要約してご紹介すると・・・

常盤新平氏が夫人同伴で天王洲アートスフィアへ「江分利満氏の優雅な生活」を見に行く。
途中でばったり原作者の山口瞳氏(故人)の夫人と子息にあい、一緒に昼食をとった後、いよいよ劇場に入っていく・・・

『劇場には若い女性が多い。みんなジェームス小野田のファンだと言う。なかには大きな花束を抱えた女性もいた。
彼女たちにこのミュージカルがわかるのか。「江分利満氏の優雅な生活」を僕が読んでから、34、5年もたっている。
僕の方はたちまちジェームス小野田の舞台にひきつけられてしまった。彼の飾らない一本調子の歌がよかった。「東京の屋根の下」や「 すみれの花咲く頃」などがジェームス小野田の素朴な歌で昭和30年代をよみがえらせていた。
かつて「江分利満氏」にしびれていた僕なんかは、ジェームス小野田が江分利満氏の台詞を言うたびに、胸にひびいた。しかし、若い人た ちには江分利満氏の言うことがわかるのかなとも思った。
ジェームス小野田はシルクハットをかぶり、タキシードを着て熱演である。江分利満氏より太目ではあるが、なかなかいい。
「バイヤ・コンディオス」と「チェンジング・パートナー」と「テネシー・ワルツ」をメドレーで歌ったところで僕は涙がとまらなかっ た。年甲斐もないことである。
しかし、舞台の上のジェームス小野田は江分利満氏である。山口瞳である。その山口瞳は1996年の8月末に逝ってしまった。そのと き、山口瞳のリードした昭和30年代も、40年代も、50年代もはるか遠くへいってしまった気がした。
いま、山口瞳の江分利満氏が舞台で戦争を語り、戦後を語っている。ジェームス小野田は山口瞳になりきっていた。
ジェームス小野田は昭和34年生まれ、38歳である。江分利満氏と同じ年齢だ。
ジェームス小野田の熱演に僕は惜しみなく拍手をおくった。もう一度、この舞台を観たいと思った。彼は江分利満氏のように「一所懸命」 である。

僕の30代から60代にかけて山口瞳で日々が過ぎていった。ジェームス小野田は舞台でブキッチョであることを嘆いていた。また、そ れでひらきなおってもいた。僕もブキッチョであるが、だから一所懸命だった山口瞳という作家にひかれていたのだ。』


前のページに戻る