歌枕紀行 蝦夷

―えぞ―
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北海道 釧路湿原

えぞ舟
家集、寄舟恋      源仲正

わが恋はあしかをねらふえぞ舟のよりみよらずみ波間をぞまつ [夫木抄]

「えぞ」という語が用いられた最初期の例。作者は源三位頼政の父、白河院の時代の人である。平安時代後期、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたが、蝦夷にまつわるさまざまな風聞が都人の耳にまで届いていたことが窺える。

前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に   前右大将頼朝

みちのくのいはで忍ぶはえぞしらぬかきつくしてよつぼのいしぶみ [新古今]

建久六年(1195)、上洛した源頼朝は慈円と意気投合、盛んに和歌の贈答をした。慈円が「手紙では意を尽くさない」旨書き送ってきたのに対し、そう言わずに思いの丈を書き尽くしてください、と返事した歌。「いはて」「しのぶ」「えぞ」「つぼのいしぶみ」と北方の名所をこれでもかと詠み込んでいる。「えぞしらぬ」は「理解しかねる」意で、「得ぞ」に「蝦夷」を掛けている。

詠蝦夷島歌四首并短歌

やすみしし 我が大君の 神のまに しきます国の 鳥がなく あづまの国の みちのくに すめる蝦夷(えみし)は むかしへの (ふみ)にしるして 三種(みくさ)ある それがなかにも にぎたへの にきえぞとふは 出羽(いでは)なる 秋田(あいた)小国(をぐに)に すまひつつ 服従(まつろ)ひたるぞ ふぢ衣 あらえぞとふは 沼代(ぬしろ)より やや道(さ)かり うとかりし えぞなりけらし とほえぞと いふははるけき 都賀留(つがる)ちふ をぐににありて ししじもの 木のねに(ふ)せり つち(ぐも)の 穴にも居つつ ちはやぶる ことをしなせば 許多(そこばく)の 御軍(みいくさ)たたし 許多(ここばく)の 守部(もりべ)を置かし 多賀の(き)や かみの(き)こえて あらえぞが ひらぼこ山に 御軍は (いば)雄誥(たけ)べど 遠えぞの かぎりをしらに みちをはり 岩ねさぐくみ もののふの ちぢの猛夫(たけを)の 駒のつめ つがるをぐにに (せ)まれれば まつろはましを 心(おそ)き えみしが(とも)は (うな)(へ)の 離れ小島に 舟のまに 漕ぎか隠れし そこもへば むかしへえぞと 聞えしは つがるぞとほき (きは)みにて 今いふえぞは その世には (むな)し島にも ありやしつらむ 真淵[賀茂翁集]

反歌

駒のつめつがるのをちのえぞが島そをさへなつく君がのりかも

津軽舟北ふく風にこころせよえぞが浦わは波たたずとも

いざ子どもこころあらなんみちのくの千島のえぞもやさしとぞきく

賀茂真淵が蝦夷島(北海道)を主題に詠んだ長歌四首のうち最初の一首と反歌三首。日本書紀の記述に基づき蝦夷を「遠蝦夷」「麁(あら)蝦夷」「熟(にぎ)蝦夷」の三種に分類し、このうち遠蝦夷が反抗したので皇軍が征伐に派遣された歴史を描き、「昔『えぞ』と言われたのは、津軽が最果てであって、今言う『えぞ』は、当時は無人島でもあったのだろうか」と結んでいる。「今いふえぞ」が北海道のことである。

事につき時にふれたる

とけてだに鯨さやれるえぞの海のこほれる冬をおもひこそやれ 香川景樹[桂園一枝拾遺]

流氷が漂い、鯨も行き悩む北の海を想像して詠んだ歌。

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©水垣 久 最終更新日:平成15-09-23
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