タイトルのない夏 Trinity 両谷承
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電話が鳴った。シンジは目を覚まして、電話を探す。自分の部屋ではないことに気付くまでに、呼び鈴は五回ばかり鳴った。部屋の明かりを点けて、受話器を取る。ホテルのフロントの女の子が、カズに電話が入っていることを告げた。寝呆け声で、繋いでくれるように頼む。――このホテルに宿を取ってからもう三日になるが、電話なんか掛かってきたことはない。
「もしもし」
「もしもし。サイトウです」
「サイトウ、さん?」
少し、間が空いた。
「――ミキです」
「ああ。どうかしたの」
なぜここの連絡先が分かったんだろう。
「昼間、『スラム・ティルト』に電話したでしょ」
「うん」
ベッドの脇に置かれた時計を見る。午後八時半。ツーリングに出ると、なぜかやたらと早寝早起きになってしまう。
「マスターからそこの番号を教えてもらったの」
「なるほどね」まあ別に、あり得ないことではない。「なにか、用なの」
「そういうわけじゃ、ないんだけどさ。ねえ、シンジくん」
「なんだよ」
「どうして、そんなところにいるの」
「どうして、って」
バイク乗りがバイクで出かけるのが、この女の子には何か不思議なのだろうか。
「理由なんか、ないけど」
ミキは少しの間、黙った。シンジはまだ半分眠っている頭で、次の言葉を待つ。
「――ねえ」ミキらしくない、ためらったような口振り。「ねえ、あたしが原因じゃないよね」
なんの話をしてるんだろう。
「あんた、おれに逃げられなきゃいけないようなことしたの?」
「なに云ってんのよ」妙な深刻さが、少しだけやわらいだ。「寝惚けてんの」
「うん」
ミキは絶句した。とは言え事実だから仕方がない。ミキがなにを云いたいのかぐらいは分かってはいるのだが。
「ねえ、あたしのこと」
「うん」
「あたしのこと、どう思う?」
そんなことを云われても、返事に困る。
「どうって」
「好き?」
「ああ」
「キョウくんより?」
――そう云うことか。
「まさか」
「まさかって、何よ」
気に入らない返答を貰った、と云うよりどこか拍子抜けしたみたいな口振り。
「おれはあんたもキョウも好きだよ」
「そんな話じゃないでしょ」
「まあ、キョウと寝るんだったらあんたとの方がいいな」
「ふざけてんの」
「ふざけちゃいないよ」
ミキは黙ってしまった。眠い。
「じゃあさ、ユカリさんとわたしだったら?」
ミキの話し方はどこまでも明るい。どこかでプライドを押し潰しているのかもしれない、と少し思う。あまり考えたくないので頭の片隅に追いやってきたのだが、自分にはどこかしら周りの連中の自尊心に障る部分があるようだ。――不愉快になる。
「キョウくんがわたしのこと、手に入れたいんだって。知ってた?」
「知ってた」
正直に云う。意に介したふうでもなく、ミキは続ける。
「で、考えてみたんだ。わたしは誰が手に入れたいんだろ、って」
返事が出来ない。
「きみたちはみんな、素敵よ。静岡の彼なんかより、ずっとね。でも、八木沼慎二が、いちばんほしい」
「おれよかキョウの方がいいと思うぜ」
「そんなのは、きみが云っていいことじゃない」
静かで、はっきりした云い方。キョウが惚れる女だけある。
「おれは、あんたの手に入るかな」
きっと、これもシンジが云うべき言葉じゃないのだろう。それでも、シンジには分からない。誰かが欲しいという、そのことが。自分自身に対して、少し苛立たしかった。
ミキが笑った。聞き慣れた、軽やかで涼しい声で。
「まさか。って、これもおかしな云い方よね。――でも一応、失恋だよ」
「悪い」
「そんな謝り方はないんだよ」
ミキがまた、笑う。その笑い方は、確かに愛しい。キョウの無邪気な爆笑や、カズのシャイな冷笑と同じように。
「ま、いいや。おかしなものね、なんだか気分が軽くなった」ミキは本当にすっきりした、というふうに云った。「ねえ、明日は帰って来るんだよね」
「そのつもりだけど」
「みんな、待ってるから。じゃ、電話切るね。おやすみ」
「ああ」
受話器を置いて、ベッドに潜り込む。十五秒後には、シンジは熟睡していた。
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