが死刑再審は赤堀さん以後、ぜんぜんありません。こんな状態が我々の前に今あるわけです。
 免田さんがこういうことを言っています。免田さんがまだ福岡の拘置所に居るときに日弁連のそうそうたる弁護士さんが免田さんのところへ面会に来て「免田さん、あなたはなんとか再審無罪になる可能性がある」と言うんです。「免田さん、谷口さん、斉藤さん、赤堀さんとこの四人まではなんとかなりそうだ」
 これは免田さんが中にいるときだから、まだ四人とも外へ出ていないときですよ。「免田さん、この四人まではなんとかなりそうだ。しかしそのあとはもう駄目なんだ。その四人を助けるのが精一杯なんだ。もうこれ以上は駄目なんだ」と言った。弁護士さんが言ったというんです。皆さん、それ、おそろしいことですよ。だってまだ四人とも中にはいっているときですよ。ある意味で予言する人がいたんですね。この予言は見事に当たっちゃったわけです。ということは、日弁連をはじめ、裁判所にしろ、検察庁にしろ、日本の法曹界、あるいは政治家も含めて、四人についてはどうしようもないし、運動も盛んだし、あの四人は出すしかないというような雰囲気があったんですね。たぶん、赤堀さんは出さないようにしようという説もあったと思いますよ。赤堀さんの事件は免田さんにくらべるとずっとあとの事件ですからね。

−つづく−

※再審無罪となっていない方の名前は一部伏字としておりますが、名前がよく知られていると思われる方については原文のままとしました。


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