佐久良東雄 さくらあずまお 文化八〜万延元(1811-1860) 号:薑園(きょうえん)

文化八年(1811)三月二十一日、常陸国新治郡浦須村(今の茨城県石岡市)の庄屋飯島家に生れる。父は平蔵。九歳の時、下林村観音寺の住職康哉の弟子となり良哉(りょうさい)と名付けられる。二十歳になる天保元年(1830)、豊山の長谷寺に入って仏道を修行する。数年後、康哉の重病を知って帰山、看護に専心した。間もなく康哉は亡くなったが、その遺言により所蔵の図書数百巻を遺贈される。同六年には善応寺に転住、翌年の天保の飢饉に際しては民衆の救済に奔走した。この頃より東雄の雅号を用いる。寺務の傍ら国学を講じ、藤田東湖を始め多くの学者と交流した。同十三年(1842)、平田篤胤の門に入り、同十四年、仏門を脱す。以後、姓名を佐久良靫負(ゆぎえ)と改め、江戸において国学の研究に専念する。この頃、水戸藩奧医師鈴木玄兆女、輝子を娶った。弘化二年(1845)上洛し、まもなく大坂に移って坐摩(いかすり)神社の神官となる。この時、同神社の執奏である中山大納言家に親近する機会を持った。社務の傍ら国学書を出版し、また惟神舎を開いて国学を講授する。安政元年(1854)、再び上洛し、妙法院宮に奉仕して中奥席格となる。安政四年(1857)、妻輝子を亡くす。同五年、神祇伯白川資則の門に入り、神祇道学師の称号を与えられる。万延元年(1860)三月三日、桜田門外の変が起こると、襲撃者の高橋多一郎父子を匿った罪で大坂東町奉行に捕えられる。同年四月、江戸伝馬町の獄に移され、六月二十七日、獄中で病死した(自ら絶食しての餓死ともいう)。享年五十。千住小松原に埋葬され、のち大阪天王寺夕陽ケ丘に改葬され、さらに昭和七年には善応寺に改葬された。明治二十四年、靖国神社合祀。同三十一年、従四位追贈。
「万葉法師」と称されたほど万葉集に造詣が深かった師康哉の影響を受け、早くから万葉集に親しんだ。生前刊行した歌集『はるのうた』、死後編纂された家集『薑園歌集』『佐久良東雄歌集』がある。

以下には『佐久良東雄歌集』(佐久良東雄・大久保要顕彰会、昭和十二年刊)より四首を抄出した。

 

朝日かげ豊栄(とよさか)のぼる日の本のやまとの国の春のあけぼの

【通釈】朝の日光がきらきらと輝いて昇る、大和の国の春の曙よ。

【語釈】◇豊栄のぼる 朝日が輝いて昇る。延喜式の祝詞に「朝日の豊逆登りに」とあるのに由る。◇日の本の 「やまと」の枕詞。「日の本」は我が国の称で、「太陽が最初に昇るところ」の意。

【参考歌】源俊頼「金葉集」
曇りなくとよさかのぼる朝日には君ぞつかへんよろづ代までに

 

桜花咲きの盛りをうち見てもただ武士(もののふ)は涙おちけり

【通釈】桜の花盛りをふと目にしただけでも、武士たる者はただ涙が落ちるのであった。

【補記】桜は作者酷愛の花で、雅号の姓「佐久良」は桜の万葉仮名に由る。掲出歌の原文も実は万葉仮名で「佐久良者那 開乃盛乎 打見而毛 唯武士者 泪下気利」と書かれている。当時の国学者の常として、作者はこのようにしばしば万葉仮名を用いて歌を表記し、上代人の心を体現せんとした。従ってこの歌の「武士」とは、朝廷に仕えたいにしえの「もののふ」に自身を一体化したものである。

 

よき人とほめられむより今の世は物狂ひぞと人のいはなむ

【通釈】善人と褒められるより、今の世にあっては、物狂いだと人から言われたいものだ。

【語釈】◇物狂ひ 物に憑かれたように無我夢中で事をおこなう人。常軌を逸した人。◇人のいはなむ 人が言って欲しい。「なむ」は希望をあらわす助詞。

【補記】東雄の雅号を用いて間もない頃の作。幕末激動の時代を迎えた青年の抱懐である。

 

君がため朝霜ふみてゆく道はたふとくうれしく悲しくありけり

【通釈】主君のために朝霜を踏んで歩いてゆく道は、尊くも嬉しく、また悲しいのであった。

【補記】作歌事情などは不明。東雄の歌において「君がため」と言えば「天皇のため」を意味するのが常である。

【参考歌】源通親「新古今集」
朝ごとに汀の氷ふみわけて君につかふる道ぞかしこき


公開日:平成20年05月23日
最終更新日:平成20年08月26日