影媛 かげひめ

物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の姫。平群鮪(へぐりのしび)の恋人または妻であったが、横恋慕した武烈天皇によって鮪を殺された。その時の哀傷歌が日本書紀に伝わる。以下はその二首である。

 

石上(いすのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過ぎ 物(さは)に 大宅(おほや)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 嬬籠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には (いひ)さへ盛り 玉椀(たまもひ)に 水さへ盛り 泣き(そぼ)ち行くも 影媛(かげひめ)あはれ

【通釈】布留を過ぎて、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、佐保を過ぎ、お供えの美しい食器にはご飯まで盛り、美しいお椀には水さえも盛って、泣き濡れて行くのだ。影媛、ああ可哀相に。

【語釈】◇石上(いすのかみ) 原文は「伊須能箇瀰」。奈良県天理市、石上(いそのかみ)神宮周辺の土地の古称。ここでは「布留」の枕詞。◇布留 天理市布留町のあたり。◇薦枕 「高」の枕詞。薦で編んだ枕は普通の枕より高いので。◇高橋 奈良市杏(からもも)町に高橋の地名が残る。◇物多(さは) 物が多い意から「大宅」に掛かる枕詞。◇大宅 奈良の白毫寺あたり。◇春日(はるひ) 「春日(かすが)」の枕詞。春の日はかすむことから。◇春日(かすが) 奈良市の春日山の西。◇嬬籠る 「小佐保」の枕詞。掛かり方未詳。◇小佐保 奈良市法蓮町・法華町一帯。

【補記】古事記下巻。処刑された恋人の平群鮪の後を追う影媛の、布留から奈良山までの道行を抒べる。詳しい経緯は次の歌の補記を参照。

 

青丹(あをに)よし 奈良の峡間(はざま)に 鹿(しし)じもの 水漬(みづ)辺隠(へごも)り 水灌(みなそそ)ぐ (しび)若子(わくご)を 漁り()な ()の子

【通釈】奈良の谷間で、射殺された獣のように、水がひた寄せる岸辺にひっそり斃れ、水びたしになっている、鮪の兄さん。その屍を探し回って、あばき出すようなことはしないで、猪さん。

【語釈】◇青丹よし 「奈良」の枕詞。奈良は青丹の良産地だったことから。

【補記】古事記下巻。武烈天皇が皇太子だった時、大臣平群真鳥(へぐりのまとり)は国政を擅断(せんだん)し、数々の無礼をはたらいた。ある日、皇太子は物部麁鹿火のむすめ影媛を娶ろうと思い、仲介の者を影媛の家に遣った。ところが影媛は、すでに真鳥の息子鮪(しび)と情を交わしていた。影媛は「海石榴市(つばきち)の巷でお待ちしています」と返事をしたので、皇太子はそこへ出掛けていった。市では歌垣が行われていた。皇太子は影媛の袖をとらえ、ついて来るように誘った。そこへ鮪がやって来て、二人の間に割って入ったので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪との間で歌を応酬した。皇太子は鮪の歌によって鮪がすでに影媛を得たことを知り、顔を赤くして怒った。この夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村は数千の兵を率い、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで追ってゆき、鮪の処刑されるのを見た。驚き混乱し、目に涙があふれた。そこで「石上…」の歌をよみ、鮪のしかばねを土に埋めた。家に帰ろうとした時、むせび泣いて「なんと苦しいこと。今日愛しい夫を失った」と言い、再び涙を流して「あをによし…」の歌をうたったという。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月01日