歌枕紀行 有磯海

―ありそうみ―

有磯海

有磯海は、北陸を代表する名所歌枕である。ある意味で、これは最も典型的な歌枕のひとつと言えるだろう。

まず、これは実在しない海である。というか、もともとそういう名の海は無かった。それは歌の伝承の過程で生まれ、歌人たちの幻想の中で育まれてきた名所であり、風景であり、イメージであった。

「有磯海」のおおもとの出所ははっきりしている。万葉集巻十七にある、大伴家持が越中で詠んだ歌である。

かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを

天平十八年秋、越中に赴任して間もない少壮の国守であった家持が、都から弟死去の報を受け、悲嘆のうちに詠んだ歌の一つである。「こんなことになると知っていたら、越の海の荒磯(ありそ)に寄せる波を見せてやったのに」と痛恨の情をうたっている。

荒磯(原文は安利蘇)はもともと「荒い磯」でなく、現石(アライソ)の意で、海中や海岸に露頭している岩のことをいう(岩波古語辞典)。越中の国庁は現在の富山県高岡市伏木地区にあたるが、付近の海辺は磯が多く、海面に露出した奇岩の見られる景勝の地であった。それを「荒磯」と呼んでいるのである。その後土地が沈降して様変わりしたものの、高岡市の岩崎鼻(渋谷の崎)・雨晴(あまはらし)海岸あたりに往時の面影を留めている。

渋谿の崎
渋谷(しぶたに)の崎

古く山上の大岩が信仰の対象であったように、海上に突き出た大岩も神の顕現として神聖視された。死んだ弟に対し「荒磯の波も見せましものを」と詠むのは、単に物珍しい景色を見せてやれなかった後悔を言っているのではなく、そのような神聖な風景に触れることに、古人たちが生命力の活性化される効験を認めていた為である(この点、私が見た限り、すべての万葉注釈書の解釈は不十分なものである)。

いずれにしても、家持がこの歌で詠んだ「荒磯」は普通名詞であった。

ところがこの歌、平安中期に成立した『家持集』には次のような変形を受けて掲載されている。

死ぬらんとかねて知りせば此の海のありその浜は見せましものを

「越の海の荒磯の波」が「この海のありその浜」に変じている。「浜」は平坦な砂地の海辺をさす言葉だから、「荒磯の浜」と解釈するのは語義矛盾である。「ありその浜」はすでにこの頃地名と見なされていたことになる。夭折してしまった弟に、生前越中の名所を見せてやれなかった後悔をよむ歌になっているのである。

このほかにも、家持は越中の「安利蘇」「安理蘇」をたびたび歌に詠んだ。天平二十年に橘諸兄の使者として越中を訪れた田辺福麻呂の歌にも「安利蘇」が詠まれている。

渋谷(しぶたに)の崎のありそに寄する波いやしくしくに古へ思ほゆ(家持)

おろかにそ我は思ひし乎布(をふ)の浦のありそのめぐり見れど飽かずけり(福麻呂)

 このような歌と、現地に赴任した人々のみやげ話から、次第に越中の海岸風景は都人たちの間にも知れ渡っていったらしい。

『家持集』以前に成立したと思われる古今や後撰には、すでに「ありそ海」の名が見える。

わが恋はよむとも尽きじありそ海の浜の真砂はよみつくすとも([古今]序)
有そ海の浜の真砂と頼めしは忘るることの数にぞありける([古今]読人不知)
ありそ海の浜にはあらぬ庭にても数知られねば忘れてぞ積む([伊勢集])
我もおもふ人も忘るなありそ海うら吹く風のやむ時もなく([後撰]均子内親王)

これらを「荒磯海」として普通名詞に解釈する注釈書が多いが、前三首は「浜」と言っていることからして、やはり越中の歌枕としての「ありそ海」を指していると考えるべきだろう。後撰の均子内親王の歌は万葉の笠女郎の「我も思ふ人もな忘れおほなわに浦吹く風のやむ時なかれ」の改作ないしは誤伝であろうが、もと歌が大伴家持に贈られた歌であることは、ありそ海と越中のつながりを暗示しているように思われる。

さて、中古の歌人たちは歌枕「ありそ海」にどんなイメージを託していたのだろうか。上に掲げた古今序・読人不知・伊勢の歌を見ると、いずれも「数が多いこと」の譬喩として「ありそ海の浜」の砂を用いている。「磯」のイメージとは全く無縁で、砂浜の延々と続く海岸線を想い浮かべさせる地名として使われているのである。

実際、雨晴海岸を過ぎれば、氷見(ひみ)市にかけて七,八キロに及ぶ砂浜がまっすぐにのびている。その美事な海浜風景の伝聞は、都の人々の耳にも届いていたのであろう。そもそも家持が渋谷の崎周辺の「荒磯」の風景をよんだはずの「ありそ」は、対照的な砂浜のイメージに取って代わられたのである。

長浜(島尾海岸)
氷見市島尾海岸

上にあげた後撰の歌は「浦吹く風」をよむが、家持は越の海から吹きつける東風、「あゆの風」をたびたび詠んでいた。北海の風もまた、都の人々の心に印象深く銘記されていたに違いない。やがて「ありそ海」は、ひっきりなしに吹きつける風、打ち寄せる波、忘れ貝などと共に詠まれることが多くなるのである。

わが恋はありその海の風をいたみ頻りに寄する浪の間もなし([新古今]伊勢)
ありそ海の浦とたのめし名残り波うち寄せてける忘れ貝かな([拾遺]読人不知)
人知れぬ思ひありその浦風に波の寄るこそ言はまほしけれ([金葉]藤原俊忠)
いかにせむ思ひありその忘れ貝かひも渚に波よする袖([後鳥羽院御集])
ありそ海の浦吹く風にあらねども止む時もなくものをこそ思へ([拾玉]慈鎮)
ありそ海の浦吹く風もよわれかし言ひしままなる波の音かは([新葉]宗尊親王)

いずれも海景に恋心を託した歌である。寄せる波は、わが心をしきりと襲う恋慕の情を暗喩し、浜にむなしく打ち上げられる忘れ貝は、恋を忘れようとする甲斐なさの象徴である。三首目・四首目では「ありそ」に動詞「あり」を懸けていることは言うまでもない。ありそ海が歌枕として広くゆきわたる上で、掛け詞として用いやすいことも有利な条件であった。

中世も半ばを過ぎると、人々の交通が盛んになるとともに、紀行文が多く書かれ、歌枕の実証的な探求もなされるようになる。室町時代の歌人堯恵は『善光寺紀行』の旅で越中に立ち寄り、「有磯海は此の国の海畔の惣名と聞こえける」と記し、

をさまれる声さへ波に有磯海の浜の真砂に道の数そふ

と詠んでいる。「此の国の海畔の惣名」とは、富山湾沿海一帯を指している。この頃、ようやく有磯海は名所歌枕として実体を伴うに至ったのである。

富山湾ランドサット映像
富山湾のランドサット映像 ―SpaceWalk Japanより―

近世以降も有磯海は盛んに歌に詠まれるが、むしろ俳枕としての誉れが高いと言うべきだろう。その最大の功績者が芭蕉であることは言うをまたない。

『奥の細道』の旅を続けていた芭蕉は、陸奥を横断して日本海沿いを南下し、残暑の厳しい元禄二年七月、越後から越中に入った。

 黒部四十八が瀬とかや、数知らぬ川を渡りて、那古といふ浦に出づ。担籠(たご)の藤波は、春ならずとも、初秋のあはれ訪ふべきものをと、人に尋ぬれば、「これより五里、磯伝ひして、むかうの山かげに入り、蜑の苫葺きかすかなれば、蘆の一夜の宿貸す者あるまじ」と言ひおどされて、加賀の国に入る。

 早稲の香や分け入る右は有磯海

遥か昔家持が歌に詠み、近くは宗祇も尋ねた古来名高い「担籠(田子)の藤波」を一見しようと企てたものの、土地の人から「宿貸す者あるまじ」と脅されて、そのまま加賀金沢への道を取ることにしたのである。かぐわしい初秋の稲田を分け入ってゆく道の右手には、有磯海が見えた。越中の歌枕に心を残しつつこの地を去っていった、芭蕉の無念さが思いやられる。

以後、蕉門の俳諧師にとって有磯海は憧憬の地となり、少なからぬ名句を生み出した。門人のひとりで、越中瑞泉寺の住職、浪化(ろうか)上人が、二度にわたって句集にその名を付けたことからも、有磯海への甚だしい思い入れは窺うことができるだろう。

最近の実用的な地図にも、有磯海の名は大抵載っているようだ。高岡市から氷見市あたりの近海をそう呼んでいるのは、中古以来の歌枕の伝統に沿っている。あたり一帯は能登半島国定公園に指定され、砂浜も松林も保存されているのは嬉しいことである。

高岡市から氷見市までは氷見線というローカル鉄道が通じている。私が乗ったときは二両連結だったが、乗客と言えば通学の高校生くらいしかいなかった。

高岡市街地を抜けると小矢部川の鉄橋を渡り、臨海工業地帯に入る。越中国庁跡に近い伏木の駅は、大きな工場の陰に隠れたような場所である。ここで大半の乗客は降りてしまい、車内はがらがらになった。

工場地帯はたちまち抜けて、大きく左にカーブを切ると、右手に海が見えてきた。富山湾、有磯海である。ここからは終点の氷見までずっと海岸沿いを走る。時には波打ち際を見下ろせるほど海が近くなる。

義経・弁慶が雨宿りしたという大岩のある雨晴海岸は、よく晴れた日には海越しに立山連峰が眺められることでも有名である。その日は朝からどんよりとした冬の雲が垂れ込めて、雪もちらつくような天気だった。立山を眺めるのは諦めて、そのまま氷見まで乗って行くことにした。

氷見線と雨晴海岸
氷見線の線路と雨晴海岸

あちこち巡り歩いて高岡に戻った頃、もう夕方近かったが、空が晴れてきた。東京行きの特急が出るまで少しの余裕があったので、私は再び氷見線の列車に飛び乗った。しばらくして海が見えたが、山のある方向だけ雲がわだかまっている。半ば諦めつつ、ともかく雨晴海岸の駅で降りてみた。

海岸には思いのほか大勢の人が集まっていた。多くはカメラを三脚に据えて、雲が晴れるのを待っているアマチュアカメラマンたちである。沖合いに目をやれば、もう海上は晴れ渡り、雪雲は立山の頂を今にも離れそうだった。

見る間に雲は沖へと去って、雪化粧した山々が蜃気楼のように海の彼方に現れたのである。

麓の方は空の青に溶けていて、峨々たる尾根の連なりばかりが白じらと海の上に浮かんでいる。見たことのない、ファンタスティックな眺めだった。

雨晴海岸より立山眺望
雨晴海岸と立山連峰

家に戻ってから、デジタルカメラで撮った画像をパソコンに取り込み、モニタ上に再現してみたが、立山連峰のあるはずの場所には、雲と見分けのつかないような白いものがぼんやりと映っているだけだった。肉眼で見た風景と、安物のカメラ映像の落差には慣れっこだったから、今さら落胆もしなかったが…。

それにしても、有磯海の古歌に、なぜ海越しの立山連峰が詠まれていないのだろうか。いにしえの歌人たちは、あの光景を目にして、歌を詠もうとは思わなかったのだろうか。詠むことができなかったのだろうか。私には、それが不思議でならないのである。



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表紙越中北陸道歌枕紀行歌枕一覧

©水垣 久 最終更新日:平成11-04-28
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