聖徳太子 しょうとくたいし 敏達三〜推古三十(574〜622) 諱:厩戸皇子

用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇女(欽明天皇と蘇我小姉君の子)。両親とも蘇我稲目の血をひき、馬子は大伯父にあたる。子は山背大兄王をはじめ九男六女が知られる。
用明二年(587)、蘇我馬子・泊瀬部皇子らの物部守屋討伐軍に参加。推古一年(593)、推古天皇の皇太子となり、摂政に就く。同九年(601)、斑鳩宮を建てる。十一年(603)、秦造河勝に仏像を与え、蜂岡寺(今の広隆寺)を建立させる。同年、冠位十二階を制定。十二年、十七条憲法を制定。十三年、斑鳩宮に移る。十四年、勝鬘経・法華経を講読。十五年、斑鳩寺(法隆寺)建立。この年、馬子のむすめ刀自古郎女らを娶る。二十八年(620)、蘇我馬子と共に「天皇記・国記」などを記す。崩御の年月日は諸伝あり、紀では推古二十九年二月五日、天寿国繍帳では三十年二月二十二日、法隆寺金堂釈迦像銘では同年一月二十二日。また『聖徳太子伝暦』には、二十九年二月、斑鳩宮で死を予知した(または自殺を決意した、とも取れる)太子が膳妃(菩岐々美郎女)と共に遷化したとある。前年末崩じた母間人皇女と膳妃と共に、河内国の叡福寺磯長陵に合葬された。

日本書紀・万葉集などに、聖徳太子が行き倒れの旅人を見て悲しんだという歌が伝わる。以下は日本書紀からの引用である。

 

しなてる 片岡山に (いひ)()て (こや)せる その旅人(たひと)あはれ 親無しに (なれ)()りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ

【通釈】片岡山で、食い物がなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。親もなくて生まれたはずがあろうか。ご主人様はいないのか。食い物もなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。

【語釈】◇しなてる 「片」にかかる枕詞。掛かり方未詳。◇片岡山 奈良県北葛城郡王寺町あたりの丘陵。◇臥(こや)せる 倒れ臥しておられる。「こやす」は動詞「こゆ」の尊敬語(敬意というより親愛の情をあらわす場合もある)。◇生(な)りけめや 生れたのだろうか、いやそんなはずはない。「けめや」は過去推量の助動詞「けむ」の已然形に反語の助詞「や」が付いたもの。◇さす竹の 「君」にかかる枕詞。「勢いよく伸びる竹の(ような)」の意で、主君や宮殿などを誉め讃えることから枕詞として用いられたという。

【参考歌】万葉集巻三「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首」
家にあらば妹が手纒かむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ

【他出】拾遺集、俊頼髄脳、袋草紙、和歌初学抄、袖中抄、古来風躰抄、沙石集、野守鏡、歌枕名寄、井蛙抄
(拾遺集などには次のように短歌の形で載る。
しなてるや片岡山にいひにうゑてふせる旅人あはれ親なし)

【補記】日本書紀巻二十二。推古天皇二十一年の十二月、皇太子厩戸皇子が片岡に行った時、道のほとりに痩せ衰えた男が倒れていた。姓名を問うても、答えない。皇子は男に食べ物を与え、上衣を脱いでかぶせてやり、「安らかに寝ておれ」と言った。そこで上の歌をよんだという。翌日、皇子は使者をやって男の様子を見に行かせた。使者が戻って来て言うことには、「すでに死んでおりました」。皇子は大いに悲しみ、男をその場に埋葬するよう命じた。墓を封じて数日後、皇子は近習の者を召して、「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない」と言って、使者をやって見させた。使者は戻って来て、「墓に着いて見ましたところ、埋め固めた場所はそのままでした。ところが棺を開けてみましたところ、しかばねは無くなっておりました。ただ御衣(みけし)ばかりが畳んで棺の上に置いてありました」と告げた。皇子は再び使者をやって、その上衣を持って来させると、何もなかったようにまた身につけたのである。世間の人々はこれをたいへん神妙に感じ、「ひじりはひじりを知るというが、本当だったのか」と言って、ますます皇子を畏敬したという。
 のち、この餓え人は達磨の化身とされ、片岡の地に達磨寺が建立された。
 なお拾遺和歌集には、「飢ゑ人のかしらをもたげて御かへしを奉る」として次の歌を載せている。
  いかるがやとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ

【主な派生歌】
桜ゆゑ片岡山にふせる身も思ひしとけばあはれ親なし(鴨長明)
しなてるや片岡山に鳴くきぎす片恋ならしなれも妻なし(熊谷直好)
今も世にいまされざらむ齢にもあらざるものをあはれ親なし(*橘曙覧)
ふるさとの花をも見ずてはるかなる旅にさまよふこの旅人あはれ(久坂玄瑞)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年12月17日