正広 しょうこう 応永十九〜明応三(1412-1494)

近江源氏佐々木氏の一族、松下氏の出。正晃・正晄とも。別号晴雲。
初め東福寺に所属したらしい。十三歳の時、正徹に入門し、以後、師の没する長禄三年(1459)まで親しく仕え、教えを受けた。正徹没後、招月庵を継承し、師の遺草を集めて『草根集』を編纂する。応仁の乱のため都を離れ、奈良・関東・北陸等を放浪したが、その間も各地の歌会・歌合に招かれ、判者を務めるなどした。将軍足利義尚に和歌を指導したこともある。最晩年まで創作力は衰えなかったが、明応二年〜三年頃、亡くなったと推測される。代表作「小簾のとにひとりや月の更けぬらん日比の袖の涙たづねて」に因み、「日比(ひごろ)の正広」の通称があった。
康正三年(1457)九月の招月庵一門とその歌友が集まった「武家歌合」、文明十四年(1482)六月の将軍足利義尚開催の「将軍家歌合」などに参加。家集『松下集』があり、文明六、七年頃の詠を集めた『正広詠歌』、文明五年(1473)駿河に下った際の紀行『正広日記』等もある。一条兼良・宗長・飛鳥井雅親(栄雅)・今川範政など、公家・武家・地下を問わず幅広い交友を持った。門弟に桂厚・正韵がいる。

「正広詠歌」私家集大成6
「松下集」私家集大成6、新編国歌大観8
「正廣三百六十番自歌合」続群書類従415(第15輯上)
「正広日記」群書類従336(第18輯)

  2首  3首  1首  3首  2首  3首 計14首

初春

天の戸をあくればやがて日の光神代のままの春やたつらん(正広詠歌)

【通釈】天の戸を開ければ、そのまま朝日が射して、神代のままの春になるだろう。

【語釈】◇天(あま)の戸 天界の入口の門。「天の戸をあく」とは、夜が明けることの神話的表現。記紀神話に天孫が天の戸を開いて高千穂の峰に降臨した旨ある。◇神代のままの 次句の「春」に掛かるのは言うまでもないが、前句「日の光」をも承け、「日の光が神代のままの」の意にもなる。

【補記】文明六年(1474)頃の詠。正広の立春歌には「明けにけり光をうけて唐(もろこし)もけふ日の本の春や立つらん」「わたつ海の浪まを分けて出づる日に神代の春や帰りきぬらん」など、調子の高い、大柄な佳詠が少なくない。

【参考歌】守覚法親王「御室五十首」
天の戸のあくればやがてくる春は鳥の音よりぞ聞きはじめける

花匂

花にふく山風よりも夕月夜ひかりにとほく行くにほひかな(松下集)

【通釈】この夕べ、吹きつける山風よりも、月の光によって遠くまで届く花の匂いであるよ。

【補記】夕月に照らされた桜の、ほのぼのと匂い立つような美しさを「にほひ」と言っている。『三百六十番自歌合』、春秋三十五番左。

【参考歌】良暹「詞花集」
さ月闇はなたちばなにふく風はたが里までかにほひゆくらん

更衣

今朝みれば天つ乙女のあまくだる袂かうすき蝉のは衣(松下集)

【通釈】今朝大路を見れば、天女が天降ったのかと見える、行き交う女たちの袂――その薄い蝉の羽衣よ。

【補記】第四句は「袂か。うすき」と切れ、いわゆる「句割れ」を起こしている。官女たちが衣更えした朝の都の景を詠む、王朝時代憧憬の一首。制作年は未詳。

【参考歌】九条道家「続古今集」
春のきる霞や空にかさぬらん天つ乙女のあまのはごろも

余花風

いづくにか花はのがれん夏きても風の使の青葉ふく声(松下集)

【通釈】一体どこに花は逃れ得ようか。夏がやって来ても、風の使いの青葉を吹き鳴らす声がする。

【補記】立夏の後まで咲き残った花に風の使いが迫る。「風の使」は、花や葉を運ぶことから風を使者に擬えたもの。正広の好んだ語で、『松下集』に六例見える。同題の歌に「あらく吹く風の使も夏山によきかくれがと憑む花かな」。

新樹風

花ちらす昔はむかし今はいましたしくなりぬ木々の下風(松下集)

【通釈】花を散らした過去は過去、今は今。すっかり馴染みになってしまったよ、新緑の木々の下を吹いて渡る夏の風と。

【補記】春には恨めしくも花を散らした風が、夏には新緑の木々の下を吹いて爽やかな涼しさをもたらす。

【参考歌】盛明親王「拾遺集」
花散るといとひしものを夏衣たつやおそきと風を待つかな

深山見月

さびしさの限りを月にみ山風それもしづまる嶺のかり庵(松下集)

【通釈】寂しさの極限を月に見た、深山の風の中で――その風も静まって、いっそうの静寂に包まれた、峰の仮庵よ。

【補記】「み山」には「見」「深山」を言い掛けている。「それ」は「み山風」を指す。『三百六十番自歌合』、春秋百十八番右。

【参考歌】慈円「拾玉集」
さびしさのかぎりは雪にふりとめつ竜田の里のしかの通ひ路
  冷泉為尹「為尹千首」
さびしさのかぎりなりけり杣山のこやさす月の有明の空

河冬月

雲ゐよりひとつに落ちてみなの川月は氷のちる嵐かな(松下集)

【通釈】雲の上の頂きから水流を一つに集めて落ちるみなの川よ――きらめく川面の月光は、嵐が氷のかけらを散らしているのか。

【語釈】◇みなの川 筑波山に発し、山麓を流れて桜川に合流し、霞ヶ浦に注ぐ川。この歌では滾り落ちる激流として詠んでいる。なお「男女川」と書くのは後世の宛字。

【補記】『三百六十番自歌合』、夏冬九十九番右。文明七年(1475)の『正広詠歌』には題「川辺氷」とする。『松下集』にも「川辺氷」の題で小異歌が見える。「雲間よりひとつに落ちてみなの河月は氷をしく嵐かな」。

【本歌】陽成院「後撰集」「百人一首」
つくばねの峰よりおつるみなの川恋ぞつもりて淵となりける

早梅開

消えずとも皆淡雪ぞ天地(あめつち)にこぬ春ひらく園の梅が香(松下集)

【通釈】消えないといっても、皆淡雪だ。まだ来ぬ春を、天地に向けて広げる園の梅が香よ。

【補記】積もった淡雪など何のその、開き始めた早梅の香りが、一足早く春を世界に向けて開け放つ、とした。これも正広らしい丈高い詠。

古寺歳暮

またや夢春はあすかの寺の鐘ことしもけふに声ぞ暮れゆく(正広詠歌)

【通釈】また夢か、春はもう明日か。飛鳥の寺の鐘よ、今年も今日で終りだと、その声の響きのうちに年が暮れてゆく。

【補記】「あすか」は「明日か」「飛鳥」の掛詞。『正広詠歌』の排列からすると文明七年、住吉での作か。

【参考歌】藤原敦忠「後撰集」
物思ふとすぐる月日もしらぬまにことしはけふにはてぬとかきく
  源国信「堀河百首」「金葉集」
なに事をまつとはなしにあけくれてことしもけふになりにけるかな

逢恋

小簾(こす)のとにひとりや月の更けぬらん日比(ひごろ)の袖の涙たづねて(松下集)

【通釈】簾の外で、月はひとり残されたまま夜を更かすのだろうか。常々宿っていた、私の袖の涙を探し求めて。

【補記】平生、訪れない恋人を恨んで女は涙に袖を濡らし、そこに月を映していたのだが、今宵は珍しく恋人と逢っているために、月の光は宿る場所を失って家の外で途方に暮れている、というのである。一首に恋物語を凝縮したようなこの歌は評判となり、作者は「日比の正広」の通称を得た。『三百六十番自歌合』、恋雑二十七番左。『正広詠歌』にも見え、排列からすると文明七年、住吉での作か。

僅見恋

車よりおりつる人よまゆばかり扇のつまにすこし見えぬる(松下集)

【通釈】車から今降りた人よ、眉ばかりが扇の端に少しだけ見えた。

【補記】延徳二年(1490)六月十八日、旅先の越前国一乗にあって、斎藤民部丞藤原隆家の勧めにより詠んだ三十六首の中の一首。王朝物語を思わせる優婉な一場面を細やかに、かつ簡潔に描き出している。同じ頃の歌「灯火をよするに人のまばゆきやすこしそばめて顔をふりぬる」も同趣向。

林下幽閑

はかなくもかたらふ声よ鳥のきてならぶ梢の夕暮のやど(松下集)

【通釈】とりとめもなく語らう声が聞こえるよ。鳥がやって来て、仲良く並んで止まる梢――その林の陰、夕暮に包まれる我が宿よ。

【補記】『三百六十番自歌合』、恋雑六十六番右。

庵懐旧

いにしへにあはぬ板間の月ひとりなきがおほかる夢ぞかなしき(正広詠歌)

【通釈】過去には会ったこともない、板と板の隙間に見える孤独な月よ――亡き人ばかり多い夢が切ないのだ。

【補記】悲しい夢から醒めて見る板間の月。「あはぬ」は「会ったことのない(→月)」「ぴったり合っていない(→板)」両義の掛詞。文明六年頃の詠。

【本歌】藤原為頼「拾遺集」
世の中にあらましかばと思ふ人なきがおほくも成りにけるかな
【参考歌】慈円「拾玉集」
杉の屋のあはぬ板まの霜はいさむすばぬ夢の月をしぞおもふ
  正徹「草根集」
見し人のなきがおほかる古郷にあるははかなき道芝の露

慶賀

尋ねみよ蓬が島ぞ和歌の道心をのべて人は老せず(松下集)

【通釈】探し求めてみよ、和歌の道を。それは蓬莱島であるぞ。心を述べ、心を延ばして、人は老いることがない。

【語釈】◇蓬(よもぎ)が島 蓬莱島。蓬莱山とも。大陸渡来の伝説にある、東海中の不老不死の島。◇心をのべて 「のべ」は「述べ」「延べ」の掛詞。「心を述べ」は抒情する意となり、「心を延べ」は心をのびやかにする意となる。次句「老せず」との縁からは「寿命を延ばす」意も当然帯びる。

【補記】『三百六十番自歌合』、恋雑九番右。


更新日:平成18年02月02日
最終更新日:平成22年08月20日