源頼朝 みなもとのよりとも 久安三〜正治一(1147-1199)

八幡太郎義家の曾孫。義朝の三男。母は熱田大宮司季範の娘。
平治元年(1159)、平治の乱に参戦するが敗れ、翌年捕えられて伊豆に流される。配流の地で北条政子を娶り、のち頼家・実朝をもうけた。治承四年(1180)、以仁王の令旨を受けて挙兵したが、再び敗走、安房に逃れる。三浦・千葉氏らの援助を得て、同年、鎌倉に入り、ここを東国政権の根拠地とする。元暦元年(1184)、弟義経らを大将として木曽義仲を討ち、さらに文治元年(1185)、壇の浦に平氏を滅ぼした。その後、後白河院に接近した義経の追捕を命じ、陸奥に逃れた義経の死後、自ら兵を率いて平泉の藤原泰衡を討滅した。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将となったが、まもなくこの職を辞し、二年後征夷大将軍に任ぜられて鎌倉幕府を開いた。
上洛の折、慈円と交わした贈答歌が『拾玉集』に多数収められている。新古今集初出。勅撰入集十首。

前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に

陸奥(みちのく)のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ(新古1786)

【通釈】陸奥の岩手・信夫(しのぶ)ではありませんが、言わずに我慢するのは理解しかねます。陸奥の果ての壺の碑まで踏破するように、どうぞ手紙で思いの丈を書き尽くしてください。

【語釈】◇いはでしのぶ 「言はで忍ぶ」に岩手・信夫(いずれも陸奥の歌枕)を掛ける。◇えぞしらぬ 理解しかねる。「えぞ」は「得ぞ」「蝦夷」の掛詞。◇壺の石ぶみ 青森県上北郡天間林村にかつてあった石碑かという。但し近世以降、天平宝字年間に建てられた多賀城碑のことと信じられた。「ふみ」は「踏み」「文」の掛詞。

【補記】慈円が「手紙では意を尽くさない」旨書き送ってきたのに対する返事。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日