二条良実 にじょうよしざね 建保四〜文永七(1216-1270) 号:普光園院

藤原道家の二男。母は太政大臣西園寺公経の娘。教実の同母弟。一条実経の同母兄。五摂家の一つ二条家の祖。道良・教良・師忠ほかの父。
嘉禄二年(1226)、元服して正五位下。侍従・右少将・右中将を歴任し、寛喜三年(1231)三月、権中納言に任ぜらる。同年十月、春宮権大夫。天福元年(1233)四月、左大将を兼ねる。文暦二年(1235)十月、二十歳にして内大臣に就任。同年、兄の教実が夭折。嘉禎二年(1236)六月、右大臣に転ず。この年従一位。同四年七月、左大臣。後嵯峨天皇の仁治三年(1242)三月二十五日、関白の地位に就く。この時二十七歳。しかし父道家は弟の実経を偏愛し、天皇の信任も実経に傾いたため、寛元四年(1246)、弟に関白の地位を譲ることを余儀なくされた。同年の名越光時の乱では北条氏に内通したことを道家に疑われ義絶される。道家の没後、亀山天皇の弘長元年(1261)四月に関白に復帰。文永二年(1265)、再び実経に関白を譲るも、同年内覧の宣旨を賜った。文永七年十一月十一日、病のために出家し(法名は行空)、同月二十九日に薨じた。五十五歳。
貞永元年(1232)七月の光明峰寺摂政家歌合、弘長三年(1263)二月十四日亀山殿御会などに出詠。自邸でも度々歌会を催した。新勅撰集初出。勅撰入集計三十八首。

題しらず

見わたせば山の裾野に霧はれて夕日にむかふ松のむらだち(続拾遺272)

【通釈】見渡せば、山の裾野に立ちこめていた霧は晴れて、姿をあらわした松の木立の群――斜陽と相対し、夕映えに染まっている。

【補記】『和漢兼作集』には「秋の比普光園にて」の題。あるいは実景に接しての作か。霧が晴れた山裾、秋の夕日を受けて、松林が常になくきわやかに見える。

恋歌の中に

めぐりあはむ有明の月をかたみぞと言ひしばかりを思ひ出にして(玉葉1805)

【通釈】再びめぐり逢おう。別れの朝に眺めた有明の月を忘れ形見にしようと約束した――それだけを思い出として胸に秘めて。

【補記】使い古された題材と趣向ではあるが、初句切れ・倒置の構文が思いの強さを滲み出している。

【参考歌】素性法師「古今集」
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
  藤原顕綱「続後撰集」
世の中になからむのちに思ひ出でば有明の月をかたみとは見よ


更新日:平成15年03月14日
最終更新日:平成21年01月24日