藤原道綱母 ふじわらのみちつなのはは 生年未詳〜長徳元(?-995) 別称:傅殿母上

藤原北家長良流、伊勢守正四位下藤原倫寧(ともやす)の娘。母は藤原春道女か源認女と推測される。兄に理能(母は藤原春道女)、弟に長能(母は源認女)がいる。菅原孝標女は姪にあたる。
生年は承平六年(936)、同七年(937)とする説がある。天暦八年(954)、右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚。翌年、道綱を生む。康保四年(967)、実家の一条西洞院より兼家邸の隣に移るが、安和二年(969)、旧宅に戻る。天禄三年(972)、兼家の旧妻源兼忠女の娘を養女とする。天延元年(973)、床離れし、広幡中川に居を移す。日記の記述は翌年の天延二年までで、以後の生涯はほとんど明らかでない。貞元二年(977)、父を亡くす。長徳元年(995)、死去(『小右記』)。
半生の自叙伝ともいえる著書『蜻蛉日記』は名高い。歌人としても名を知られ、安和二年(969)の藤原師尹五十賀屏風歌、正暦四年(993)の東宮居貞親王帯刀陣歌合などに詠進。また寛和二年(986)の内裏歌合では道綱の代作をした。家集『傅大納言殿母上集』『道綱母集』がある(祖本は同一)。拾遺集初出。勅撰入集三十七首。中古三十六歌仙。なお『尊卑分脈』には「本朝第一美人三人内也」とある。

「蜻蛉日記」 角川文庫・岩波文庫など
「傅大納言殿母上集(道綱母集)」 桂宮本叢書9・私家集大成1・新編国歌大観3

『蜻蛉日記』から採った歌11首は、時代順に並べた。

 『蜻蛉日記』より 11首 家集より 2首 勅撰集より 2首 計15首

『蜻蛉日記』より

つごもりがたに、しきりて二夜ばかり見えぬほど、文ばかりある返りごとに

きえかへり露もまだひぬ袖のうへに今朝はしぐるる空もわりなし(蜻蛉日記)

【通釈】消え入るような思いで夜を過ごし、涙もまだ乾かない袖の上に、今朝は時雨を降らせるとは、空も遣る瀬ない。

【補記】藤原兼家との結婚が成立したのは天暦八年(954)秋、作者は十八、九歳、夫は二十六歳であった。新婚間もない九月末、兼家が二夜続けて来ないことがあり、手紙ばかりが送られて来たのに対し、返事とした歌である。晩秋の朝方から降り始めた時雨に言寄せて、泣き濡れた我が身の心細さを訴えている。兼家はすぐに返して「思ひやる心の空になりぬればけさはしぐると見ゆるなるらむ」、あなたを思いやる余り心は上の空なので、私の涙が時雨と降ってそちらにまで見えたのだろう、と弁解しつつ心遣いを見せている。

【他出】後拾遺集に入集。詞書は「入道摂政九月ばかりのことにや、よがれしてはべりけるつとめて、ふみおこせてはべりけるかへりにつかはしける」。

二三日(ふつかみか)ばかりありて、暁方に、門をたたく時あり。さなめりと思ふに、憂くて、あけさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。つとめて、直もあらじと思ひて

歎きつつ独りぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る(蜻蛉日記)

【通釈】嘆きながら独り寝て過ごした夜――そんな夜が明けるまでの時間は、どれほど長いものか、あなたは御存知でしょうか。

【語釈】◇歎きつつ 「なげく」は「長息」から来た語で(岩波古語辞典)、「長い息をする」「溜息をつく」が原義。「つつ」は継続反復の助詞。◇あくるま 夜が明けるまでの間。家の門を「開ける」意が掛かる。◇とかは知る …と知っているのだろうか。「かは」は疑問の助詞。

【補記】結婚した翌年の天暦九年(955)秋、作者は道綱を出産するが、その頃、兼家の文箱の中に他人あての手紙を発見したことから、嫉妬に身を焦がすこととなる。冬の或る晩、夫に尾行をつけさせ、「町の小路の女」のもとに通っていることを突き止めた。二三日後、暁に兼家が訪れるが、作者は門を開けず、夫は再び愛人の家へ行ってしまう。その翌朝、「直もあらじ(このまま黙っているわけにもゆくまい)」と、ことさら色褪せた菊の花に添えて夫のもとへ贈ったのがこの歌である。「あくる」に門を開ける意を響かせ、敢えて門前払いした辛い心情を分かってほしいと暗に訴えている。兼家の返しは「げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるはわびしかりけり」(大意:如何にも如何にも、冬の夜でなくとも戸をなかなか開けてもらえないのは侘しいことでしたよ)。なお拾遺集の詞書は「入道摂政まかりたりけるに、かどをおそくあけければ、たちわづらひぬといひいれて侍りければ」とあり、日記と異なり最後には兼家を迎え入れたことになっている。

【他出】拾遺集、拾遺抄、深窓秘抄、前十五番歌合、玄々集、大鏡、古来風躰抄、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首、女房三十六人歌合

【主な派生歌】
岩の上のたねにまかせてまつ程はいかに久しき物とかはしる(和泉式部)
まどろまであかすとおもへばみじか夜もいかにくるしき物とかはしる(〃)
うらみつつひとりぬる夜の秋風に身にしむものといかでしらせむ(藤原秀能)
秋の田の庵もるよはのあくるまはいかに露けき月とかはしる(弁内侍)
ね覚して松のとぼそのあくるまは花にひさしきをはつせの山(木下長嘯子)
高砂の尾上ならでも時鳥まつは久しき物とかはしる(後水尾院)
暮るるまのいかに久しき影ならん独ぬるよにあらぬ春日も(武者小路実陰)

子どもあまたありと聞く所にもむげに絶えぬと聞く。あはれ、ましていかばかりと思ひて、とぶらふ。九月ばかりのことなりけり。「あはれ」など、しげく書きて

ふく風につけてもとはむささがにのかよひし道は空にたゆとも(蜻蛉日記)

【通釈】吹く風にことよせて、お手紙を差し上げ、ご挨拶致しましょう。蜘蛛の通り道であった糸はその風によって空中で切れてしまうとしても。

【補記】天暦十年(956)秋。作者二十歳前後。「子どもあまたありと聞く所」とは、道隆・超子・詮子・道長らの母、時姫であろう。その家にも兼家の通いが絶えたと聞き、同情した作者は、時姫のもとへ歌を贈った。「ささがに」云々は下記本歌を踏まえた言い方で、蜘蛛とは暗に兼家を指している。時姫の返しは「色かはる心と見ればつけてとふ風もゆゆしと思ほゆるかも」、変わりやすい心ですから、「風につけて」などと言うのも不吉です、と婉曲に作者の同情を拒むかのようである。

【他出】新古今集、定家八代抄、女房三十六人歌合

【参考歌】衣通姫「古今集」墨滅歌
わがせこが来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも

寝待の月の、山のは出づるほどに、出でむとするけしきあり。さらでもありぬべき夜かなと思ふけしきや見えけむ、「とまりぬべきことあらば」などいへど、さしもおぼえねば

いかがせむ山のはにだにとどまらで心も空に出でむ月をば(蜻蛉日記)

【通釈】私にどう致せましょう。寝待の月のように、山の端にとどまりはせず、うわの空のご様子で出掛けてゆこうとする貴方を。

【補記】天徳元年(957)八月。寝待の月すなわち陰暦十九日の月が出た頃、兼家は帰ろうとする素振りを見せたが、ためらって「泊まるべき事情でもあれば」と言う。それに対し作者が歌で答えたのである。兼家は結局泊まって行った。

【他出】後拾遺集では詞書「入道摂政ものがたりなどして、ねまちの月のいづるほどにとまりぬべきことなどいひたらば、とまらむといひはべりければ、よみはべりける」。下句は「こころの空にいづる月をば」。また初句「いかにせん」とする本もある。

月夜のころ、よからぬ物語して、あはれなるさまのことども語らひてもありしころ思ひ出でられて、ものしければ、かくいはる

くもりよの月とわが身のゆくすゑのおぼつかなさはいづれまされり(蜻蛉日記)

【通釈】曇った夜空の月と、我が身の行末と、頼りなさはどちらがまさっているのでしょう。

【補記】康保元年(964)夏、家で兼家と愉快でない雑談をするうち、昔仲睦まじかった頃が思い出されて詠んだ歌。将来の不安を夫に訴えているが、作者は二十八歳前後、当時としては女の盛りも過ぎようとする年頃であろう。なお「いづれまされり」は極り文句で、「君こふる涙にぬるる我が袖と秋の紅葉といづれまされり」(源整)、「くやくやとまつ夕暮と今はとて帰るあしたといづれまされり」(元良親王)など、類想の歌は少なくない。

【他出】後拾遺集では詞書「月のおぼろなりけるよ、入道摂政まうできて、ものがたりしはべりけるに、たのもしげなきことなどいひはべりければよめる」、初二句「くもる夜の月とわが身の行末と」。

五六日ばかりになりぬるに、音もせず。例ならぬ程になりぬれば、あなものぐるほし、たはぶれごととこそ、われは思ひしか、はかなき仲なれば、かくてやむやうもありなむかしと思へば、心細うてながむる程に、出でし日使ひしゆするつきの水は、さながらありけり、上に塵ゐてあり、かくまでとあさましう、

たえぬるか影だにあらばとふべきを形見の水はみ草ゐにけり(蜻蛉日記)

など思ひし日も見えたり。例のごとにて、やみにけり。

【通釈】あの人との仲は絶えてしまったのだろうか。せめて水に面影だけでも見えれば、問いただすことができようものを、形見に残していった水には、もう水苔が生えて姿も映らない。

【補記】康保三年(966)八月、作者は兼家と言い争いをし、兼家は家を出てしまう。そのまま五六日訪れがなく、心細い思いでいると、兼家が出て行った日に使った「ゆするつき」(鬢をなでつけるための水を入れる容器)の水はそのままになっていた。

【他出】新古今集、定家八代抄、時代不同歌合、六華集、女房三十六人歌合
新古今集の詞書は「入道摂政ひさしくまうでこざりけるころ、びむかきて出でけるゆするつきの水いれながら侍りけるを見て」。

また、同じつごもりに、ある所に、同じやうにて詣でけり。(中略)また、(かみ)のに

いつしかもいつしかもとぞまちわたる森の木間(こま)より光みむまを(蜻蛉日記)

【通釈】いつかは、いつかはと待ち続けるのです。森の木の間から神のご威光を拝む時を。

【補記】兼家と喧嘩別れした翌月の康保三年九月、作者は気晴らしに稲荷詣に発つが、さらに月末には賀茂の下社・上社と参詣を繰り返す。この歌は、上社で願をかけた時のもの。「いつしかも」に賀茂を詠み込んでいる。続けて「木綿襷むすぼほれつつなげくこと絶えなば神のしるしと思はむ」と詠み、やはり願いは夫との関係に光明の射すことであった。しかしその後も独り寝の夜は続いた。

ここち弱くおぼゆるに、惜しからで悲しくおぼゆる夕暮に、例の所より帰るとて、蓮のえひともとを、人して入れたり。「暗くなりぬれば、参らぬなり。これ、かしこのなり。見給へ」となむいふ。返りごとには、ただ、「生きて生けらぬと聞えよ」といはせて、思ひ臥したれば、あはれ、げにいとをかしかなる所を、命も知らず、人の心も知らねば、「いつしか見せむ」とありしも、さもあらばも、止みなむかしと思ふも、あはれなり

花にさき実になりかはる世をすてて浮葉の露と我ぞけぬべき(蜻蛉日記)

など思ふまで、日を経て同じやうなれば、心細し。よからずはとのみ思ふ身なれば、つゆばかり惜しとにはあらぬを、ただ、この一人ある人をいかにせむとばかり思ひ続くるにぞ、涙せきあへぬ。

【通釈】花と咲き、やがて実になろうとする世を捨てて、水に浮く蓮の葉の露さながら私は消えてしまいそうだ。

【補記】安和二年(969)閏五月、作者三十三歳頃。気分がすぐれず、将来を悲観して過ごしていた夕暮、兼家が立ち寄り、人を使って蓮の枝を差し入れた。作者は床に臥し、我が命も、兼家との仲も、これきりになってしまうのかと思い巡らす。惜しい命ではないが、一人息子の道綱の将来を思えば、涙を止めることができない。

【他出】玉葉集に入集。詞書は「東三条入道摂政ほかより帰るとて、はすのみを一もと見よとておこせて侍りければ」。

五日、なほ雨止まで、つれづれと、「思はぬ山に」とかやいふやうに、物のおぼゆるままに、尽きせぬ物は涙なりけり

ふる雨のあしともおつる涙かなこまかに物を思ひくだけば(蜻蛉日記)

【通釈】雨脚のように絶えず流れ落ちる涙であるよ。くよくよと物を思っていると。

【補記】天禄二年(971)三月。作者三十五歳前後。詞書に「思はぬ山に」と言うのは、藤原朝忠の後撰集の歌「時しもあれ花の盛りにつらければ思はぬ山に入りやしなまし」を踏まえる。出家して山に入ることを思っては涙を止めることができない、と言うのである。

【他出】金葉集三奏本・詞花集に入集。

【主な派生歌】
はては又わがねをそへて笛の名のこまかに物を思ふ夜半かな(大内政弘)
袖のうへにふりこそまされはるの雨のこまかに物を思ひくだけば(三条西実隆)

九月のつごもり、いとあはれなる空のけしきなり。まして、きのふけふ、風いとさむく、時雨うちしつつ、いみじくものあはれにおぼえたり。遠山をながめやれば、金青(こんざう)を塗りたるとかやいふやうにて、あられ降るらしとも見えたり。「野のさま、いかにをかしからむ。見がてら、物に詣でばや」などいへば、前なる人、「げに、いかにめでたからむ。初瀬に、このたびは忍びたるやうにて、おぼしたてかし」などいへば、「去年(こぞ)も心見むとて、いみじげにて詣でたりしに、石山の仏の心を、まづ見果てて、春つかた、さも物せむ。そもそも、さまでやは、猶憂くて、命あらむ」など心細うていはる

袖ひつる時をだにこそなげきしか身さへ時雨のふりもゆくかな(蜻蛉日記)

すべて、世に経ること、かひなくあぢきなき心ち、いとするころなり。

【通釈】昔は袖を濡らしただけでも嘆いたものだが、今は袖のみか我が身そのものが時雨と降って――こうして年老いてゆくのだなあ。

【補記】天禄二年(971)九月晦日。時雨の降るあわれ深い日、作者は野の景色を見がてら物詣でをしたいと侍女に洩らす。侍女は初瀬詣を勧め、春が来たら、と計画をたてるが、それまで命があるだろうかと心細くなって、歌を詠んだ。時雨に断続的な激しい涙を暗示し、「ふり」に「古り」を掛けている。

【他出】続古今集に入集。初句「袖ぬれし」。

ひんがしざまにうち見やりたれば、山霞み渡りて、いとほのかに、心すごし。柱に寄り立ちて、思はぬ山なく思ひ立てれば、八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよにこぼるる。さて、

もろごゑになくべきものを鶯はむつきともまだしらずやあるらむ(蜻蛉日記)

【通釈】声を合わせて泣きたいのに、鶯は正月だとまだ知らずにいるのだろうか。

【補記】天延二年(974)正月、賀茂参詣の折。比叡山の方を眺めるうち、前年秋に床離れされ、通いが絶えた兼家を思い、作者の涙は堰を切る。作者三十八歳頃。日記の記事はこの年十二月で絶える。

【他出】玉葉集に入集。詞書は「む月の十日あまり、霞わたれる山の方を見いだして、秋よりたえにし人のはかなくて、春にもなりぬかしと思ひつづけて」。

家集より

絵のところに、山里にながめたる女あり、ほととぎすなくに

都人ねで待つらめやほととぎす今ぞ山べをなきてすぐなる(道綱母集)

【通釈】都の人は寝ずに待っているのだろうか。時鳥は、今まさに山辺を啼きながら過ぎてゆくようだ。

【補記】寛和二年(986)六月十日の花山天皇主催内裏歌合に「少将道綱」の作として出ている。大中臣能宣・曾禰好忠・藤原実方・藤原公任ら当代著名歌人が顔を揃えた歌合であった。作者が息子道綱のために代作したものと思われるが、家集の詞書からすると屏風歌であり、あるいは息子が母の屏風歌を歌合の歌に転用したものか。拾遺集では詞書「寛和二年内裏歌合に」、第四・五句「今ぞ山べになきていづなる」としている。

【他出】拾遺集、拾遺抄、玄々集、新撰朗詠集

ほたる

さみだれやこぐらき宿の夕ざれを(おも)てるまでもてらす蛍か(道綱母集)

【通釈】五月雨が降って木暗い家の夕暮時、眺める人々の顔も照るほどに光を発する蛍よ。

【補記】正暦四年(993)、東宮居貞親王帯刀陣歌合のために用意された歌の一。この歌は結局採用されなかった。

勅撰集より

五月五日、ちひさき飾粽(かざりちまき)を山菅の籠(こ)に入れて、為雅の朝臣のむすめに心ざすとて

心ざしふかきみぎはにかる菰は千とせの五月いつかわすれん(拾遺1172)

【通釈】心を深く込めて、水の深い汀に刈る菰(こも)――このことは、永遠に巡ってくる五月五日という日、いつ忘れることがあろうか。

【語釈】◇為雅 作者の同母姉の夫。◇ふかき 「心ざし」「みぎは」両方に掛かる。◇千とせの五月いつか 千年でも毎年巡ってくる五月五日。「いつか」に何時かの意を掛ける。

【補記】五月の節句、姪のために飾粽を贈った時の歌。菰を詠んだのは、粽の餅を巻くのに使ったからである。叔母としていつまでも成長を見守りたいとの厚情を籠めている。

題しらず

思ひつつ恋ひつつはねじあふとみる夢はさめてはわびしかりけり(玉葉1592)

【通釈】思いながら、恋い慕いながら寝ることはすまい。恋人に逢う夢から覚めるのは切ないことだよ。

【補記】正暦四年(993)五月五日の三条院帯刀陣歌合にも同じ歌が見え、同歌合に出席した某のために道綱母が代作したものであろう。家集では第四・五句「夢をさめてはくやしかりけり」。

【本歌】小野小町「古今集」
思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを


更新日:平成16年07月04日
最終更新日:平成18年10月06日