長屋王 ながやのおおきみ 天武五〜神亀六(676-729) 略伝

生年は天武十三年(684)とも言う(公卿補任)。高市皇子の長男。母は御名部皇女。吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の子)を正室とする。子には膳夫王安宿王・黄文王・円方女王賀茂女王ほかがいる。
大宝四年(704)、正四位上に初叙される。その後、宮内卿・式部卿などを歴任し、霊亀二年(716)、正三位に昇る。養老二年(718)、大納言に任ぜられる。同四年八月、右大臣不比等が薨じると、翌年正月、従二位に昇叙され右大臣に就任して台閣の首班となる。同七年には自邸に佐保楼を建設し、以後ここで華やかな詩宴をたびたび開催した。神亀元年(724)に聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇る。
神亀五年(728)、基皇太子が薨去すると、藤原氏は光明子の立后を画策。長屋王はこれに反対したためか、聖武天皇・藤原氏との対立を深め、翌年二月、訊問の末自尽に追い込まれた。享年五十四(または四十六)。妻吉備内親王、内親王所生の男子膳夫王ら四王も自死に至らしめられた。屍は生駒山に葬られた。
万葉集に五首の歌を残す。なお万葉巻一・二の原型は、白鳳期の皇親政治を理想とする長屋王が企画し、王のサロンに集った文人(佐為王・紀清人ら)が編集したとする説がある(高野正美)。

大行天皇の吉野宮に(みゆき)せる時の歌

宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(万1-75)

【通釈】宇治間(うぢま)山――この山の朝風は寒い。私は旅先にあって、衣を貸してくれるはずの親しい女(ひと)もいないのに。

【補記】「大行天皇」は文武天皇。大宝元年(701)二月の吉野行幸の際の歌であろう。一つ前の歌は「み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我が独り寝む」(左注に或云天皇御製歌)で、やはり風の寒さを詠んでいる。「宇治間山」(原文通り)は吉野宮近くの山という以外不詳。一説に吉野町千股の山かという。

【主な派生歌】
うぢま山けさこえゆけば旅人の衣手さむし雪はふりつつ(能円[続千載])
うぢま山なほ春さむき朝風にかさねてこほる去年のしら雪(中臣祐臣)
春もなほあさ風さむみうぢま山霞の衣かりぞなくなる(師兼[新葉])
いく里もおなじながめのうぢま山朝かぜさむし雪の川なみ(正徹)
花の香の別をしるもうぢま山衣はかへし袖のあさかぜ(正広)

長屋王の故郷の歌一首

我が背子が古家(ふるへ)の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて(万3-268)

【通釈】親しい友よ、あなたがかつて住んだ古家のある明日香の里には、千鳥が鳴いているよ。連れ合いが待ち遠しくてならずに。

【補記】「我が背子」は親しい同性の友人。「古家」は、かつて住み馴れ、今は住まなくなった家。藤原京に遷都した後の歌であると分かる。持統八年(694)の藤原遷都の時、長屋王は十九歳。

長屋王、馬を寧楽(なら)山に駐めて作れる歌二首

佐保過ぎて奈良の手向(たむけ)に置く(ぬさ)は妹を目離(めか)れず相見しめとそ(万3-300)

【通釈】佐保を通り過ぎて、奈良山の手向に置いてゆく供え物は、愛しい妻に絶えず逢わせてほしいとの願い故なのだ。

【語釈】◇佐保 奈良市法蓮町・法華町一帯。◇手向 奈良山の峠を越える際、旅の安全を祈って道祖神を祭る場所。◇幣 神への捧げ物。旅に出るとき、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前でまき散らした。

 

岩が根のこごしく山を越えかねて()には泣くとも色に出でめやも(万3-301)

【通釈】岩がごつごつと根を張っている山を越えるのが辛さに、声挙げて泣くとしても、妻への思いを顔色に出したりするだろうか、そんなことはすまい。

長屋王の歌一首

うまさけ三輪の(やしろ)の山照らす秋の黄葉(もみち)の散らまく惜しも(万8-1517)

【通釈】神が降臨する三輪山を照らすように紅葉している木々――その葉の散るのが惜しいことよ。

【語釈】◇うまさけ 三輪の枕詞。原文は「味酒」で、美味い酒(神酒)の意か。◇三輪の社の山 「社」は神の降臨する場所。

【補記】秋雑歌。


最終更新日:平成15年05月20日