本居大平 もとおりおおひら 宝暦六〜天保四(1756-1833) 号:藤垣内(ふじのかきつ)

伊勢松坂の町家に生れる。本居宣長の門下であった稲掛棟隆の長男。幼名を常松、のち茂穂・重穂。
十三の年、鈴屋門に入る。宣長よりその学才と人柄を愛され、寛政十一年、四十四歳の時、本居家の養子に迎えられる。宣長の実子春庭は失明していたため、宣長の死後、本居家の家督を継いだ。紀州徳川家に仕え、文化六年(1809)には和歌山に居を移す。天保四年九月十一日、没。七十八歳。墓は和歌山市男野芝丁の吹上寺にある。千人を数えたという門弟には本居内遠(養子)・海野幸典加納諸平らがいる。
家集には、近体の歌を集めた『稲葉集』、古体の歌を集めた『藤垣内集』がある。他の著書に『倭心三百首』『古学要』『神楽歌新釈』『玉鉾百首解』など。古学派の和歌集成として重要な『八十浦之玉』の編纂者でもある。

「稲葉集」 続歌学全書3・本居宣長全集6(明治36年、吉川弘文館。宣長全集の附録として春庭・大平・内遠の全集を合本)・増補本居宣長全集11(昭和13年、吉川弘文館。春庭全集・大平全集を合本)・校註国歌大系16
「藤垣内集」 続歌学全書9

四方拝

となへます星の手向のともし火に夜深く春の光をぞ見る(稲葉集)

【通釈】天子のお唱えになる当年の属星の名――その星に捧げる灯火に、夜深くあって春の光を拝見するのである。

【語釈】◇四方拝 元旦の寅の刻、天皇が清涼殿の東庭で天地四方を拝した儀式。平安時代から今に続いているという。◇となへます星 四方拝の際、当年の属星(年ごとに定められた、北斗七星のうちの一星。運命を左右する星とされた)の名を唱えた。

【補記】宮中の四方拝を想像しての詠。

【参考歌】二条良基「年中行事歌合」
すべらぎの星をとなふる雲のうへに光のどけき春は来にけり

夕花

まさるらむ空の色とも見えなくに花にあやしき春の夕ばえ(稲葉集)

【通釈】空の色が濃くなってゆくのだろうか。そうとも見えないのに、花のために不思議なばかりに美しい春の夕映えよ。

【語釈】◇あやしき 感嘆詞「あや」に由来する語かという。不思議な現象に対して思わず嘆声を発するような心であろう。

更衣

花の陰なれしも夢か空蝉の羽衣うすく夏は来にけり(稲葉集)

【通釈】桜の花の陰に慣れ親しんだのも今思えば夢であったか。蝉の羽のような薄い衣に着替えて、もう夏になったのだ。

【語釈】◇空蝉の羽衣 蝉の羽のように薄い、夏用の衣。

【補記】春から夏への衣替えを詠む。「花の陰なれし」には、春に着た花染め衣を暗示し、王朝のみやびを慕っている。

【参考歌】「源氏物語・幻」光源氏
羽衣のうすきにかはる今日よりはうつせみの世ぞいとど悲しき

雨後月

雨はれてよそなる空をゆく雲もあらしの末に見ゆる月かげ(稲葉集)

【通釈】雨が上がり、空の遠いところを流れて行く雲も、やがて消えて無くなるだろう――そう思って眺めていると、嵐のやんだ末にあらわれた月の光よ。

【語釈】◇よそなる空 遠くの空。◇あらし 嵐に「あらじ」、すなわち「やがて無くなるだろう」意を掛ける。

【補記】掛詞を用いて、移ろいゆく自然の相を三十一文字に歌いおさめた手際は見事。

【参考歌】崇徳院「千載集」
もみぢ葉の散りゆく方を尋ぬれば秋もあらしの声のみぞする

峯紅葉

こがれこし我が心をもさればよと峯のもみぢの色に見るかな(稲葉集)

【通釈】焦がれる思いでやって来た私の心も、まさにその色であったのだと、峯の紅葉の色におのが心の色を見るのだ。

【語釈】◇さればよ 「思った通り」「案の定」などの意。恋い慕っていた紅葉を目にして、さながら焦がれていた自分の心を見るようだ、との気持。

寛政十年、古事記伝四十四巻、ことごとくしるしをへて、其よろこびに、九月十三日の夜、鈴屋に人々つどへて宴せられけるを、まけの題に披書視古といふ題にてよめる

遠御代(とほみよ)の世のありさまもまさやかにその(ふみ)見れば見るごと見えけり(八十浦之玉)

【通釈】遠い御代の世のありさまも、その書物を見れば、隅々まで明らかに、まのあたりにするように見えるのであった。

【補記】養父本居宣長は寛政十年(1798)、三十五年の歳月をかけた『古事記伝』四十四巻を完成。その祝いの宴を鈴屋で催した時、「披書視古(書を披きて古を視る)」の設(まけ)題(予め用意されていた題)で詠んだ歌。


公開日:平成19年12月09日
最終更新日:平成19年12月09日