平忠盛 たいらのただもり 永長元〜仁平三(1096-1153)

平正盛の嫡子。清盛・教盛・頼盛・忠度らの父。
白河院に北面武士として仕え、院昇殿を許される。左衛門少尉から検非違使となり、天永四年(1113)、十八歳にして従五位下に叙される。以後伯耆守を始め地方国守を歴任し、受領として得た富を院の造寺事業などに注ぎ込んではその見返りとして重任・遷任を繰り返し、巨富を成した。大治四年(1129)には備前守として山陽・南海道の海賊追捕に功を挙げる。白河院崩後も鳥羽院の寵を受け、北面・院別当を勤める。大治五年(1130)、正四位下。長承元年(1132)には武人として初めて内昇殿を許された。保延元年(1135)、再び海賊追討使に任ぜられ、西海道の海賊を抑えて西国に平氏勢力の基礎を築いた。また白河院領肥前神崎荘司となり、日宋貿易にも関係した。正四位上刑部卿に至るが、公卿を目前に仁平三年(1153)正月、逝去。五十八歳。「富累百万、奴僕満国、武威軼人」と言われた(『台記』)。
和歌を好み、多くの歌会・歌合に参加。「久安百首」の作者に加わる。家集『平忠盛集』がある。詞花集初出。勅撰入集十七首。

備前守にてくだりける時、むしあけといふ所のふるき寺の柱に書つけ侍りける

むしあけの瀬戸のあけぼの見るをりぞ都のことも忘られにける(玉葉1217)

【通釈】虫明の瀬戸の曙を見る時には、都が恋しいということも自然と忘れてしまうのだなあ。

【語釈】◇むしあけ 虫明。備前国の歌枕。いまの岡山県邑久郡邑久町虫明。むしあけの迫門(瀬戸)は、瀬戸内海を航行する船舶の停泊地であった。

月のあかかりけるころ、明石にまかりて月を見てのぼりたりけるに、都の人々月はいかにとたづねければよめる

有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか(金葉216)

【通釈】有明の月も明石ではあかるくてね、夜とも見えず、ただ浦吹く風に波が「寄る」と見えるばかりだったよ。

【語釈】◇有明の月 ふつう、陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。◇あかし 「明石」「明かし」の掛詞。◇よる 「夜」「寄る」の掛詞。◇見えしか 「しか」は過去回想の助動詞「き」係助詞「こそ」との係り結びによって已然形をとったもの。

【補記】『平家物語』にも取り上げられて名高い歌。「或時忠盛、備前国より上られたりけるに、鳥羽院、『明石の浦は如何に』と仰せられければ、忠盛畏まつて」この歌を詠んだところ、院は大いに感じ入ってこの歌を金葉集に入れた――という話になっている(巻一「鱸」)。

遍照寺にて、月を見て

すだきけむ昔の人は影たえて宿もるものは有明の月(新古1552)

【通釈】昔ここに集まった人たちの姿は、今やすっかり見えなくなった――ただ有明の月の光が漏れ入って、淋しい堂内を照らし、ひっそりと寺の番をしている。

【語釈】◇遍照寺 京都市右京区、北嵯峨、広沢の池のほとりにあった寺。月の名所とされ、月見堂があった。◇宿もる 「宿」は遍照寺をさす。「もる」は漏る・守るの掛詞。

【本歌】恵慶「後拾遺集」
すだきけん昔の人もなきやどにただ影するは秋の夜の月
【類想歌】源頼政「源三位集」
いにしへの人はみぎはに影たえて月のみすめる広沢の池

臨時祭の舞人にて八幡へ参りて侍りけるに、はばかる事ありて御前へは参らで馬場(むまば)にたちて侍りけるが、尊げなる僧の侍りけるにかたらひつきて殿上のぞみ申しける祈り申しつけて侍りけるに、程なくゆるされにけれ、かの僧のもとへよろこび申しつかはすとて

うれしともなかなかなればいはし水神ぞしるらん思ふ心は(玉葉2768)

【通釈】嬉しいなどと申すのも中途半端なようなので、申し上げまい。石清水の神は、言葉に言わずとも心の内を分かってくださるだろう。

【語釈】◇八幡 石清水八幡宮。◇殿上のぞみ 内裏への昇殿を望み。忠盛が昇殿を許され殿上人となったのは長承元年(1132)。◇いはし水 石清水に「言はじ」を掛ける。

新院の殿上にて、海路の月といふことをよめる

ゆく人もあまのとわたる心ちして雲の波路に月を見るかな(詞花297)

【通釈】海路をゆく人は、まるで自分も天界の水路を渡っている心地を抱いて、雲の波がたつ航路に月を眺めるのだなあ。

【語釈】◇新院 崇徳天皇の譲位後の通称。◇あまのと 天の門。天界にあると考えられた船の通り路。◇波路 船路・航路。「雲の波路」とは、巻積雲(いわゆる鰯雲・鱗雲の類い)または高積雲(いわゆる羊雲・叢雲の類い)を、海に立つ波になぞらえ、月が渡ってゆく通り道を船の航路に喩えて言ったもの。

【補記】海上をゆく船から天上をゆく月を眺める、という趣向。叢雲の波を分けてゆくような月を船になぞらえ、それを眺めている船上の自分も、天を渡って行くような心地になる、とした。

播磨守に侍りけるとき、三月ばかりに、舟よりのぼり侍りけるに、津の国に山路といふところに、参議為通朝臣、塩湯浴みて侍る、と聞きてつかはしける

ながゐすな都の花も咲きぬらん我もなにゆゑいそぐ舟出ぞ(詞花275)

【通釈】温泉がいくら気持よくても、あまり長居してはいけませんよ。都の花も咲いたでしょう。私もこれから都へ向かい出発しますが、なにゆえ急ぐ船出だとお思いですか。

【語釈】◇播磨守 忠盛は久安元年(1145)四月より仁平元年(1151)二月まで在任した。◇山路(やまぢ) 不詳。摂津国兔原郡に山路荘の荘園名が検出されるという(岩波新大系本)。◇参議為通 太政大臣藤原伊通の子。仁平四年(1154)薨。◇塩湯(しほゆ)浴み 塩分の濃い温泉、または海水を煮た湯を浴びること。◇ながゐ 摂津国の地名「長居」を掛ける。古今集の壬生忠岑の歌「すみよしと海人は告ぐとも長居すな人忘れ草生ふといふなり」を踏まえる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成18年07月20日