後白河院 ごしらかわのいん 大治二〜建久三(1127-1192) 諱:雅仁 法諱:行真

鳥羽天皇第四皇子。母は待賢門院璋子(藤原公実女)。崇徳天皇の同母弟。覚性法親王の同母兄。近衛天皇の異母兄。守仁親王(二条天皇)守覚法親王・以仁王・式子内親王・憲仁親王(高倉天皇)らの父。
久寿二年(1155)、近衛天皇の崩御により二十九歳で即位。崇徳院と対立し、翌年の保元元年(1156)、鳥羽院が崩御すると、源義朝・平清盛らを用いて崇徳院方を破った(保元の乱)。同三年(1158)、守仁親王(二条天皇)に譲位し、その後五代三十四年にわたり院政を布くことになる。
平治元年(1159)、院側近の信西を打倒しようとする藤原信頼・源義朝らに御所を奇襲されたが、再び清盛の力により乱を抑えた(平治の乱)。翌年、初めての熊野御幸に発つ。以後、同地への参詣は三十四回を数える。長寛二年(1164)には清盛に命じて蓮華王院(三十三間堂)を建立させた。
永万元年(1165)、二条天皇は子の六条天皇に譲位し、一カ月後に崩御。仁安三年(1168)、後白河院は子の高倉天皇(母は平清盛のむすめ滋子)を即位させた。嘉応元年(1169)、出家して法皇となる。法名は行真。
平氏の専横が強まるにつれ、清盛との関係も悪化し、安元三年(1177)、清盛排除を画策した鹿ヶ谷の陰謀が発覚、院政を止められ鳥羽殿に幽閉された。治承四年(1180)、安徳天皇(母は清盛女、徳子)践祚の直後、以仁王が平氏追討の令旨を発すると、各地で源氏が蜂起、ついに平氏は都落ちへと追いやられることになる。この間、高倉上皇が崩じたため、院政を再開する。寿永二年(1183)、孫の尊成(たかひら)親王を皇位に就けた(後鳥羽天皇)。
寿永三年(1184)、源頼朝と手を組んで木曽義仲を討つ。翌年、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を発したが、結果的に頼朝の要求を受け入れ、義経ら追討の院宣とともに、守護・地頭の設置を承認することとなった。但し頼朝による征夷大将軍任命の要請は、死に至るまで拒み続けた。
今様を愛好し、雑謡とあわせて集大成した『梁塵秘抄』、および『梁塵秘抄口伝集』を撰述した。晩年には和歌にも関心を寄せ、小規模ではあるが歌会を催したり、歌書の収集を行なったりした。寿永二年(1183)、藤原俊成に命じて『千載和歌集』を撰進させた(完成は五年後の文治四年)。千載集初出。

位の御時、皇太后宮はじめてまゐり給へりける後朝(きぬぎぬ)につかはしける

よろづ代をちぎりそめつるしるしにはかつがつけふの暮ぞ久しき(千載797)

【通釈】昨晩、永久に離れまいと、初めて契りを交わしたね。そのしるしに、早くも今日の夕暮が待ち遠しくてならず、一日が永遠のように長く感じられるよ。

【語釈】◇位の御時 天皇の位に就かれていた時。◇皇太后宮 藤原忻子。公能の娘。久寿二年(1155)、後白河天皇に入内。◇後朝 一夜を共にした翌朝の別れ。◇かつがつ 時期がまだ至らないのに、早くも。「原義は、こらえこらえ」(岩波古語辞典)。◇暮ぞ久しき (再会できる)夕暮までの時間が永遠のように長い。初句の「万代」と結句の「久しき」が呼応している。

(うへ)(をのこ)ども、老後恋といへる心をつかうまつりけるによませ給うける

思ひきや年のつもるは忘られて恋に命の絶えんものとは(千載866)

【通釈】思ってもみなかった。年を積んだことは忘れてしまって、不相応な恋に死にそうになろうとは。

【語釈】◇上の男ども 殿上人(てんじょうびと)。内裏への昇殿を許された官人。

御なやみ重くならせ給ひて、雪の(あした)

露の命きえなましかばかくばかりふる白雪をながめましやは(新古1581)

【通釈】夜のうちに露のようにはかないこの命が消えてしまったなら、今朝このように美しく降る雪を眺めることができただろうか。

【語釈】◇御なやみ 御病悩。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日