当時の国守の最大の職務は、農作の奨励と簿帳(戸籍・計帳)の作成にあったと言っても過言ではないでしょう。ことに、家持が越中に赴任したのは、聖武天皇が平城京東北郊で東大寺大仏の建造に着手された時期に重なっており、この費用の捻出のために未墾地の多い越中が注目されました。すなわち東大寺の封田を大々的に越中において開発する計画が持ち上がったのです。その背後には左大臣橘諸兄がいました。すでに諸兄の信任を得ていたと思しい家持は、墾田開発という重大な使命を帯びて越中に派遣されたのでした。
家持がその職責を全うしようと心を砕いたことは、歌日記からも窺い知ることが出来ます。例えば、
(訳)遠い過去から今現在にわたり、膨大な貢ぎ物を献る務めとして作られてきたのが、田畑の作物であるが、そのように大切な農作物であるのに、雨の降らぬまま日が重なったので、苗を植えた田も種を蒔いた畑も、朝が来るたびに凋み枯れてゆく。それを見れば心が痛み、私は赤ん坊が乳を乞うように天を仰いで、恵みの水を待ち望んでいる...
因みに、この長歌の題詞(というより序文)には、「天平感宝元年閏五月六日以来、小旱起こりて、百姓(はくせい)の田畝稍(やや)く凋める色あり。今六月朔日に至りて、忽ち雨雲の気を見つ」(今の字は廣瀬本と京大本にのみ見られる)といった、いかにも国守の日記に相応しい文章が綴られています。
この他にも、出挙(すいこ。利子付きの消費貸借。春、農民に官稲を貸し付け、秋に3〜5割の利稲と共に回収した)のために越中国内を巡行した記録や、不倫に走る下僚を教え諭す歌(戯れ歌ですが)などに、国守としての働きぶりを垣間見ることが出来るでしょう。
とはいえ、こうした公的側面を窺わせる歌はむしろ例外に属するものです。越中時代の家持歌日記の核をなしているのは、あくまでも文人としての風雅な暮らしであり、私的な宴や遊覧、友との交遊・書簡の贈答、また折に触れての風物詠といったものなのです。
そうした中で一際目を引かれるものに、国府近くの景勝地へ遊覧に行った折の詠作があります。日帰りで遊びに行ける範囲には、布勢水海(ふせのうみ)、渋谿の崎、奈呉の江といった、後世歌枕として都人の憧憬を誘った(その功績が主として家持にあったことは言うを俟ちません)名勝が少なくありませんでした。
家持がことに愛したのは、国庁の北西1里ほどの距離にあった布勢水海であったと見え、越中滞在中四度にわたって遊覧詠を残しています。
(訳)布勢の水海に船を浮かべて、沖へ漕ぎ出たり、岸辺に漕ぎ寄せたりして眺めて見ると、水際ではアジガモの群が賑やかに集まり、島の周囲では梢に花が咲き、これは何とまあ鮮やかな眺めであることよ...
こうした遊覧の折にも、家持の心にはしばしば都への慕情が萌し、時として抑えきれなくなったようです。
水門(みなと)風さむく吹くらし奈呉の江に嬬(つま)呼び交はし鶴(たづ)さはに鳴く(巻十七 4018)
(訳)河口の風が寒く吹きつけるらしい。奈呉の江では、連れ合いを呼び合って鶴があちこちで盛んに鳴いている。
越の海の信濃の浜をゆき暮らし長き春日も忘れて思へや(巻十七 4020)
(訳)越の海に沿った信濃の浜を一日歩き暮らしながら、こんな永い春の日でも、一刻として都の家族を忘れることなどありはしない。
上は、天平20年正月29日に詠まれた4首のうちの2首。鶴の鳴き交わす声は、都に残してきた妻に対する恋慕の情の暗喩になっています。前年中、歌友池主が越前掾に転任して越中を離れてしまったこともあり、この頃家持の歌は孤独の陰影を濃くしますが、越中の風光は何よりの慰めとなったに違いありません。
この年3月には、都から諸兄の使者として田辺福麻呂が越中を訪れました。家持は歓待を尽し、歌人でもあった福麻呂と歌を詠み交わしますが、翌月、聖武天皇の後見役として朝廷に重きをなし、諸兄に信頼を寄せていた元正太上天皇が崩御すると、歌日記は1年近くにわたる沈黙に籠もります。
家持の創作衝動が復活するためには、翌天平感宝元年(749)4月、聖武天皇が東大寺行幸の際に発布された詔を待たねばならなかったようです。建造途上の大仏に対し、陸奥国での黄金産出を報告するこの詔において、聖武天皇は大伴・佐伯氏の言立て「海ゆかば」を引用して両氏を「内兵(うちのいくさ)と心の中のことはなも遣はす」と称賛されたのです。家持はこの際従五位上に昇叙されました。この報は間もなく越中に届き、家持は感激のうちに「陸奥国より黄金(くがね)出(いだ)せる詔書を賀す歌」を作り、聖武天皇への忠誠をいっそう堅く誓うと共に、武門の家大伴氏としての誇りを高らかに謳い上げました。
(訳)「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元に死のう。後ろを振り返ることはすまい」と誓っては、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は...
火がついた家持の創作熱は、さらにこの夏「吉野離宮に幸行の時の為」の儲作歌、「橘の歌」、「雨の落(ふ)るを賀す歌」などを矢継ぎ早に作らせます。風雅を信条とする家持の詩心が、実は大王(おおきみ)への死を辞さぬ赤心と不可分のものであったという事実に、瞠目せざるを得ません。
しかしこの直後、聖武天皇は炎暑のため病状を悪化させ、同年7月、皇太子阿倍内親王に譲位、孝謙天皇の御代が開かれました。内親王の即位と共に大納言に昇進した藤原仲麻呂は、翌月、さらに光明皇太后の政治を輔佐する紫微中台の長官に任命され、もはやその権勢は左大臣諸兄を凌ごうとする程でした。
同じ頃、家持は国府で七夕の歌を詠み(18/4125〜4127)、以後年末まで作歌の記録を欠きます。翌年妻の大嬢が越中に滞在していることなどから、この間(おそらく大帳使として)上京していたと推察されます。都の動向は家持の目に穏やかならぬものと映ったに違いありませんが、大嬢を伴って任地に戻った彼は、年が明け越中での四度目の春を迎えると、再び旺盛な作歌活動を開始します。越中時代のピークをなすと言える、芳醇な抒情的幻想に満ちた作品群は、こうして天平勝宝2年(750)春の盛りに誕生したのでした。
天平勝宝二年三月一日の暮に、春の苑の桃李の花を眺矚(なが)めて作る二首春の苑紅にほふ桃の花下照(で)る道に出立つ乙女(巻十九 4139)
(訳)春の苑は、紅の色に照り映えている。桃の花に染められてほのかに赤く色づいた道に、(紅の裳裾を垂らして)佇む少女たち。
我が園の李(すもも)の花か庭に落(ふ)るはだれの未だ遺りたるかも(巻十九 4140)
(訳)あれは、前栽の李の木が花をつけたのだろうか。(それとも)はらはらと庭に降った斑雪が、枝に消え残っているのだろうか。