中臣清麻呂 なかとみのきよまろ 大宝二〜延暦七(702-788) 略伝

意美麻呂の七男。母は多治比真人嶋の女阿伎良(あきら)。神護景雲二年(768)年、大中臣朝臣を賜姓される。なお大伴家持の母を多治比氏の郎女(嶋の孫)と推測する説があり、だとすれば清麻呂は家持の母の従兄弟にあたる。
参河掾・神祇少副などを経て、天平十五年五月、従五位下に叙せられる。のち神祇大副・尾張守などを経て、天平宝字六年(762)、参議。さらに左大弁・摂津大夫・神祇伯など要職を歴任し、神護景雲二年(768)二月、中納言に昇る。翌年六月、大中臣朝臣を賜姓される。宝亀二年(771)三月、右大臣従二位。同三年二月、さらに正二位に昇る。天応元年(781)六月、致仕。延暦七年(788)七月二十八日、薨去。八十七歳。『続日本紀』の薨伝には「清麻呂は数朝に歴事して国の旧老と為り。朝儀国典、諳練する所多し。位に在りて事を視ること、年老いたりと雖も、精勤にして怠るに匪ず」云々とある。
天平勝宝五年(753)、大伴家持大伴池主と高円山に登り歌を詠む(万葉集巻二十)。また天平宝字二年(758)二月、自邸に家持・市原王甘南備真人伊香大原今城らを招いて宴を開くなど、家持を中心とした歌人グループの一員であった。万葉集に五首の歌を残す。没年の知られる万葉歌人のうち最後まで生き残った人である。

天平勝宝五年八月十二日、二三の大夫等、(おのもおのも)壺酒(さかつぼ)(ひきさ)げて、高円の野に登り、聊か所心を述べて作る歌一首

天雲(あまくも)に雁ぞ鳴くなる高円(たかまと)の萩の下葉はもみち()へむかも(万19-4296)

【通釈】雲の上で雁が鳴いている――もう秋も深まってきたのだなあ。高円の野に咲く萩の下葉は、無事に黄葉しきることができるだろうか。

萩の下黄葉 鎌倉市雪ノ下
下葉から色づき始めた萩

【語釈】◇萩の下葉 萩の下の方の葉。他の草木に先駆けていちはやく色づく。◇もみち敢へむかも 「もみち」は「紅葉する」意の動詞連用形。「敢へ」は動詞連用形に付いて「〜しきる」「すっかり〜する」意。

【補記】大伴家持・池主と共に高円山に昇った時の作。高円山は京東南郊の丘陵。頂上近くには聖武天皇の離宮があった。その山の萩が霜枯れなどして、美しい黄葉が見られないのではないかと心配した歌であろう。

興に依りて各(おのもおのも)、高円の離宮処(とつみやところ)を思ひて作る歌

高円(たかまと)の野辺はふ(くず)の末つひに千代に忘れむ我が大王(おほきみ)かも(万20-4508)

【通釈】高円山の野辺に這っている葛の葉がどこまでも続くように、いつまでも千年までもお忘れしようか、我らの大君を。

【補記】天平宝字二年(758)二月、中臣清麻呂邸での宴での作。二年前の天平勝宝八歳(756)に崩御した聖武天皇を偲んだ歌。同じ時大伴家持は「高円の野のうへの宮は荒れにけり立たしし君の御代とほそけば」と詠んでいる。聖武天皇亡き後、藤原仲麻呂が権勢を振るっていた世を憂える思いを、清麻呂や家持は共有していた。


更新日:平成15年12月26日
最終更新日:平成20年05月28日