坂上是則 さかのうえのこれのり 生没年未詳

「坂上系図」(続群書類従)によれば征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、従四位上右馬頭好蔭の子。後撰集の撰者望城の父。
延喜八年(908)、大和権少掾。のち大和権掾・少監物・中監物・少内記・大内記をへて、延長二年(924)正月、従五位下に叙せられ加賀介に任ぜられた。
寛平五年(893)頃の后宮歌合をはじめ、延喜七年(907)の大井川行幸、同十三年の亭子院歌合など晴の舞台で活躍した。蹴鞠の名手でもあったという。三十六歌仙の一人。定家の百人一首にも歌を採られている。家集『是則集』がある。古今集初出。勅撰入集四十三首。

  3首  1首  6首  2首  8首 計20首

前栽に、竹の中に桜の咲きたるをみて

桜花けふよく見てむ呉竹のひとよのほどに散りもこそすれ(後撰54)

【通釈】竹叢の中に咲いている桜の花を今日よく見ておこう。竹の一節(ひとよ)ではないが、たった一夜のうちに散ってしまうこともあるから。

【語釈】◇呉竹の 竹の節(よ)から、「よ」にかかる枕詞。◇ひとよのほどに 一晩のあいだに。「ひとよ」には「一節」の意が掛かる。竹の節は短いという通念があったので、「たった一夜という短い時間のうちに」の意を響かせる。

亭子院の歌合に

花の色をうつしとどめよ鏡山春よりのちの影や見ゆると(拾遺73)

【通釈】その名のごとく、花の色を山腹に写して留めよ、鏡山。春が去ったのち、面影が見えるかと思うので。

【語釈】◇うつしとどめよ 写して残せ。鏡山という名にかけて言う。◇鏡山 近江国(滋賀県)の三上山北東の小山。今の竜王山・星ケ峯の総称という。鏡神社が鎮座し、古来信仰の山。◇春よりのちの影 花が散り、春が去った後、偲ぶ面影。

【補記】延喜十三年(913)三月十三日、宇多法皇主催の「亭子院歌合」。同歌合では第四句は「はるよりのちに」。

【主な派生歌】
万代のためしと見ゆる花の色を映しとどめよ白川の水(上西門院兵衛[金葉])
くもりなき池の鏡の底きよみうつしとどめよ花のおもかげ(藤原長方)

延喜十三年亭子院歌合歌

水底(みなそこ)にしづめる花のかげ見れば春はふかくもなりにけるかな(続古今159)

【通釈】水底に沈んでいる花びらの姿を見れば、春という季節もすっかり深まったのだなあ。

【補記】「ふかくなり」は、季節が進み、押し詰まってきた意。「みなそこ(水底)」と縁語になる。「亭子院歌合」写本では第四句「はるのふかくも」。

女四のみこの家歌合に

山がつと人は言へどもほととぎすまつ初声は我のみぞ聞く(拾遺103)

【通釈】山人と言って都の人たちは卑しむけれども、皆が待望する時鳥の初音は真っ先に私が独り占めにして聞くことだ。

【語釈】◇女四のみこ 醍醐天皇第四皇女、勤子内親王。◇山がつ 山または山里に住み、山でとれるもの(木や獣)によって生計を立てていた人々。木こり・炭焼など。◇ほととぎすまつ初声 時鳥の、皆が待望する初声。「まつ」は「まづ」とも読める。掛詞と解した。

【補記】山がつの立場で詠んだ歌。ほととぎすは夏、インド・東南アジアなどから渡来。山林などに棲み、人里に現れることは少ない。

【主な派生歌】
ほととぎすまだうちとけぬ忍び音は来ぬ人を待つ我のみぞ聞く(*白河院[新古今])
山がつとなりても猶ぞ郭公なくねにあかで年はへにける(寂超[続拾遺])
かはらずと人にかたらむ郭公むかしのこゑは我のみぞきく(西園寺実氏[続古今])

屏風の絵によみあはせてかきける

かりてほす山田の稲のこきたれてなきこそわたれ秋の憂ければ(古今932)

【通釈】刈って干した山田の稲をしごくと、籾がこぼれ落ちる――その「扱き垂れ」ではないが、雁がぽろぽろ涙を垂らしながら、ほら啼いて渡るよ、秋という季節は悲しいので。

【語釈】◇かりてほす 刈って干す。「雁」を詠み込む。◇こきたれて 「こき」は「稲扱き」の「扱き」。稲穂から籾をしごいて取ること。「たれ」は籾がこぼれ落ちることを言う。雁が涙をぽろぽろ落とす意を掛ける。

【主な派生歌】
かつしかのわさ田のおしねこきたれてなきもたらじとつきぬ涙か(源俊頼)
雁がねの涙も花もこきたれて帰る道にやふりまさるらむ(藤原為家)
初雁もなきこそわたれ吹く風の身にしむばかり秋の憂ければ(宗尊親王)

題しらず

うらがるる浅茅が原のかるかやのみだれて物を思ふ頃かな(新古345)

【通釈】葉先が枯れた浅茅の生える原――その萱が秋風に乱れるように、心乱れて物思いをするこの頃であるよ。

【語釈】◇うらがるる うら枯れた。葉先が枯れた。◇浅茅(あさぢ)が原 浅茅(丈の低いチガヤ)の生える原。◇かるかや 刈萱。刈り取って屋根を葺く等に用いられた草。ここではチガヤのこと。「かるかやの」までが「みだれて」を導く序。

【補記】『是則集』では初二句「しもがれのあさぢがもとの」。

【主な派生歌】
かるかやのみだれて物を思ふかな野原のかぜを袖にまかせて(慈円)
かるかやのみだれて物をおもへども君が下葉の露ぞつれなき(後鳥羽院)

題しらず

いく千里(ちさと)ある道なれや秋ごとに雲ゐを旅と雁のなくらむ(新拾遺498)

【通釈】幾千里ある道なのだろうか。秋になるたび、空を旅路として雁が啼くことよ。

【補記】「千里」は遥かな距離を言う。『是則集』では第四句「くもゐのたびを」。

秋の歌とてよめる

佐保山のははその色はうすけれど秋はふかくもなりにけるかな(古今267)

【通釈】佐保山の雑木林の葉がうっすらと色づいた――その色は薄いのだけれど、秋という季節はすっかり深まったことであるよ。

【語釈】◇佐保山 奈良市内、平城京跡の北東の丘陵地。◇ははそ 柞。ナラ・クヌギなど、里や丘陵によく見られる落葉樹の類の総称。

【他出】左兵衛佐定文歌合、是則集、古今和歌六帖、三十人撰、五代集歌枕、秀歌大躰、歌枕名寄

龍田河のほとりにてよめる

もみぢ葉のながれざりせば龍田川水の秋をばたれかしらまし(古今302)

【通釈】紅葉した葉が流れないとしたら、龍田川の水にも秋という季節があることを誰が知ろうか。

【語釈】◇龍田川 生駒山地東側を南流し、大和川に合流する川。または、龍田地方を流れる大和川を当時は龍田川と呼んだとも。紅葉の名所。◇水の秋 川に紅葉が流れることによって水が秋色を帯びていることを、水にも秋という季節があるとして言いなした。

【他出】古今和歌六帖、是則集、桐火桶、五代集歌枕、歌枕名寄

【主な派生歌】
たつた山峰のもみぢの散らぬまはそこにぞ水の秋はみえけり(藤原家隆)
神なびの山のあらしやたつた河みづの秋のみふかき色かな(藤原雅経)
もみぢ葉ぞ岩きりとほる吉野河おとして水の秋やゆくらむ(藤原基家)
ちりつもる紅葉ならねど立田川月にも水の秋は見えけり(藤原能清[続拾遺])
龍田川水の秋をやいそぐらむ紅葉をさそふ峰の嵐に(*二条為子[続千載])
立田河水の秋をやいそぐらむ峰の木の葉に山風ぞふく(邦高親王)

延喜の御時の菊合に

わぎもこがひもゆふぐれの菊なればあかずぞ花の色はみえける(続後拾遺385)

【通釈】夕暮の光に映える菊なので、見飽きることもないほど花の色は美しく見えるよ。

【語釈】◇わぎもこがひもゆふぐれの 「わぎもこが紐ゆふ(妻が衣の紐を結んでくれる意)」から「日も夕」を導く。

【補記】当時栽培され賞美された菊は白い小菊。純白の花であればこそ夕日の色は美しく映える。延喜十三年(913)十月十三日、醍醐天皇主催の内裏菊合。

奈良の京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる

み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

【通釈】吉野の山では雪が積もっているに違いない。奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じる。

【語釈】◇み吉野 奈良県の吉野地方。山深く、雪深い土地として歌に詠まれた。◇つもるらし 積もっているらしい。助動詞「らし」は客観的な事実を受け入れての推定判断をあらわす。掲出歌の場合、「古里さむくなりまさる」という事実を承けて、吉野山のありさまを推し量っている。◇ふるさと (1)荒れた里、(2)古い由緒のある里、(3)昔なじみの土地、など様々なニュアンスで用いられる語。ここは詞書にある「奈良の京」を指し、まず(2)の意であると共に、作者是則にとっては坂上氏の本拠地として(3)の意味ももったであろう。◇さむくなりまさるなり 「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。視覚以外の感覚による判断をあらわし、掲出歌では皮膚感覚によって「さむくなりまさる」と判断していることをあらわす。

【補記】平城旧京に行った折、旅宿で詠んだという歌。古京の宿に過ごす冬の夜の寒さから、吉野の山の降雪に思いを馳せた。下句が上句の推量の理由をなしている。宇多天皇の御代の『寛平御時中宮歌合』に「冬」の題で見え、また延喜年間の撰歌合と見られる平定文主催の『左兵衛佐定文歌合』には「晩冬」の題で載る。『是則集』には詞書「ならの京にまかりてやどる所に」とあり、古今集の詞書とほぼ同一内容。そもそもは題詠でなく嘱目の詠であったらしい。

【他出】寛平御時中宮歌合、左兵衛佐定文歌合、是則集、古今和歌六帖、如意宝集、金玉集、前十五番歌合、三十人撰、深窓秘抄、和漢朗詠集、三十六人撰、五代集歌枕、俊成三十六人歌合、定家八代抄、西行上人談抄、秀歌大躰、時代不同歌合、歌枕名寄

【主な派生歌】
吉野山花やさかりに匂ふらむ古里たえぬ峯の白雪(藤原家衡[新古今])
み吉野の山の秋風さ夜更けて古里さむく衣うつなり(*飛鳥井雅経 〃)
今よりは雲ゐの雁も声たてて秋風さむく成まさるなり(覚仁法親王[続拾遺])

大和の国にまかれりける時に、雪のふりけるをみてよめる

朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪(古今332)

【通釈】夜がほのぼのと明ける頃、有明の月の光かと見えるほど、吉野の里にしらじらと降り積もった白雪よ。

【語釈】◇大和の国 今の奈良県にあたる。坂上氏の本拠は大和国添上郡坂上。因みに是則は延喜八年(908)、大和国少掾に任ぜられている。◇朝ぼらけ 夜が明けてまだ物がぼんやり見える頃。◇有明の月 明け方まで空に残る月。里いちめんに降り積もった雪の白さを、有明の月がさしていると見立てた。「おしなべて白妙なるを月の光にまがへたる也」(『百人一首異見』香川景樹)。

【補記】「ふれる白雪」につき、中世の注釈書の多くは薄雪であると指摘するが、契沖は古今集の排列を理由にこの説を否定し、「只朝にみる雪をかくはよめる也」と雪の深浅は関係ないとした(『百人一首改観抄』)。

【校異】第四句を「吉野の山に」とする古今集古写本もある。新編国歌大観の『是則集』『古今和歌六帖』も「吉野の山に」。

【他出】是則集、古今和歌六帖、五代集歌枕、俊成三十六人歌合、時代不同歌合、定家八代抄、近代秀歌(自筆本)、詠歌大概、八代集秀逸、百人一首、題林愚抄

【主な派生歌】
夕月夜よしのの里にふる雪のつもりてのこる有明のかげ(藤原家隆)
み吉野のみ雪ふりしく里からは時しもわかぬ有明の空(藤原定家)
み空ゆく月もまぢかしあしがきのよし野の里の雪のあさけに(〃)
よしの山くもらぬ雪とみるまでに有明の空に花ぞちりける(後鳥羽院[続千載])
さらでだにそれかとまがふ山の端の有明の月にふれる白雪(藤原為家[続古今])
これも又有明のかげとみゆるかなよしのの山の花のしら雪(後嵯峨院[新拾遺])
冬ごもる芳野の岳に降る雪をたれ在明の月とだにみむ(覚助法親王[新千載])
影うすき有明の月の残るかとおもへば庭にふれるしら雪(頓阿)
空にのみ在明の月と見し程におぼえずはらふ袖の露かな(飛鳥井雅世)

題しらず

わたの底かづきてしらむ君がため思ふ心のふかさくらべに(後撰745)

【通釈】海の底に潜って確かめよう。私があなたのことを思う心がどれほど深いか、その深さを海と比較しに。

【参考歌】平定文「後撰集」
君を思ふふかさくらべに津の国の堀江見にゆく我にやはあらぬ

【主な派生歌】
物思ひの深さくらべにきてみれば夏のしげりもものならなくに(藤原道綱母)
花をおもふ深さくらべにみにゆかば吉野のおくもは山ならまし(契沖)

題しらず

わが恋にくらぶの山のさくら花まなくちるとも数はまさらじ(古今590)

【通釈】私の恋にくらぶの山の桜の花を較べれば、花が絶えず散ったところで、私があの人を恋しく思う回数には勝るまい。

【語釈】◇くらぶの山 京都市左京区の鞍馬山の古名かという。「(我が恋に)較べる」の意を掛ける。◇数はまさらじ 恋しく思う回数には勝るまい。

【主な派生歌】
人の世にくらぶの山の桜花はなは中々風も待ちけり(木下長嘯子)

題しらず

をしかふす夏野の草の道をなみしげき恋路にまどふ頃かな(新古1069)

【通釈】牡鹿が臥す夏野は草が茂って道がないように、物思いの絶えない恋の道に惑うこの頃であるよ。

【補記】「道をなみ」までが「しげき」を起こす序。秋になれば妻を恋うて鳴く牡鹿は恋の風趣を添え、また「道をなみ」は「方途がわからず」等の意を響かせるため、いわゆる有心の序となっている。

【他出】是則集、俊成三十六人歌合、時代不同歌合
(新編国歌大観の『是則集』では「をしかふす夏ののくさのみち見えずしげきこひにもまどふころかな」。)

【主な派生歌】
をしかふす夏野の草の露よりもしらじなしげき思ひありとは(源実朝)

題しらず

かつきえぬ涙が磯のあはびゆゑ海てふ海はかづきつくしつ(是則集)

【通釈】途切れることのない涙に濡れる片思いのために、海という海は潜り尽くしたと言えるほどだ。

【語釈】◇かつきえぬ 流れ出す一方で消えることのない。『古今和歌六帖』『夫木和歌抄』では「かづきいでぬ」。◇涙が磯のあはびゆゑ 涙に濡れる片思いのために。アワビは貝殻が一片のように見えるので、片恋の喩えとされた。◇海てふ海は… 表面的には「アワビを求めてあらゆる海にもぐった」ということだが、「片思いのせいでつらい思いをし、海に潜り尽したと言えるほど涙に濡れた」と暗に言っている。

【主な派生歌】
身よりかく涙はいかがながるべき海てふ海は潮やひぬらむ(*和泉式部)

題しらず

恋しさの限りだにある世なりせば年へて物は思はざらまし(続古今1306)

【通釈】せめて恋しさに限りのあるこの世であったなら、これほど何年にもわたって思い悩むことはないだろうに。

題しらず

逢ふことを長柄の橋のながらへて恋ひわたるまに年ぞへにける(古今826)

【通釈】逢うことがないまま、長柄の橋のように生き長らえて、恋し続けるうちに年を経てしまったよ。

【補記】「長柄の橋」は摂津国の歌枕。淀川に架かっていた橋。弘仁二年(811)に初めて架橋され、以後たびたび水害に遭って流された。「な」には「無」が掛かり、また同音の「ながらへ」を導く。

あひて後あひがたき女に

霧ふかき秋の野中の忘れ水たえまがちなる頃にもあるかな(新古1211)

【通釈】霧が深く立ちこめた秋の野を流れる忘れ水のように、あの人との仲が途絶えがちなこの頃であるよ。

【補記】一度逢瀬を遂げたが、その後はなかなか逢えなくなった女に贈った歌。「忘れ水」とは、川とも呼べない程に途切れがちで、殆ど人に気づかれることのない水の流れ。恋人の仲が途絶えがちになり、忘れられかけた境遇を暗喩する。

【主な派生歌】
はるばると野中に見ゆる忘れ水たえまたえまを歎く頃かな(*大和宣旨[後拾遺])
住吉の浅沢小野の忘れ水たえだえならで逢ふよしもがな(藤原範綱[詞花])
山陰やくらき岩間の忘れ水たえだえ見えて飛ぶ蛍かな(藤原為理[玉葉])
しげりあふ秋の野中の忘れ水たえだえ見えてやどる月かな(二条為明)

人のもとより帰りまで来てつかはしける

逢ひ見てはなぐさむやとぞ思ひしになごりしもこそ恋しかりけれ(後撰794)

【通釈】逢瀬を遂げれば、気持もなぐさむかと思ったのに、じっさい逢ってみたら、名残りこそが恋しくてならなかったよ。

【補記】拾遺集に「題しらず 坂上是則」として重出。


公開日:平成12年04月13日
最終更新日:平成16年01月29日