源等 みなもとのひとし 元慶四〜天暦五(880-951)

嵯峨源氏。中納言希の二男(公卿補任)。
醍醐天皇の昌泰二年(899)、近江権少掾。同四年、主殿助。延喜四年(904)、従五位下。以後、大蔵少輔・三河守・丹波守・内匠頭・左中弁・主殿頭などを経て、延長八年(930)、従四位下。さらに大宰大弐・山城守・勘解由長官などを歴任し、天慶六年(943)、従四位上。右大弁を経て、天暦元年(947)、参議に就任する。天暦五年(951)正月、正四位下に昇叙された後上表して致仕。同年三月、卒去した。七十二歳。
勅撰入集は後撰集の四首のみ。

人のもとにつかはしける

東路(あづまぢ)の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなき(後撰619)

【通釈】東国の佐野の舟橋を架け渡す――その「かけ」ではないが、思いをかけてずっと恋し続けていることを知ってくれる人がいないことよ。

【語釈】◇佐野の舟橋 群馬県高崎市、烏川の橋。万葉集の東歌(下記参考歌)により歌枕となった。「舟橋」とは、多くの船を並べ、その上に板を渡して橋としたもの。◇かけて 「(橋を)架けて」「(思いを)かけて」の掛詞。

【補記】上二句は「かけて」を言い出す序詞。「かけ」「わたる」は橋の縁語。

【他出】深養父集、近代秀歌、詠歌大概、定家八代抄、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆・定家撰)

【参考歌】作者不明「万葉集」巻十四
上毛野(かみつけの)佐野の舟橋とりはなし親はさくれどわはさかるがへ
  紀貫之「古今六帖」
東路の佐野の舟橋はじめより思ふ心ありいとひすな君

【主な派生歌】
恋ひわたる佐野の舟橋かけ絶えて人やりならぬ音をのみぞ泣く(藤原定家)
かけてのみ思ひぞわたるあづまぢや月すむ比のさのの舟橋(順徳院)

人につかはしける

浅茅生(あさぢふ)の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき(後撰577)

【通釈】浅茅の生えている野原の、篠竹の群落――その篠竹が茅(ちがや)の丈に余って隠れようがないように、忍んでも私の思いは余って、どうしてこうあなたが恋しいのでしょう。

【語釈】◇浅茅生(あさぢふ) 丈の低いチガヤ(イネ科の多年草)が一面に生えているところ。普通、人の手が入っていない荒れた草地を言う。◇小野 野。野原。「小(を)」はさして意味のない接頭辞。◇篠原 篠竹(細い竹の類)の群落。「原」は「三輪の檜原」(三輪山の檜林)、「庭の萩原」(庭の萩の繁み)などと同じ用法で、ある植物が群をなして生えている場所の意。◇あまりて 忍びあまって。思いを堪えきれずに。◇人 ここでは歌を贈った相手の恋人を指す。

【補記】上二句は「しの原」から同音を有する「しのぶ」を導く序詞。また篠竹が浅茅の丈に余ることから下句の「あまりて」とも響き合う、複合的な効果をもつ序詞となっている。

【他出】定家八代抄、近代秀歌(自筆本)、詠歌大概、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・定家撰)、時代不同歌合、百人一首、六華集

【本歌】よみ人しらず「古今集」
浅茅生の小野のしの原しのぶとも人知るらめやいふ人なしに

【主な派生詩歌】
霜うづむ小野の篠原しのぶとてしばしもおかぬ秋のかたみを(藤原定家)
夕暮は小野の篠原しのばれぬ秋来にけりとうづら鳴くなり(〃)
浅茅生の小野のしらつゆ袖のうへにあまる涙のふかさくらべよ(〃)
なほざりの小野の浅茅におく露も草葉にあまる秋の夕暮(〃[続後撰])
浅茅生の小野のしのはら霜枯れていづくを秋の形見とか見む(藤原俊成女)
浅茅生の小野の篠原なく虫の涙にあまる秋の夕露(藤原為理[続後拾遺])
浅茅生の小野の篠原風そよぎ人しるらめや秋たちぬとは(宗良親王[新葉])
夕されば玉ゐる蓮の広葉にもあまりてなどか露のこぼるる(木下長嘯子)
竹の子やあまりてなどか人の庭(大江丸)

題しらず

かげろふに見しばかりにや浜千鳥ゆくへもしらぬ恋にまどはむ(後撰654)

【通釈】陽炎のようにほのかに見たばっかりに、浜千鳥のように行方もわからない恋に私は迷うのだろうか。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
忘られむ時しのべとぞ浜千鳥ゆくへもしらぬ跡をとどめむ


公開日:平成12年08月11日
最終更新日:平成23年05月27日