二条為冬 にじょうためふゆ 生年未詳〜建武二(1335)

生年は一説に乾元二年(1303)。為世の末子。為通二条為藤贈従三位為子の弟。子に従二位権中納言為重(新後拾遺集撰者)・為胤がいる。御子左家系図
左近衛中将、正四位下に至る。没後、贈従三位。尊良親王の「股肱の臣下」(太平記)。南朝に仕え、建武二年(1335)十月、尊良親王を奉じて足利尊氏追討の軍に従い、同年十二月、箱根竹の下で戦死。
正和四年(1315)の為世主催花十首寄書、元亨三年(1323)の後宇多院仙洞御所で催された亀山殿七百首などに出詠。続後拾遺集の撰半ばで為藤が逝去すると、父為世は為冬を撰者にしようとしたが、為定の反対により実現しなかったという(増鏡)。続後拾遺集初出。新後拾遺集には十三首入集。勅撰入集は計二十首。『為冬卿集』の名で伝わる歌集は為冬の家集でなく、室町初期成立と推定される私撰集である。

春の歌あまたよみ侍りける中に

梢をばさそひもあかず梅が香のうつる袖まで春かぜぞ吹く(新後拾遺44)

【通釈】梢に吹きつけて梅の花を散らすことに飽き足らず、その香を我が袖に移すまで春風が吹くことだよ。

【補記】「さそふ」は風が桜の花を散らす様を「誘って」いるかに見立てた言い方。花を散らすことは勿論恨めしいのだが、袖に移り香を残してくれるほど強く吹くと、アイロニカルな表現をしている。

元亨三年亀山殿にて、雨後落葉といふ事をつかうまつりける

むら時雨はれつる跡の山風に露よりもろき峰の紅葉ば(新千載612)

【通釈】一団の時雨があがった後、吹き過ぎる山風――それによって露よりも脆く散る、峯のもみじ葉よ。

【補記】元亨三年(1323)、後宇多院仙洞御所で催された亀山殿七百首。


最終更新日:平成15年05月10日