大伴池主 おおとものいけぬし 生没年未詳 略伝

系譜未詳。天平十年(738)頃、珠玉を求むる使いとして駿河国を通過(寧樂遺文)。この時、春宮坊少属従七位下。同十四年年頃の十月、平城京の橘奈良麻呂宅の宴に出席、歌を詠む(万葉8-1590))同十八年八月、越中守大伴家持の館で宴、歌を詠む(17-3944〜46・3949)。この時越中掾とある。その後も度々家持との間で歌を贈答した。天平二十年(748)三月以前、越前掾に遷任。帰京後も家持との親交は続いたようで、天平勝宝五年(753)八月、中臣清麻呂・家持らと高円山に登り、所心を述べる歌を詠んでいる(20-4295)。この時左京少進。また同六年正月、家持邸での大伴氏族の集いにも参加し、歌を詠む(20-4300)。同八年三月、聖武上皇の河内・難波行幸の時、馬国人の家の宴に臨席し(家持・馬国人も同席)、兵部大丞大原今城の歌を伝読した(20-4459)。この時式部少丞。同年十一月二十三日、兵部大丞大原今城を自宅に招いて宴する(20-4475題詞)。同九年六月、橘奈良麻呂の乱に参加し、翌月反乱計画が洩れた際、捕縛されたらしい。その後の消息は不明であるが、拷問死または獄中死に至ったかと思われる。
万葉集には長短歌計二十九首を残している。勅撰入集は新勅撰集の一首のみ。以下には万葉集より七首を抄出した。

橘朝臣奈良麻呂の宴する時の歌

十月(かむなづき)時雨にあへるもみち葉の吹かば散りなむ風のまにまに(万8-1590)

【通釈】十月の時雨に出遭って色づいた葉は、風が吹けば散ってしまうだろう、風に吹かれるがままに。

【補記】天平十四年(742)頃、橘奈良麻呂邸で宴が催された際の作。大伴家持・書持らも参席し、万葉集にはこの時の歌が十一首収められている。この歌は最後から二番目。なお十月は陰暦では冬であるが、この歌は万葉集巻八の秋雑歌に分類されている。

【他出】家持集、新勅撰集、別本和漢兼作集、新百人一首

【主な派生歌】
神な月雲の行くての村時雨はれもくもりも風のまにまに(*正親町公蔭[風雅])

掾大伴宿禰池主の報贈(こた)ふる歌二首 并せて短歌

大君(おほきみ)の (みこと)(かしこ)み あしひきの 山野(やまの)(さは)らず (あま)ざかる (ひな)も治むる 大夫(ますらを)や なにか物思(ものも)ふ 青丹(あをに)よし 奈良道(ならぢ)来通ふ 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)絶えめや (こも)り恋ひ 息づきわたり 下思(したもひ)に 嘆かふ我が() (いにしへ)ゆ 言ひ継ぎ()らく 世間(よのなか)は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人(さとびと)の (あれ)に告ぐらく 山()には 桜花散り 容鳥(かほとり)の ()なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白たへの 袖折り返し (くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引き 娘子(をとめ)らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見にゆかな ことはたなゆひ (万17-3973)

 

山吹は日に日に咲きぬうるはしと()()ふ君はしくしく思ほゆ(万17-3974)

 

我が背子に恋ひすべなかり葦垣(あしかき)(ほか)に嘆かふ(あれ)し悲しも(万17-3975)

【通釈】[長歌] 天皇陛下のご命令を畏れ謹んで、山も野も障害とせずに行き、都から天遠く離れた地方を治めるますらおの貴方が、何をお悩みになるのでしょう。青丹美しい奈良道を行き来する使者が絶えることなどございましょうか。家に籠もって恋いしがり嘆息しつつ、面には出さず悲嘆にくれなさる我が親愛なる友よ。昔から言い伝えられて来ましたように、現世とは果敢ないものにございます。気休めにもなろうかと、里の者が私に告げて曰く、「山辺では桜の花が散り、ほととぎすが絶えずしきりに鳴いています。春の野に菫を摘もうと、真っ白な袖を折り返し、紅の裳の裾を引き、乙女たちは心を乱して、貴方を待つとて心の内に恋しています」と。じっとしていると心が滅入ります。さあ見に行きましょう、しっかりと約束して。
[反歌一] 山吹の花は、日ごとに美しく咲いてゆきます。そのように美しくお見受けする貴方のことが、しきりと恋しく思われます。
[反歌二] 親愛なる貴方が恋しくてしかたなく、蘆垣を隔てたようによそながら嘆き続けている私は悲しくてやりきれません。

【語釈】[長歌]◇あしひきの 「山」の枕詞◇天ざかる 「鄙(ひな)」の枕詞。◇鄙 田舎。都から遠く離れた地方。◇青丹よし 「奈良」の枕詞。奈良は青丹(岩緑青)の名産地であったことから。◇玉梓の 「使」の枕詞。昔、伝言をつたえる使者が梓の杖を用いたことから。◇ことはたなゆひ 事は・たな(しっかりと)・結ひ(約束して)の意かという。万葉集の原文は「許等波多奈由比」。『万葉集略解』の宣長説では「由比」を「思礼」の誤りと見てコトハタナシレと訓み、「さやうに心得たまへ」の意とする。

【補記】天平十九年(747)三月、病床にあった越中守大伴家持に書簡として贈った歌。当時池主も国司として越中にあり、家持と親しく交際していた。長い序文があるが、略した。

立山の賦に敬和(こたへまを)す一首 并二絶

朝日さし 背向(そがひ)に見ゆる (かむ)ながら 御名(みな)に負はせる 白雲の 千重を押し分け (あま)そそり 高き立山(たちやま) 冬夏と ()くこともなく 白たへに 雪は降り置きて (いにしへ)ゆ ()り来にければ 凝々(こご)しかも (いは)(かむ)さび 玉きはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども(あや)し 峯(だか)み 谷を深みと 落ち(たぎ)つ 清き河内(かふち)に 朝()らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居たな引き 雲居(くもゐ)なす 心も(しの)に 立つ霧の 思ひ過ぐさず ()く水の 音も(さや)けく 万代(よろづよ)に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは(万17-4003)

 

立山に降り置ける雪の常なつに()ずてわたるは(かむ)ながらとそ(万17-4004)

 

落ち激つ片貝川(かたかひがは)の絶えぬごと今見る人も止まず通はむ(万17-4005)

【通釈】[長歌] 山吹の花は、日ごとに美しく咲いてゆきます。そのように美しくお見受けする貴方のことが、しきりと恋しく思われます。朝日が射し、その背後に現れる、神であるがままに尊い御名を持っておられる幾重も重なる白雲を押し分け、天へと押し昇る、高き立山よ。冬夏と区別することなく、真っ白に雪が降り積もっていて、遠い過去の代からあり続けてきたので、何と険しくも岩は神々しく古びており、幾代を経てきたのだろうか、立って見、座って見るにつけ、霊威神妙であることよ。峰は高く谷は深いので、激しく流れ落ちる清らかな川の辺に朝ごとにいちめんに霧が立ち、夕方になれば雲がたなびき、その雲のように心はなびき寄り、立ちこめる霧のように思いは消え去らず、流れゆく水の音のように澄明に、万代までも語り継いでゆこうこの川が絶えない限りは。
[反歌一] 立山に降り積もった雪が四季を通じてずっと消えずにいるのは、神のご意志のままだということである。
[反歌二] 激しく流れ下る片貝川の水が絶えないように、今(立山を)見る人は将来も止むことなく通い続けるだろう。

立山連峰遠望 フォトライブラリー ロイヤリティーフリー
立山連峰遠望

【語釈】[長歌]◇立山(たちやま) 富山県中新川郡の立山(たてやま)連峰。所謂北アルプスの西北端に位置する。◇玉きはる 「代」の枕詞。語義・掛かり方未詳。◇朝日さし背向(そがひ)に見ゆる 解釈は諸説あるが、ここでは「朝日が射し、その光に対して立山が後方に姿を現す」意に取った。なおソガヒは『岩波古語辞典』によれば「ソは背。ソムカヒの約か。ヒムカシがヒガシに転ずる類」で、「背の方を向け合わせたさま」「うしろの方角」の意。
[反歌]◇片貝川 立山連峰の北方、毛勝三山の麓から魚津市北部の富山湾に注ぐ川。上流は美しい渓谷を形成する。

【補記】天平十九年(747)四月二十八日、大伴家持の長歌「立山の賦」に和した歌。


更新日:平成15年12月27日
最終更新日:平成21年04月10日