推古天皇 すいこてんのう 欽明一四〜推古三六(554〜626) 諱:額田部皇女

欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目のむすめ堅塩媛(きたしひめ)。用明天皇は同母兄。子は菟道貝蛸皇女(聖徳太子の妃)・竹田皇子ほか。
欽明三十二年(571)、異母兄敏達天皇の妃となる。敏達四年(575)、大后広姫が薨じ、翌年三月、大后となる。敏達十四年(585)、天皇崩御。皇位は兄の用明天皇・異母弟の崇峻天皇と引き継がれるが、いずれも短命に終り、崇峻五年(592)十二月、豊浦宮に即位(39歳)。翌年四月、甥の厩戸皇子(20歳)を皇太子・摂政とする。推古二年(594)二月、仏教興隆の詔。八年(600)、新羅と任那の間に戦争が勃発し、任那救援を計画。十年(602)三月、来目皇子(厩戸皇子の同母弟)を征新羅将軍に任ずる。しかし翌年来目皇子は筑紫で病死し、新羅征討計画は挫折した。十一年(603)十月、小墾田宮に遷都。十五年(607)七月、第二次遣隋使に小野妹子らを派遣する。三十年(622)、聖徳太子が崩御。三十二年(624)、僧綱制度を制定する。三十四年(626)、長年協調関係にあった蘇我馬子が薨去。三十六年(628)三月、田村皇子(のちの舒明天皇)・山背大兄皇子に後事を託す詔を遺し、崩御。七十五歳。早世した息子竹田皇子の大野岡上陵に合葬され、のち科長大陵(比定地は不詳)に改装された。

以下は日本書紀巻二十二に推古天皇が蘇我馬子の歌に和したものと伝える歌である。

天皇(こた)へ歌よみし給ひしく

真蘇我(まそが)よ 蘇我(そが)の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀(たち)ならば (くれ)真刀(まさひ) (うべ)しかも 蘇我(そが)の子らを 大君の 使はすらしき

【通釈】大蘇我の人よ! 蘇我のお前さんたら、馬で言えば、日向産の名馬だわ。太刀で言えば、呉(くれ)産の名刀だわ。ほんとにそうだわよ。だから蘇我のお前さんを、大王様の私がお使いになるのも、きっと当然なのだわ。

【語釈】◇真蘇我 この「真」は一種の美称。それを付した語を誉め讃える。

【補記】日本書紀巻二十二。推古二十年(612)正月、天皇は小治田宮で大宴会を催し、この時蘇我馬子は宮殿を誉め讃える歌を献上した。これに和した天皇の歌であるという。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月02日