和宮 かずのみや 弘化三〜明治十(1846-1877) 諱:親子(ちかこ) 法号:静寛院(せいかんいん)

仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。母は権大納言橋本実久の娘、典侍経子(観行院)。
弘化三年閏五月十日、京都の外祖父実久邸に生れる。父帝は同年正月に崩じ、遺腹の子であった。
嘉永四年(1851)、六歳のとき有栖川宮熾仁(たるひと)親王との婚約が成立した。ところが安政六年(十四歳)、入輿の直前になって大老井伊直弼らにより公武合体の保証として将軍家茂への皇女降嫁が画策される。翌万延元年(1860)、直弼は桜田門外に斃れたが、幕府側は和宮降嫁を朝廷に奏請。孝明天皇はこれを謝絶するも、幕府は再三強く要請し、天皇は岩倉具視の建言を入れ、鎖国攘夷の誓約を条件として遂に聴許するに到った。初め剃髪も辞さない覚悟でこの縁談を拒絶していた和宮も余儀なく関東降嫁を承諾し、文久元年(1861)十月、桂御所を発した御輿は、中仙道を経て十二月、江戸城に入った。翌文久二年二月、十四代将軍徳川家茂との婚儀が挙行せられる。
江戸大奥での和宮に対する待遇は礼節を欠くこと少なくなく、また武家風の生活習慣との齟齬ゆえ姑の天璋院との関係は困難をきわめた。しかし、同い歳の家茂は誠実な愛情を以て和宮に接し、夫婦仲は睦まじいものであったという。
この間尊攘倒幕運動は激化し、家茂は文久三年(1863)二度にわたり上洛して孝明天皇と公武一和の推進を図った。慶応元年(1865)には長州征討のため江戸を発ち、大阪在陣中に発病、翌慶応二年七月死去した。享年二十一。江戸で報せを受けた和宮は直ちに落飾を決意し、同年十二月、薙髪して静寛院を称したが、その後も江戸城に留まった。翌年正月、兄天皇の崩御の報に接する。
将軍職は一橋慶喜に継承され、和宮は攘夷政策の維持を度々要望したが、慶喜はこれに応えることなく、兵庫開港を決意。時局は開国和親に向かい、和宮降嫁の所期の意図は水泡に帰した。
慶応三年(1867)十二月九日、王政復古。翌慶応四年正月に戦端を開いた鳥羽伏見の戦は幕軍の敗北に終り、朝廷は徳川氏追討令を発する。朝廷への帰順を決意した慶喜は、和宮への面会を望んで謝罪の周旋を依頼した。和宮はこれを承諾し、使者を立てて慶喜の嘆願書と自らの直書を京へ送った。以後も徳川の家名存続と官軍・幕軍の衝突回避に懸命の努力を重ね、同年三月、江戸無血開城に至った。
徳川家の駿河移封を見届けた後、明治二年(1869)、京都に帰住。翌年、父帝の二十五回忌に際し泉山の御陵に参詣、年来の宿願を果した。明治七年(1874)、再び東京に移り、麻布市兵衛町の邸に入る。同十年八月、脚気治療のため箱根塔ノ沢に赴いたが、九月二日、衝心の発作により、同地の旅館環翠楼で薨去。三十二歳。芝増上寺の夫家茂の墓と並べて葬られた。
和歌は有栖川宮幟仁(たかひと)親王・三条西季知(すえとも)らに指導を受けた。『静寛院宮御詠草』に千七百余首の歌を収める。

「静寛院宮御詠草」 女人和歌大系3

みささぎを伏し拝みて

袖に置く涙のつゆにうつしませ逢ふがまほしと恋ふる御影(みかげ)(静寛院宮御詠草)

【通釈】父上のことを思いますたびに、私の袖に涙が落ちます。その滴(しずく)に映してください、お逢いしたいと恋うる父上のおん面影を。

【補記】明治三年(1870)正月、父帝(仁孝天皇)の二十五回忌に京都泉山の御陵に参拝した折の詠。和宮の父仁孝天皇は宮の生誕直前に亡くなった。

都の春にあへるかしこさを

ことしこそのどけさおぼゆ去年(こぞ)までは春を春とも知らざりし身の(静寛院宮御詠草)

【通釈】今年の春は、やっと長閑さを感じる。去年までは、季節が春になっても、そうとは気づきもしなかった自分が。

【補記】明治三年正月、京都での作。同題四首のうち二首目。一首目は「めぐみある御代にひかれてあづさ弓都のはるに逢ふがうれしさ」。

―参考― 家集には見えないが、和宮の作と伝わる歌

 

惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも

【通釈】惜しみはしますまいよ。君と民のためならば、この身は武蔵野の露として消えましょうとも。

【補記】『御詠草』には洩れたが、和宮の歌として伝わる作。文久元年(1861)十月、江戸下向に先立ち参内し、天皇(兄の孝明天皇)に暇を申し上げた時の作。あるいは文久三年春、夫家茂の上洛中、夫を思って詠んだものともいう。

 

うつせみの唐織衣なにかせむ綾も錦も君ありてこそ

【通釈】おみやげに所望した西陣織の衣も、最早なんの役に立つでしょう。綾や錦の美しい織模様も、あなたが生きておられればこそのものでしたのに。

【語釈】◇うつせみの ウツセミは蝉の抜け殻。また、はかないものの喩え。「うつせみの」は「世」「人」などに掛かる枕詞として万葉集以来用いられたが、この歌では「から(骸)」を導くはらたきをし、送られて来た夫の亡骸を暗示している。◇唐織衣(からをりごろも) 多彩な浮文様を織り出した絹の着物。

【補記】慶応元年(1865)長州征討のため家茂が江戸を発つ時、和宮は凱旋の際の土産として西陣織の衣を所望したが、家茂は大阪で発病し、翌年死去した。夫の遺骸と共に西陣の織物が贈られて来たのを見、悲嘆して詠んだ歌と伝わる。上句「着るとても甲斐なかりけり唐衣」とする本も。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年02月11日