伝不詳。伊勢国の采女として雄略天皇に仕えた。古事記に雄略天皇に献った歌一首を伝える。
纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日翔る宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根這ふ宮 八百土よし い杵築の宮 真木さく 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は 鮮衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盃に 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろ こをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も こをば
【通釈】纏向の日代の宮は、朝日のかがやく宮。夕日の射す宮。竹の根のように、しっかり根を下ろした宮。木の根のように、しっかり根を張った宮。たくさんの土で、土台を築いた宮。その檜造りの宮殿の 新嘗屋に、生えて立っている、枝をたくさん繁らせた、ケヤキの樹の枝は、上の方の枝は、天を覆っています。真ん中の枝は、東国の方を覆っています。下の枝は、西国の方を覆っています。上の枝の先端の葉は、真ん中の枝に落ちて触れ合い、真ん中の枝の先端の葉は、下の枝に落ちて触れ合い、下の枝の先端の葉は、三重の采女が捧げておいでの、めでたい盃に、浮き脂のように、落ちて浮かび、大昔、神々が塩水をごろごろとかき混ぜて、脂からこの国をお造りになりました、ちょうどそのように、まあ畏れ多くも勿体ないことでございます。日の御子様。事の語り伝えは、かようでございます。
【語釈】◇纏向の日代の宮 景行天皇の宮。纏向は奈良県桜井市穴師(旧纏向村)。古事記では宴会が行なわれたのは泊瀬(長谷)とあり、説話と歌とで齟齬をきたす。◇夕日の日がける宮 「日がける」は日翔るで、光線が天を走り地に射すことか。「日陰る」と見る説もある。◇鄙 もともとは西北方向の地方を指したらしい。「皇都をさかりたる地をなべていふ名にはあらずして、方土につきていひし名なり、その方土に就ていひしとは、畿内近國をさかりたる、西方北方の國を比那といひ、東方の國をば阿豆麻といひしことにぞありける」(『万葉集古義』)。◇鮮衣(ありきぬ)の 三重の子 「ありきぬの」は「三重」の枕詞。「三重の子」は三重の采女を指す。◇水こをろこをろに 古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国生み神話に「鹽をこをろこをろに」とある。盃に浮いた葉を国土草創期の浮き脂に見立て、宮を誉め讃える寿詞に転じたのである。雄略天皇が三重采女の不始末を許したのは、彼女のこのような機転を好しとしたからである。
【補記】古事記下巻。ある時、雄略天皇は泊瀬の大きなケヤキの木の下で宴会を催した。伊勢の国の三重の采女が盃を捧げようとした時、ケヤキの葉が落ちて盃に浮かんだが、采女は知らずに御酒(みき)を献った。天皇はその葉を見て怒り、采女を打ち据えて刀を抜き、切っ先を采女の首に当て、まさに斬ろうとした時、三重の采女は「どうか命をお救いください。申すべきことがございます」と言って上の歌を詠んだ。天皇はこれを聞き、采女の罪を赦したという。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月10日