世尊寺行房 せそんじゆきふさ 生年未詳〜延元二(1337)

藤原北家伊尹流。行成以来の書の名家の出である。従二位経尹の子。実父は少納言経名で、経尹は実の祖父という。一条と号す。
少納言・大膳大夫・右京大夫などを歴任。後醍醐天皇に近侍し、元弘二年(1332)、同天皇の隠岐遷幸に供奉する。延元元年(1336)、新田義貞に属し、北越に赴く。翌二年三月六日、越前金ヶ崎城陥落の時、尊良親王・新田義顕と共に戦死した。
玉葉集初出。勅撰入集は七首。また新葉集に二首採られている。尊円親王の書の師匠。

暁雪を

暁につもりやまさる外面(そとも)なる竹の雪折れこゑつづくなり(玉葉976)

【通釈】暁になって雪は一層降り積もるのだろうか。家の外の竹林で雪折れの音が聞こえ続けている。

【参考歌】藤原範兼「新古今集」
あけやらぬねざめの床にきこゆなり籬の竹の雪の下をれ

題しらず

かへりみる都のかたも雲とぢてなほ遠ざかる五月雨の空(新葉535)

【通釈】都の方を顧みれば、厚い雨雲に閉ざされて、いっそう遠く隔てられている梅雨空であるよ。

【補記】羈旅歌。「行房は北越では梅雨の季節にあはずして死んだ。これは多分、隱岐の遠島での作であらう」(川田順『吉野朝の悲歌』)。

【参考歌】藤原長綱「遠島歌合」
かへりみるわが故郷は霧こめていやとほざかる大よどの浦


最終更新日:平成15年08月08日