越中(こしのみちのなか)の国の文献上の初出は、『続日本紀』文武天皇702(大宝2)年3月17日条、「越中国の四郡を分けて越後国に属(つ)く」と見え、この頃までに律令体制下に組み込まれていたことが判ります。文献に残る最初の国守は732(天平4)年任官の田口朝臣年足であり、家持は名の知れる二人目の越中国守になります。
(訳)ここ、天皇陛下の統治される遠境の政庁は、「神聖な雪の降る越」という名を持つ、空遠く隔たった鄙の地であるので、山は高く川は雄大である。野は広々と草は深く繁っている...
上に引用したのは、越中に着任した翌年、747(天平19)年9月に家持が詠んだ長歌の一節です。「遠の朝廷」はふつう大宰府の代名詞とされていますが、ことさら越中国府をこう呼んでいるのは、西辺の防備・外交を司る大宰府に対し、北辺の防備・外交を司る要所としての越中という意識があったためでしょう。対渤海国及び対蝦夷政策上、越中が重要拠点であったことは、越中守時代の項で述べた通りです。
越中国府の所在地は現在の富山県高岡市伏木(ふしき)にあたります。能登半島の腰骨をなす丘陵地帯の東南端が二上山、その山裾の、富山湾に面した高台の地に国庁はありました。広大な砺波平野・富山平野を眼下におさめ、飛騨山脈まで視界を遮るものがない、まことに一国の国府たるには相応しい土地でした。
越中国の風土的特色は、上の家持の歌の一節に簡潔適確に言い当てられていると思われます。雪深い冬、飛騨・信濃国との境をなす峻嶮たる高山、そこから流れ落ちる水量豊かな数々の河川、そして未墾地の広がる茫々たる平野...。その風土の精粋は、越中時代の家持によって余すところ無く詠い上げられました。
新川郡にして延槻河(はひつきがは)を渡る時に作る歌一首
(訳)立山の雪が溶けたらしい。延槻川の渡り瀬を、鐙まで水に浸かりながら行くのだ。
家持は746(天平18)年秋から751(天平勝宝3)年秋までの満5年間をこの土地で過ごしました。二十代の終りから三十代の前半にあたり、文人としても官人としても充実した、稔り豊かな時代であったと言えます。
越中時代の家持は、「歌日記」とも呼ばれる日々の記録を万葉集巻十七・十八・十九の三巻にわたって残しています。家持がこうした詳細な手記を残す習慣をいつから始めたのか不明なのですが、万葉集を見る限りでは、越中赴任の前後から始まっているように見えるのです。
既に多くの論者によって指摘されている通り、越中時代の家持の「歌日記」が、大伴旅人・山上憶良を中心としたいわゆる大宰府歌巻(万葉集巻第五)を意識したものであることは間違いないでしょう。偶然か左大臣橘諸兄の配慮によるものか、越中には漢文学と倭歌(やまとうた)に素養のある大伴池主が家持より早く掾(じょう=国司の三等官)として赴任していました。家持は池主と盛んに書簡や歌を贈答し、互いの文芸を切磋琢磨することになります。その様は、あたかも旅人と憶良の交友を彷彿とさせます。
とはいえ、万葉巻五と家持の越中歌巻は、似て非なるものと言わねばなりません。巻五は、いわば中国の思想哲学を下地に織り上げた日本的士大夫文芸の精華と言った観を呈しているのですが、いっぽう家持による「歌日記」は、その根を倭歌の生活思想とでも言うべきものに持ち、したがって日録風の形式は家持にとって最も適した表現様式だったのです。ことに越中時代は、その「思想」の自覚過程とも言え、そうした点からも大変興味深い詩想の展開を我々に見せてくれます。
注意しなければならないのは、家持の「歌日記」と呼ばれているものが、偶然残された作歌ノートでもなければ私生活の実録でもなく、極めて意識的に構成された文芸作品である、ということです。そこに見られるのは、倭歌の生活思想(鹿持雅澄・保田與重郎の言葉を借りれば「言霊の風雅」)というフィルターを通した限りでの作者の生活―いわば詩的生活―の記録にほかなりません。
したがって、歌日記に表れたところをそのまま国守家持の全生活と考えると、大きな見当違いを犯すことになってしまいます。それは飽くまでも国守としての職務の合間に綴られたものであり、宴や遊興、孤独への沈潜といった、むしろ非日常的な時間を綴り合わせたような体裁になっています。ここから国守家持の生活を復元することには、多大な慎重さが要求されるわけです。
その点を踏まえた上で、越中時代の家持の暮らしぶりをざっと眺めてゆきましょう。