水無瀬恋十五首歌合 ―夏の恋―


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〔夏恋〕夏という季節における恋。先例としては、『千載集』恋三に源雅頼の同題の作があるほか、『夫木和歌抄』に能因法師・源俊頼、『万代和歌集』に源道済の詠が見られる。近くは正治二年(1200)二月の「左大臣家歌合」で定家・寂蓮・隆信らが同じ題で詠んでいる。蛍に燃える恋心を託したり、短夜に恋の儚さを喩えたりする例が多く、新古今時代になると古今集の「なくや五月のあやめ草」の本歌取りが目立つ。


六番 夏恋
   左           親定
さてもいかに岩かき沼のあやめ草あやめもしらぬ袖の玉水
   右            俊成卿女
はかなしや夢も程なき夏の夜のねざめばかりの忘れがたみは

「寝覚ばかりの忘れがたみは」といへるも、優ならざるにはあらず侍るにや。しかあれども、「さてもいかに」とおきて、「あやめもしらぬ袖の玉水」といへる、物のあやめしるばかりの者の、いかがよろしからずとは思ひ侍るべき。左ヲ以テ勝ト為。

左(後鳥羽院)
さてもいかに岩かき沼のあやめ草あやめもしらぬ袖の玉水


【通釈】さあ、いったいこの想いをどう言ったらいいものか。「岩垣沼に生えるあやめ草」ではないが、「あやめも知らぬ」涙が落ちて、袖に滴(しずく)を置くばかりだ。

【語釈】◇岩かき沼―岩垣沼。石で囲まれた沼。万葉集以来の歌語。「岩」に「(いかに)言はむ」を掛ける。下記本歌に拠って、「あやめ草」を導く。◇あやめ草―ショウブ。古今集の本歌によって、「あやめも知らぬ」を導く。◇あやめも知らぬ―条理もわからない。筋道立てて考えることもできない。「あやめ」に「文目(あやめ)」すなわち織目模様の意を掛け、「袖」を導く。◇玉水―涙のしずく。

【本歌】小弁「後拾遺集」
引き捨つる岩垣沼のあやめ草思ひ知らずも今日にあふかな
 よみ人しらず「古今集」
時鳥なくや五月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな

【補記】掛詞や古歌への連想をつらね、ただもう句のつなげ方に徹底的に凝った、超絶技巧の作である。

【他出】「新続古今集」1035、「後鳥羽院御集」1596。

●右(俊成卿女)
はかなしや夢も程なき夏の夜のねざめばかりの忘れがたみは


【通釈】はかないわよねえ。夢もあっという間に終わってしまう、夏の夜の寝覚め――そんな程度の思い出しか(あの人との恋に)残っていないとは。

【語釈】◇はかなしや―「はかなし」は、手ごたえがなくあっけない、頼りない、むなしい、といった心。「や」はいわゆる詠嘆・疑問の助詞。「はかないことだなあ」と詠嘆する、または「はかないことではない?」と自分に問いかけているような気持。初句切れ。◇夢も程なき―夢も程なく覚めてしまう。◇忘れがたみ―思い出のよすがとなるもの。この場合、恋の記念となる思い出のこと。

【補記】初句切れで詠嘆を籠めたあと、流麗な声調で結びまで一息に持って行く、という詠い方は、千載・新古今の頃に流行した。そうした詠法を踏襲している。夏の短夜の夢のようにはかない恋、という趣向も新しくはない。

【参考歌】
夏の夜のわびしきことは夢にだにみる程もなく明くるなりけり(「小町集」)
はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにまよふ夢のかよひぢ(式子内親王「千載集」)

【他出】「続拾遺集」986、「俊成卿女集」214。

■判詞
「寝覚ばかりの忘れがたみは」といへるも、優ならざるにはあらず侍るにや。しかあれども、「さてもいかに」とおきて、「あやめもしらぬ袖の玉水」といへる、物のあやめしるばかりの者の、いかがよろしからずとは思ひ侍るべき。左ヲ以テ勝ト為。


【通釈】「寝覚ばかりの忘れがたみは」というのも、優でないことはないでしょう。そうではあるけれども、「さてもいかに」と置いて、「あやめもしらぬ袖の玉水」と詠んだのは、物の条理を知るほどの人が、どうして良くないなどと思うことがあるでしょうか。左を勝とします。

【語釈】◇優(いう)―優美であったり、品格を感じさせたりする点において、すぐれていること。洗練されていること。◇物のあやめしるばかりの者―言うまでもなく後鳥羽院の作にひっかけて言っている。俊成は判詞でも時々こうした芸を見せる。

▼感想
流麗な調べが印象的な二首の取り合わせ。やや型にはまった観のある俊成卿女の作に対し、後鳥羽院の目も綾な技巧が優った。


七番
   左            宮内卿
みに余る思ひをさても夏虫のわれひとりとや色にいづべき
   右           有家朝臣
しのびあまりなくや五月のあま雲のよそにてのみや山郭公

左は「みにあまる」といひ、右は「忍びあまる」といへるこころは、ともにいうならざるにはあらず侍るを、左は「我ひとりとや色に出づべき」といひ、右は「よそにてのみや山ほととぎす」といへる文字つづき、すこしはまさるべきにや侍らん。

●左(宮内卿)
みに余る思ひをさても夏虫のわれひとりとや色にいづべき


【通釈】小さな体に余るほどの思いの火を、まあ蛍ったら燃やして――あの蛍のように、私もひとりだけで恋に身を燃やし、思いを外に表わしてしまうことになるのかしら。

【語釈】◇みに余る―虫の小さな体に余る程の。◇思ひ―ヒに火を掛ける。夏虫の縁語になる。◇さても―さてさて。なんとまあ。感動詞。◇夏虫―夏になると出て来る虫。蛾・蚊などを言うこともあるが、この歌では蛍。◇色に出づ―内心の思いを顔色・様子などにあらわし、人に知られてしまう。

【参考歌】「伊勢集」
夏虫の思ひに入りてなぞもかくわが心からもえむとはする
 読人不知「後撰集」
つつめども隠れぬものは夏虫の身より余れる思ひなりけり

右(有家)
しのびあまりなくや五月のあま雲のよそにてのみや山郭公


【通釈】忍ぼうとして忍びきれず鳴くホトトギス、五月雨を降らす雨雲に隠れていて、その声は遠くから聞こえるばかり。そんなふうに、あの人とはよそよそしいまま、私の恋は終わってしまうのだろうかね、山ホトトギスよ、おまえのようにひっそりと泣くばかりで。

【語釈】◇よそにてのみや―「よそ」は「かけ離れていて関係ない所」(岩波古語辞典)。◇山郭公―山にいるホトトギス。「止(や)まん」を掛ける。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
時鳥なくや五月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな
 よみ人しらず「新古今集」
よそにのみ見てややみなんかづらきや高間の山の嶺のしら雲

■判詞
左は「みにあまる」といひ、右は「忍びあまり」といへるこころは、ともにいうならざるにはあらず侍るを、左は「我ひとりとや色に出づべき」といひ、右は「よそにてのみや山ほととぎす」といへる文字つづき、すこしはまさるべきにや侍らん。


【通釈】左は「身に余る」と詠み、右は「忍びあまり」と詠んだ心は、どちらも同じく優でないことはありませんが、左が「我ひとりとや色に出づべき」と詠んだのに対し、右が「よそにてのみや山ほととぎす」と詠んだ文字のつづき具合は、少し勝っているとするべきでしょうか。

▼感想
古歌を継ぎはぎしたような二首の取り合わせである。句のつなげ方の工夫に命がある、と言える。宮内卿のは「思ひをさても」などに苦心の跡が見えるが、型通りの内容。まるで情が籠もっていない。


八番
   左           権中納言
よそにては軒の橘かをる夜にむかし語りをしのぶとやみむ
   右            雅経
きかじ只人待つ山の郭公我もうちつけのさよの一こゑ

左歌、心かすかには侍れども、すがた詞いうに侍るを、右歌、始めに「きかじただ」といへるは、あまりなるやうに侍れど、末の句など、今すこし心有りて聞え侍るにや。なぞらへて持とすべし。

△左(公継)
よそにては軒の橘かをる夜にむかし語りをしのぶとやみむ


【通釈】こんなふうに軒先の橘が香る夜、私は人と思い出話をしていて、昔をなつかしがっていると他人からは見えるだろうか。(本当は、そうじゃないのだけど。)

【語釈】◇よそにては―他人から見れば。末句の「みむ」に掛かる。◇橘―橘の花。古今集の歌「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」から、その香は昔の人(特に恋人)を思い出させるものとされた。◇しのぶ―偲ぶ。古家の軒にはシノブ草が生えるとされたことから、「軒」の縁語になる。

【補記】作者は家で誰かと思い出話をしている――という設定なのであろう。軒を過ぎてくる初夏の風は、橘の香とともに部屋の中に吹き込んでくる。すると、古歌にあるように、作者は、昔の恋人の袖の香を思い出す。そうして物思いに耽るのである。内心を知らない人は、ただ昔話をなつかしがっていると見ているだろうが、実は…という歌であろう。心をあからさまに表わす言葉は一つも用いずに、ただ本歌からの暗示のみによって、懐旧の恋を詠んでいるのである。

△右(雅経)
きかじ只人待つ山の郭公(ほととぎす)我もうちつけのさよの一こゑ


【通釈】決して聞くまい、人を待つ時の、松山の郭公は。夜更けにその唐突な一声を聞いたら、私もわけなく恋心がまさり、泣いてしまうだろうから。

【語釈】◇きかじただ―ひたすら聞くまい。先蹤は慈円の六百番歌合の歌「きかじただつれなき人の琴の音にいとはず通ふ松の風をば」。◇人待つ山の郭公―恋人を待つ時の、松山の時鳥の声。「待つ」に「松」を掛ける。下記本歌参照。◇我もうちつけの―「うちつけの」は、突然の・その場限りの・深い理由もない、ほどの意。末句に掛かり、「突然の一声」の意になるが、同時に本歌によって「うちつけに恋まさる」が連想され、「私も急に恋心がつのるだろう」の意味が重なってくる。

【本歌】紀貫之「古今集」
郭公人まつ山になくなれば我うちつけに恋まさりけり

【他出】「明日香井和歌集」1098。

■判詞
左歌、心かすかには侍れども、すがた詞いうに侍るを、右歌、始めに「きかじただ」といへるは、あまりなるやうに侍れど、末の句など、今すこし心有りて聞え侍るにや。なぞらへて持とすべし。


【通釈】左の歌は、内容が弱くはありますけれども、姿・詞は洗練されています。いっぽう右の歌は、始めに「きかじただ」と詠んだのは、余りに大仰すぎるようですが、下の句などは、少しまさって情趣があるように聞えるのではないでしょうか。同等として、引き分けとするべきでしょう。

【語釈】◇心かすかに―この「心」は歌にこめられた、あるいは歌から感じ取れる、感情や情趣など、内容面を言っていると思われる。「かすか」は、弱いさま。意味内容が強く伝わってこない、という批判であろう。◇今すこし心有りて―左の歌にくらべ、右の歌の下句「我もうちつけのさよの一こゑ」の情趣が稍まさっている、ということ。

▼感想
心で劣り、姿・詞ですぐれる左歌と、詞には少々難点があるが心で稍まさる右歌を同格として、引き分けとした。


九番
   左           左大臣
草ふかき夏野分け行くさをしかの音にこそたてね露ぞこぼるる
   右            家隆朝臣
時ぞとや夜半の蛍をながむらんとへかし人のしたの思ひを

左歌、よそへいふすがた詞、誠にをかしくこそ見え侍れ。右歌、「とへかし人の下の思ひを」といへる、またよろしくは侍るを、句のはじめの「と」の字、ふかき難には侍らねど、歌合には只なるよりは耳にたつやうに侍るうへに、なほ左の「音にこそたてね露ぞこぼるる」もとも勝つべきにや侍らん。

左(良経)
草ふかき夏野分け行くさをしかの音にこそたてね露ぞこぼるる


【通釈】草深い夏の野を分けて行く牡鹿は、鳴き声こそ立てないけれど、草の露がこぼれ、しとどに濡れている。――そのように私も、声にこそ出さないけれど、恋心を忍んで涙を流しているのだ。

【語釈】◇音(ね)にこそたてね―声にこそ立てないが。鹿は秋に鳴き、夏は鳴かないとされた。「たてね」の「ね」は否定の助動詞「ず」の已然形。なお、親長本では「ねをこそたてね」。◇露ぞこぼるる―露は野の縁語。露に涙を暗示している。

【補記】上句は万葉の序詞風に詠んでいるが、「さをしかの」までを序と考えるか、一首全体で比喩になっていると考えるか、説は分かれる。いずれにしても、上句「草深き夏野分け行くさをしか」は単なる序ではあり得ず、「忍ぶ恋」に耐えて世を経る辛さの象徴となっている。調べに張りがあり、気品のある恋歌に仕上がっている。

【参考歌】柿本人麿「万葉集」
夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
 鴨長明「長明集」「風雅集」
しのぶればねにこそたてねさをしかのいる野の露のけぬべきものを

【他出】「若宮撰歌合」二番左負、「水無瀬桜宮十五番歌合」二番左負、「新古今集」1101、「秋篠月清集」1437。

●右(家隆)
時ぞとや夜半の蛍をながむらんとへかし人のしたの思ひを


【通釈】蛍を眺めるのによい時節だと、そんな気持で、この夜半、のんびりと蛍を眺めているのだろうか。尋ねてくれよ、恋人は。私が心の中でひそかに燃やしている思いの火を。

【語釈】◇時ぞとや―今がその時(蛍を眺める季節)だからというわけで。「や」は疑問。◇とへかし人の―「人のとへかし」の倒置形。人が尋ねてくれ。「秋の暮とへかし人の山里をかりたの原にうづら鳴くなり」(俊成「正治二年初度百首」)。◇したの思ひ―内心のひそかな思い。思ひのヒに火を掛ける。

【他出】「壬二集」2798。

■判詞
左歌、よそへいふすがた詞、誠にをかしくこそ見え侍れ。右歌、「とへかし人の下の思ひを」といへる、またよろしくは侍るを、句のはじめの「と」の字、ふかき難には侍らねど、歌合には只なるよりは耳にたつやうに侍るうへに、なほ左の「音にこそたてね露ぞこぼるる」もとも勝つべきにや侍らん。


【通釈】左の歌は、比喩を用いて詠む姿・詞、まことに興趣深く見えます。右の歌は「とへかし人の下の思ひを」と詠んだ句がまたよろしくはありますが、初句の「と」の字は、甚だしい難ではありませんけれども、歌合では、普通の場合よりも耳に立って聞えます以上は、やはり左の「音にこそたてね露ぞこぼるる」が、当然、勝ちとなるべきでしょうか。

【語釈】◇よそへいふ―なぞらえて言う。喩えて言う。◇歌合には只なるよりは耳にたつやうに侍る―「只なる」は、普通である・平凡である。「耳にたつ」は、耳に刺戟的に聞える・耳ざわりに聞える。歌合の歌では、特に声調の良さが重んじられた。

▼感想
それぞれ鹿と蛍に寄せて恋心を詠んだ歌の取り合わせ。歌では秋の題材とするのが普通の鹿を、夏の恋に用いたところに、まず左歌の手柄があろう。右歌も出来は悪くないが、声調の堅さが初句にあったことを理由とし、負となった。「おほやけ」の場である歌合においては、詠み上げたときの「耳立つ」感じが特に嫌われたのである。


十番
   左           前大僧正
夢にだにかさねぞかぬる夏衣かへすとすれば明くるしののめ
   右            定家朝臣
郭公空につたへよ恋ひわびてなくや五月のあやめわかずと

左、「かへすとすれば明くる東雲」、まことにをかしく見え侍るを、右、「空につたへよ恋ひわびてなくや五月の」などいへる、文字つづき、あしからずはべるにやとて、れいのおのおの定め申し侍りて、持にまかりなりにしなり。

△左(慈円)
夢にだにかさねぞかぬる夏衣(なつごろも)かへすとすれば明くるしののめ


【通釈】夢でさえ、あの人と重ねることが叶わない、夏の夜着――裏返そうとしたら、もう夜が明けてほのぼのと白んでくるよ。

【語釈】◇夢にだに―現実ばかりか、夢でさえ。◇かさねぞかぬる―重ねようにも重ねることができない。「衣を重ねる」とは、脱いだ互いの衣を重ね合わせて寝ること。「ぞ」は強調の助詞。下二段動詞「かぬ」は、動詞の連用形に付いて「…しおおせない」「…しようとしても、できない」の意になる。◇かへすとすれば―衣を裏返して寝ると、恋人に夢で逢えるという俗信があったことは、小野小町の古今集歌「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る」などに例が見られる。◇しののめ―明け方、東の空がほのぼのと白みかける頃。

【本歌】紀貫之「古今集」
夏の夜のふすかとすれば郭公なくひとこゑに明くるしののめ

【補記】「夏衣」は「蝉の羽」にも喩えられる、薄い夜着である。小町の歌をほのめかし、美女の寝姿を想起させる艶な歌になっている。当然女の立場で詠んだ歌と考えるべきであろう。

【他出】「拾玉集」4947。

△右(定家)
郭公空につたへよ恋ひわびてなくや五月のあやめわかずと


【通釈】ほととぎすよ、空を飛んで行って、あの人に伝えてくれ。私は恋しさに嘆いて泣き、「五月のあやめ草」ではないが、もう何が何だかわけが分からなくなっていると。

【語釈】◇恋ひわびて―恋しがり、つらさに嘆いて。「恋ひわび」は「恋する気力も失って」の意味にもなるが、ここは違う。◇なくや五月の―下記本歌を踏まえる。◇あやめわかずと―「あやめ」は条理・筋道。「あやめわかず」は、惑乱のあまり筋道だった考えも出来なくなっている、ということ。同時に、袖が涙で朽ち、織り模様がわからなくなっている、という意を掛ける。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
時鳥なくや五月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな

【補記】本歌では五月を告げて鳴くだけの郭公を、恋の使者に引っ張り出してきたところが面白い。

【他出】「拾遺愚草」2537。

■判詞
左、「かへすとすれば明くる東雲」、まことにをかしく見え侍るを、右、「空につたへよ恋ひわびてなくや五月の」などいへる、文字つづき、あしからず侍るにやとて、れいのおのおの定め申し侍りて、持にまかりなりにしなり。


【通釈】左の「かへすとすれば明くる東雲」という句は、まことに興趣深く見えますが、右の「空につたへよ恋ひわびてなくや五月の」などと詠んだ詞のつづき具合は、なかなか良いのではないでしょうかと、例の如く会衆の方たちが各々定め申しまして、引き分けになったのでございます。

【語釈】◇あしからず侍るにや―悪くないのではないでしょうか。衆議判で出た意見の引用である。◇おのおの定め申し侍りて―歌合の参席者が、それぞれの歌について評価を定めた、ということ。判者はここでも当日の衆議判に従ったのである。◇まかりなりにしなり―「まかり」は謙譲表現。

▼感想
いずれも郭公を詠んだ名歌中の名歌を本歌取りした、調べの美しい、艷麗な二首の対戦となった。判詞を見る限り、会衆の評判も上々だったようである。



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最終更新日:平成13年11月7日