タイトルのない夏 Trinity 両谷承
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客のいない店内に、電話のベルが響く。
「はい。『スラム・ティルト』です」
受話器を取って、カズは愛想よく云う。電話口の向こうで女の声。
「あの――あたし。いま、吉祥寺にきてるんだけど。逢えないかな、なんて」
トシコの声。勘弁してほしい。
「逢えないね。いま、バイト中だから」
「そこのお店、行っていいかな」
この店に電話を掛けてくるということは、カズがここでバイトをしているということを誰かに聞いたという事だ。たぶん、ユウコ辺りだろう。
「駄目だよ」
「どうしてさ。あたし――」
受話器を置いた。
「誰だよ」
退屈そうにカウンターのなかの椅子に腰掛けたマスターが訊く。十日ばかり続いたコーヒー・タイムのラッシュも嘘のように引いて、また『スラム・ティルト』はランチタイムだけ異常に流行る店に逆戻りしてしまった。もっともカズもマスターも、そのことでいくらかほっとしている部分があるけれど。
「トシコ」
「へえ。まだ、おまえらつきあってんのかよ」
「冗談じゃないよ。たまに、電話は掛かってくるけどさ。たいていは姐貴が出るから、いないふりしてる」
カズはカウンターに入って、カセット・テープをチャーリイ・クリスチャンに替えた。マスターがセブン・スターを一本、パッケージから抜き出す。
「でも、分かるだろうよ。あの子はおまえがほしくてたまんねえんだよ。おまえだって一時はまんざらでもなかったろうが」
「勘違いしてたんだよ。――ぼくがさ」
キョウやシンジより好きになることが出来るかもしれないと、カズはその頃思っていた。ひどい誤解だったのに気付くのには、三月ほどかかった。
「まあ、こういうことじゃ何がほんとで何が勘違いなんだかはっきりとはしないもんだけどな」マスターはぷかりと煙を吐いた。「どっちにしろ、気のある素振りをしてた男に急に逃げられちゃ、女は追ってくるぜ。そういうふうにできてる。男も女も、同じだけどよ」
「思い出すことでもあんの」
「そりゃま、だてに年喰っちゃいねえわさ。だから、おまえがうっとおしがるのも分かるんだけどな」
「お分かりいただけますか」
「ああ。でも、トシコちゃんの気持ちだって想像が付かないわけでもないだろ」
「分からないね」
カズはトシコみたいな風にシンジやキョウに愛されたいと思ったことはないし、そんなことが実現されると思ったこともない。――まあ公平な比較ではないのかもしれないけれど。
「すいませんねえ。なにぶん子供でして」
「おまえね。そういうことじゃない」
マスターは片眉を上げて、呆れたという感じで優しく微笑んだ。
「だってさ――あ、いらっしゃい」
開いた扉に、ミキの姿があった。軽く頭を下げながら笑顔で店に入ってきて、いつものどことなく優雅な仕草でストゥールに腰掛ける。
「今日は、一緒じゃないんだ」
口にしてから、駄洒落になっているのに気付いて自分で吹き出してしまった。このところミキは、昼夜係わらずキョウと連れ立って姿を見せることが多い。――シンジは、ここ一週間ばかり行方不明だが。
「え? ああ」
カズの云った意味は分かったようだけれど、ミキは言葉を受け流す。カズもそれ以上聴きだそうとは思わなかった。
「なんにする?」
「コーヒー。あったかいの」
「マンデリンしかないけど、いいかな」
マスターに目を遣る。紅茶は五種類もあるのに、ブレンド・コーヒーとかそういった代物はない。バーとしてはそういったスタイルもあるかもしれないけれど、喫茶店の経営方針としてはどこかまちがっているようにカズには思える。
マスターは平然とバック・バーから豆の入った缶を取った。ミキは片目を瞑ってみせた。その様子がなんとなく気に障る。
「キョウは、どうしてんの」
「今日って、あたし?」
「ぼくは、狩野恭司の事云ってんだけど」
やっと気付いたらしく、ミキは額に手を当てて機嫌よさそうに笑った。
「そうか。まぎらわしい通称だよね」
「まったくね。――マスター、ミキちゃんがコーヒーだって」
伝えるまでもない。電動ミルの音が聞こえてきた。
「なんか、車の調子を見にいくとか云ってたな」
「第三京浜?」
「そんなことを、云ってたかも」あまり関心はなさそうだ。「ねえ、シンジくんがどうしてるのか、分からないかな」
「行方不明のままだよ」
「そう。ユカリさんが、なんだか心配してるんだよね」
あの素敵なコール・ガールがひとのことを心配している姿を目に浮かべて、なんだか愉快になった。カウンターにカップを運び、マスターから受け取ったサイフォンの中身を注ぐ。「ハーレイがないんでしょ。いまごろ、北海道辺りを走ってんのかもしんないよ」
「周りの人間に何も知らせないで?」
「よく知らないけどさ。バイク乗りって、そういう人種みたいだよ」
利いたふうな云い方をする自分が、少し面映ゆい。
ミキは話題を打ち切って、コーヒーをすすった。――本当は、シンジのことを心配しているのは彼女自身ではないのか。
「ミキちゃんさ」
「なあに」
「キョウのこと、気に入った?」
「なによカズくん、どういう意味で云ってんの」
いまなら、言葉にしてしまえる。
「シンちゃんより、さ」
カズが云うと、ミキは黙ってしまった。コーヒー・カップを見つめている。会話は途切れてしまったが、カズは待っている。このままごまかしてしまうにはミキが誠実すぎることを、知っているからだ。
「みんな、素敵よ。あなたもね」
「静岡の彼より?」
茶化す気は、少しもなかった。ミキはその強い目でカズをまっすぐ見た。勇気をふるって、カズも見返す。いまはなによりも、強くありたかった。
「何が云いたいのかわかんないけど、そうよ。そう思うのが、いけないの」
「いけなくなんかないさ。でも、キョウの気持ちは分かってるよね」
ミキは唇をきゅっと結んで、カズをにらんだ。
「どうしろって、云うのよ」
「どうしろとも云ってないよ。ぼくがミキちゃんになにか云える筋合いじゃない」
ミキの表情がゆるんだ。
「カズくんって、あのふたりが大好きなんだね」
ミキの言葉が真っ正面から、カズの胸に突きささった。もちろん、ミキはカズが感じたような意味で云ったんじゃないだろう。でも、この綺麗な女の子は一番大事なところに最短距離で辿り着ける不思議な力を持っているらしい。
「決まってるじゃない」動揺は、ない。「ミキちゃんだって、そうでしょ」
眼差しだけで答えて、ミキはコーヒーを口に運んだ。
「ぼくが女の子だったら、ぼくたちは恋敵になってるかな」
「どうかな。きみのことが欲しくて、わたしはレズビアンになってるかも」
カズの言葉は冗談じゃなかった。ミキの言葉も、冗談じゃないかもしれない。
「でも、キョウはいまでも疑ってるよ。きみがほんとはシンちゃんのことが好きなんじゃないかって」
「否定はしないよ」
「そうだろうね」
ミキの気持ちは分かった。それが分かる自分が、カズは嫌いになった。ミキの強さを知っているからといって、何を求めてもいいということにはならない。
「――シンちゃんは、どうしてるんだろうね」
「きみにも連絡をよこさないんだよね」
「うん、元気ならいいのだけど」
ミキがカズに向けてウィンクした。カズも片目を瞑ってみせる。その時、ドアが開いた。
トシコが、入ってくる。
「いらっしゃいませ」
云ったのは、マスターだ。ストゥールからゆっくりと立ち上がる。一拍置いてカズもミキの傍らを離れて、同じ言葉を口にした。
トシコは何も云わずに、入り口近くに座った。カズはトシコにメニューを運ぶ。トシコはメニューを開いた。――傍目にも、そこに書かれた飲み物の名前に意識が届いていないのが分かる。マスターが、新しい煙草を銜えた。
「なんになさいますか」
静かに、冷静にカズは問い掛けてみる。トシコはメニューから顔を上げた。目鼻立ちの大造りな顔に緊張感をみなぎらせて、トシコが口を開く。
「アイスミルクティー」
その表情と言葉のギャップに、カズは思わず吹き出しそうになった。マスターを見ると、カズがオーダーを復唱するのも待たずに飲み物の準備を始めている。ミキがきょとんとしてトシコを見やり、見比べるようにカズに目を遣る。
ミキがカズにメニューを手渡す。受け取ってカウンターのなかに引っ込もうとするカズの背中に、トシコが声をかけた。
「どうして、あってくれないの」
無視する。マスターが出してくれた涼しげなアイス・ティーにミルクとガムシロップを添えて、トレイを手にカウンターにとって戻す。
「ねえ。答えてよ。黙ってないで」
恨めしげに見上げるトシコの視線をかわしながら、トレイの上に乗っけたものをカウンターに並べる。
「あたし、知ってるんだから。いつもユウコさんが出るけど、居留守使ってるんでしょ。ねえ、どうしてなのよ。あたしが何したっていうの」
「なにもしてねえよ」
口を開くのも面倒だ。
「だったら――」
「何もしてないってのが、どうしたって云うんだ」
声を荒げないよう、気をつける。
「どうだ、って」
背を向けて、トレイを戻しに店の奥へ向かう。ミキはカウンターの木目を見つめて顔を伏せているが、内心はらはらしているようだ。この先がどうなるか、カズには概ね見当がついている。
「ねえ、カズくん」
思ったとおり、涙声が追い掛けてきた。マスターがカズの顔を見ながら、トシコが座っている辺りに向けて顎をしゃくる。仕方なくトレイを置いて、カズはとってかえした。
「ねえ、あたしのどこがいけないのよ」
思ったとおり、トシコが大きな目を涙で一杯にして待っていた。そういうところだ、とは云ってはいけない。 「まあ、飲んでよ」
「ごまかさないでよ!」
トシコはべそべそと泣きだした。血管の中を冷たい水が流れて体温を下げてゆくような感触が身体のなかに走って、気持ちがすっ、と凍ってゆく。視界の隅に、どうしたものか落ち着かずにいるミキの姿が入った。
「泣くなよ」
「だってさ、だってさ、カズくん――」
しゃくりあげる。カズの腕を掴もうとする。
「黙れ」
右手を振り払う。掌が、加減なしでトシコの顎に当たった。トシコがストゥールから転げ落ちた。床にへたりこんで、カズを見上げる。涙は、止まっていた。所詮は生理現象なんだな、と頭の端っこで考える。
ミキが立ち上がった。
「カズくん」
「なんだい」
床に座ったままのトシコから目を離して、カズは振り向いた。ミキは口を一文字に結んでカズをにらみつける。何を云われるかと思ったが、ミキの言葉は続かない。どんなことを云いたいのかは、知っているが。
「ミキちゃんさ」笑顔を作る。「ぼくの気持ちが、分かるわけじゃないんでしょ」
黙ったままだ。目はそらさない。自分の内側がどうしようもなく冷えきってしまったのを、カズははっきりと感じている。表情を変えずに、付け加えた。
「きっと、こいつの気持ちも分かんないんだよ。違う?」
ミキは口を開かない。その眼に動揺を見て取って、カズは少し満足した。顔をそむけて、トシコのほうを向く。
「立ちなよ、トシコ」
トシコは黙って立ち上がった。脳震盪は起こしていないようだ。カウンターに置かれたトシコのハンドバッグを取って差し出す。
「アイス・ティーの分はぼくが払っておくから。今日は、帰りな」
トシコは涙をこらえるように口をへの字に曲げたまま、バッグを受け取った。カズはまたトシコに背を向ける。ミキは座って、カウンターを見つめていた。ドアが開いて、再び閉じる音が聞こえる。
「マスター」
「なんだ」
「阿部薫、流していいかな」
「カズ」マスターは顔を上げずに云う。「おまえはたった今、首になった」
「そうかい。――そうだよね」
「仕方ないだろ」マスターが不思議なくらい優しく、カズを見た。「いいから、座れよ。コーヒーはどうだ」
「ありがとう」
「ちゃんと、払うんだぞ。そっちのアイス・ティーもだ」
「すこし、やだな」
「いいから、落ち着いて座れ」
「落ち着いてるよ」
「おまえは、こんな状態が一番やばいんだ。自分でも知ってるだろう」
不服だが、しょうがない。のんびりと、ミキの隣に腰をおろす。ミキは顔を上げない。その、髪を刈り込んだ白いうなじを見下ろす。残酷な気分は、まだ身体の中から抜けていかない。
マスターがカズ用のマグカップにコーヒーを入れて、カウンター越しに手渡してくれた。そのまますすり込む。少しづつ体温が戻ってくるような感覚があった。
電話が鳴る。思わず受話器を取ろうとするカズを目でたしなめて、マスターがカウンターから出てきた。
「はい『スラム・ティルト』。――おお、シンジかよ。どうしたんだ、久しぶりじゃねえか」
ミキが顔を上げる。カズも思わず振り向いた。
「――ああ、浜松だあ? なんだってそんなとこに――なるほど、おまえらしいな。連絡先は? ああ、分かった。――明日か? だって、おまえのハーレイだろ。この渋滞真っ盛りの時分に東名使ったって、何時に着くんだか分かんねえぜ。――ああもう、好きにしろ。戻ってきたら、寄れや」
マスターが受話器を置いた。
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