19.科学と臨死体験

「体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである。」
立花隆


ヴィ:臨死体験は、死後の世界が存在することを示唆する強力な論拠となります。医学の蘇生技術が進歩するに連れ、死の淵から生還する人たちが日増しに増えてきました。彼らの多くが、肉体の外で生きて動作していた、強烈でとても深い意味を持つ体験を物語ります。臨死体験の証拠は一貫していて、圧倒的であり誰にでも理解できるものです。

 サイキックたちは、人は死にかけるか死が避けられない状況に遭遇すると、物質の体の複製―アストラルまたはエーテル体―が肉体から離れ、死後の世界の第一段階を経験すると言っています。そして死ななかった場合は、その体がまた肉体へと戻るのです。

O:だから、そんな肉体の複製の体などないと言ってるだろう。

ヴィ:この先、各種の研究を紹介していけば、教授もエーテル体の存在を認めますよ。

O:甘い! 私は絶対認めないぞ。

ヴィ:そう言っていられるのも、今のうちだけです。

 かなり早い時期にこの現象を研究し始めたのが、医者で哲学者でもあるレイモンド・ムーディー・ジュニア博士です。研究当初は懐疑的だった彼も、今は死後の生が実在することを完全に確信しています。博士は1975年の「Life After Life(かいまみた死後の世界)」を皮切りに、1983年と1988年に、この分野に近代的な調査方法を適用した古典的な本を3冊書いています。

 この1975年以降、たくさんの国で数多くの研究が始まり、その勢いは臨死に関する国際的な協会と雑誌を生み出すほどになりました。オーストラリアのチェリー・サザランドが著した素晴らしい本には、参考文献として150以上の厳選した学術調査報告のリストが載っています。

 ムーディーは150人の臨死体験報告の中に顕著な類似性を見いだしました。この類似性を元に、これらの報告に繰り返し出てくる15の異なった要素が識別されます。次に彼が組み立てた、そのすべての要素を含んでいる典型的な体験を示します;

「男が死にかけて、その肉体が完全にどうしようもなくなると、医者が死を宣告しているのが聞こえる。不快な騒音、大きなベルのような、ときにはブンブンうなるような音が聞こえ始め、長くて暗いトンネルを非常に急速に動いているのを感じる。その後、彼は肉体の外にいながらも、今までと同じ物質的な環境に自分がいるのを見いだし、離れたところからまるで見物人のように自分の肉体を眺める。この異常な視点から蘇生の試みを見守り、感情が大きく揺れ動く。

 少しすると落ち着きを取り戻し、奇妙な状況に慣れてくる。彼は、自分がいまだに体をもっているが、それは置き去ってきた肉体とは性質が異なり、非常に違った能力を持つことに気付く。すぐに他の事柄が起こり始める。他のものたちが、彼に手を貸すためにやってくるのだ。亡き親類と友人たちの霊をかいまみると、優しく温かい、前に一度も出会ったことがない類の存在−光の存在− が彼の前に現われる。この存在は言葉を使わずに、彼に自分の生涯を評価するように請い、人生の主要な出来事を走馬燈のように瞬間的に見せてくれる。

 ある時点で、彼は世俗的な生活と次の人生の境目を意味する、ある種の障壁に近づく。しかし、自分が死すべきときがまだ来ていなく、地球に戻らなければならないことに気付くと、彼は抵抗し始める。なぜならそこまでの経験で彼はすでに死後の世界を受け入れ、その快適さから戻ることを望まないからだ。愛と平和、喜びの激しい感覚が彼を圧倒する。その抵抗にも関わらず、結局彼はいつの間にか肉体と再び一緒になり生き始める。

 後にその体験を人に話そうとするのだが、なかなかうまく伝えられない。まず第一に、人間の言葉はこれらのとんでもない経験を表現するのには不適切なのだ。さらに周りの人達が自分を馬鹿にしているのに気付くと、彼はその体験を話すのをやめてしまう。それでも、この体験は彼の人生を、特に死に対する考え、そして生との関わりを根本的に変えてしまうのだ。」


 1980年に臨死体験の科学的研究を発表したケネス・リング博士が、ムーディー博士の発見を確証したところ、人々がこれらの段階を経験するのは確かだが、大多数は一番初めの段階を経験するだけであることがわかりました。

 その他の研究、1977年のカーリス・オシスとエルレンドゥ・ハラルドソン、1976年のマイケル・サボンとサラ・クロイツィゲル、1983年のエリザベス・キュブラー=ロス、1981年のクレイグ・ルンダールとブルース・グレイソン、1980年のイアン・スティーブンソンの研究、これらはすべてムーディーの記述が正しいことを確認しています。

O:それがどうしたの。死にかけた人たちが親類縁者や神の幻覚を見たって、全然不思議じゃないでしょ。

ヴィ:しかし、それに至るまでの体の外に出たような感覚はどうです?

 ジョージア州の心臓病専門医サボン博士は、かろうじて死から逃れた100人の患者にインタヴューしました。その中の61パーセントが、ムーディーによって1975年に発表されたタイプの古典的な臨死体験を報告しています。ここで驚くのは、生き返った患者の多くが、意識不明か、あるいは医学的には死んでいた間に手術室で起こった事柄について、素晴らしく専門的で詳細かつ正確な描写をしたことです。

O:それは単に、ERとかのドラマを見たりして知った緊急処置の手順について、想像を交えて語っただけだろう。

ヴィ:その説はこの調査結果で否定されます。サボン博士は、長期間心臓病を患いながらも臨死体験をしたことのないグループにインタヴューし、心臓発作で死にかけている患者を処置している医療チームを想像してもらい、彼らが行う蘇生処置を可能な限り詳しく、順を追って描写するように頼みました。その結果、実に80%が手順を間違ったのです。一方、体の外に出て自分の蘇生処置を見たと訴えるグループで、蘇生の手順を間違って伝えたものはいませんでした。教授、これはどうしてでしょう?

O:さあな。きっとそのサボン博士の調査がいいかげんだったんだろう。

ヴィ:臨死体験を調査する学者たちはどんどん増えていますから、教授がそんな風に逃げていられるのも今のうちだけでしょう。そもそもこの現象は人類に普遍の現象です。臨死体験を持つ人々は世界中に何千万人もいます。これは決して誇張しているわけではありません。

 1983年、ジョージ・ガラップ・ジュニアがアメリカで大々的に行った調査は、アメリカの成人人口の約5%にあたる800万人のアメリカ人がこの経験をしているのを明らかにしました。1989年にオーストラリアでアラン・ケレヒアとパトリック・ヘヴンが行った調査によれば、臨死体験をしたと訴える179人の人々の10%が、この体験の典型的な要素を少なくとも5つ経験しています。

 世界中のいたるところで行われている調査、例えばイギリスのマーゴ・グレイ(1985)、イタリアではパオラ・ジョヴェッティ(1982)、マレーシアのドロシー・カウンツ(1983)、インドのサトワント・パスリチャとイアン・スティーブンソン(1986)、その他の調査は、各地の臨死体験に信じがたいほどの類似性があることを明らかにしたのです。

 オーストラリアの研究者チャーリー・サザランドは、50人の臨死体験者に念入りなインタヴューをした結果、彼らの人生に起きた変化は首尾一貫したもので、薬や化学物質によって起きる幻覚効果とは非常に異なっていることに気付きました。彼女は他の研究報告、例えばリング(1980と1984)やアトウォーター(1988)によって実証された、多くの効果をあげています。


 メルヴィン・モース博士がアメリカで独自に調査をし、1992年に発表した研究によれば、臨死体験者は一般的な集団に比べて3倍もの、検証可能なサイキック現象を経験しています。

O:別にどれも不思議じゃないんじゃないか。一度死にかけた人間の意識が変わるのは当然なことだろう。通常の医学が信じられなくなって代替療法に意識が傾こうが、大上段に構えた世間的宗教が信じられなくなって個人的な信念にとって変わっても、生活態度がガラッと変わってしまっても、ぜーんぜん、不思議じゃないと思うんだが。

ヴィ:でも、サイキック現象を経験しやすくなるのはどうしてですか。

O:死にかけたことで脳の構造がちょっと変わって、微弱なテレパシー能力が芽生えたのかもしれん。私も今はテレパシーだけは認めてるからな。それにしてもヴィクター、臨死体験などくだらんよ。死にかけた者が幻影を見るからといってそれが何なんだ。霊的なとかいう言葉を言い出す前に、いくらでも他の説明ができるだろう。

ヴィ:例えば?

O:例えば、そうだな。危篤状態に近い患者にはケタミンとかモルヒネが与えられたりするだろう。これらの薬物が起こした幻覚とは考えられんか。

ヴィ:ムーディー博士がこの仮説を調査したところによれば、臨死体験者の多くはこれらの薬を与えられていませんでした。また、これらの薬物による幻覚は、本物の臨死体験のような内容と強烈さ、長期間に渡る重大な影響を生み出すことはなかったのです。

O:ならLSDはどうだ。あれなら臨死体験くらいの幻覚を生み出すだろう。

ヴィ:確かにR.K.シーゲルのような一部の研究者たちが、LSDなどの薬物による幻覚は臨死体験に似通っていると報告しています。しかし、先程も述べたとおり、実際にはそれらの薬物を投与されていないのに臨死体験をする人がほとんどなのです。またLSDと臨死体験のそれぞれが与える効果については、ムーディーその他の研究者が調査し、いくつかの明白な違いがあることを言っています。

O:そうか。でも考えてみれば、脳が死にかけたら幻影を見るってのは不思議なことなの。実は当たり前だったりしない? 脳の酸素が欠乏すると幻覚が現れるとか。人生の最後にあたって、今まで信じていたものを幻覚として見るとか。脳医学的、または心理学的に簡単に説明がつくような気がするんだが。

ヴィ:臨死体験は脳の酸素が欠乏したために見る幻覚という説は、生理学的にまだ損傷を受けていない、ときには身体的には全く問題がない者までが臨死体験をする事実によって却下されます。またサボン博士は、後述のフェンウィック博士も同様なことを言っていますが、本物の酸素欠乏の場合には「認知能力の混濁と混乱が進行し」、臨死体験者が報告する意識の明快さと拡張に比べると、全く正反対であることを指摘しています。

 臨死体験は文化的条件によって期待される映像、例えば日本の場合は三途の川とお花畑、このような情景を期待する心が、自分自身でその幻影を作り出し、それが基礎となって起きるのだという心理学的な主張があります。しかしながら、リング(1984)、サボン(1982)、グロッソ(1981)はみな、宗教心やそれに近い信念と臨死体験との間には、何の関連も相関関係もないことを発見しました。

 教授よりももっとずっと無茶なことを言っている人たちがいます。

O:なんだその、私よりも、という表現は。

ヴィ:例えば、ユーリ・ローエンタル(1981)のような心理学者たちが、何の証拠も提出せずに、臨死体験は「出生の記憶の追体験」だと訴えています。彼らの仮説は、一般にどうしようもない推測だとみなされています。

 心理学者クレッティとノエス(1981)は、臨死体験は「肉体が破壊される脅威に対する心理的な防護を意味する、離人症と空想逃避」を表していると主張しました。しかし、この説明もまた、離人症は通常15歳からと30歳の間に起こる病気で、40歳以上の人々に起きるのは事実上前代未聞であることを指摘するガバードとトゥエムロウ(1981)によって反論されました。

 他に、臨死体験は「autoscopic hallucination(訳注:珍しい精神病疾患。残念ながら日本語訳はわかりませんでした。とりあえず幻覚を見る病気であることは間違いないです。)」の一形式だとの提案もあります。しかしながら、サボン(1982)、そしてガバードとトゥエムロウ(1981)の両方が、この疾患と臨死体験の間にはたくさんの重要な違いがあり、これが全く信じ難い提案であることを述べています。

O:うーん。私は医学的なことはよくわからんが、神経生理学とかで説明がつかんのか。

ヴィ:もちろんそういう試みもあります。ムーディーは臨死体験者が走馬燈のように過去の体験を思い出す事実と、神経異常によって経験されるフラッシュバックとを比較検討してみました。その結果、この二者の間には根本的な違いがありました。フラッシュバックで思い出される出来事の順序はランダムで、発作の後には忘れてしまうのに対して、臨死体験に現れる典型的なものは、年代順に整理されていて、人生におけるハイライトである出来事が現れます。これらの記憶は同時に現れ、見た人に人生の目的を考えさせる「統合されたビジョン」をもたらすのです。

O:そんなことを言われても納得がいかん。だいたいムーディーの専門はなんだっけ? 医者で哲学者。いったい何の医者なんだ。神経生理学を知っとるのか。

ヴィ:そういうことならピーター・フェンウィック博士の話を紹介しましょう。彼はイギリスの王立精神病理大学特別会員であり、心と脳を媒介するものは何か、意識とは何かといった問題の専門家で、国際的な評判を持つ神経精神科医です。彼は病床における臨死体験の権威としてイギリスで認められ、国際臨死研究協会の会長を務めています。ケンブリッジで研鑽を積んだプロフェッショナルな科学者であるエリザベス夫人とともに、ピーター・フェンウィック博士は、臨死体験は死にかけた脳の生理学的効果によって起きるという、懐疑主義者と物質主義の心理学者達の主張を徹底的に調べました。

 臨死体験に対する反論として心理学者たちがあげる説は、脳の作用について彼らが非常に限られた知識しか持ち合わせていないことから生じているようです。心理学者たちは神経精神科医の理論と実践について、専門的な訓練を十分に深いところまでは受けていないので、ピーター・フェンウィック博士のように臨死体験の生理学について専門的な吟味をするには無理があります。心理学の専門的な講義には、生理学の非常に基本的な部分しか含まれていません。大学心理学の標準的な教科書を5冊ほど見てみると、そこに書かれている脳の機能は、生理学で学ぶ全体の5%にも満たないことがわかります。また、心理学者たちが手術を練習することはなく、脳手術という非常に高度な分野について彼らは何の訓練も受けません。

 間違いなく、フェンウィック博士のような立場にいる人は、臨死体験が死にかけた脳に起きている生理的変化によって説明できるかどうかを正しく判断できるだけの専門的な知識を備えているはずです。博士は、心理学者たちが自分たちの専門領域から飛び出して、彼らの頭にはない、理解できない、日頃の研究と関わりのない知識について冒険するとき、全くくだらない考えを書くと述べています。

 彼は懐疑主義者たちに対してとても痛烈な言葉を言っています;

「彼らは単に知識がないだけなのです・・・。臨死体験というものを毎日のように考える必要のない人々から、ばかげた説がたくさん持ちあがっています。私は絶対的な自信を持って、このような体験は酸素欠乏やエンドルフィンの類が原因で起きるのではないと言えます。これらは体験の多くに見られる超越的な内容、そのあまりに素晴らしい世界から現実に引き戻されたときに感じる取り返しのつかない永遠の喪失感、こういったものとは何の関わりも持ちません。」


O:ほー、つまり専門外の人たちは黙っていろということだな。

ヴィ:そういうことですね。

O:じゃ、君も黙っていた方がいいんじゃないか。

ヴィ:私は信頼できる人たちの意見を、理論立てて紹介しているだけです!

 神経精神科顧問医師として、頭が混乱した人、自分がわからなくなった人、脳に障害を持つような人々といつも接しながら、フェンウィック博士はこう指摘しています;

「とても明らかなのは、脳の機能がおかしくなれば、当然知覚も狂い、記憶も不確かになるということです。しっかりした構造を持つ明確な体験が、非常に損傷を受けた、または機能が狂っている脳から得られることは、通常はあり得ません。」


 彼はまた、エンドルフィン説にもこう反論しています;

「エンドルフィンについて言えば、その効果を促進するモルヒネを毎日のように与えられる人々が何千人といる中で、なぜ臨死体験が頻繁に起こらないのでしょう。それに、エンドルフィンは確かに静けさを作り出しますが、構造化された体験を作り出すことはありません。」


 教授、例えば次の一連の質問について考えてみてください。


O:お望みなら回答しよう。まず、こう考えてみなさいよ。100人の人間が雨に打たれ、その中の10人が風邪をひいた。この場合、確実に雨によって風邪が引き起こされたと思っていいな。ではどうして、すべての人が風邪をひかなかったのか。「臨死体験が死にかけた脳の効果によって起きるなら、死に行くすべての人々に起きるべきです。」と言っていたが、それなら私もこう言うよ。

「10人が雨のせいで風邪をひいたのなら、100人全員が風邪をひくべきだ。」


ヴィ:それは詭弁です。雨と風邪の関係において、雨は単なる引き金であって、実際にはそれによって体が冷えて衰弱したことによって風邪をひくのです。そしてこの例の場合、他の90人にはこの「体が冷えて衰弱する」ということが起きなかっただけです。その手のごまかし的な表現で、まわりを煙に巻くのはやめてください。

 フェンウィック博士と一緒に、300件以上の臨死体験調査に基づいた本「The Truth in the Light(光の中の真実)- 1996」を書いたエリザベス・フェンウィックは、これらの体験が皆、科学的に説明できると考え、彼女独自の調査を始めました。しかし、調査後に彼女はこう結論したのです;

「ごく一部の臨死体験について科学的理由が見いだされるかもしれませんが、すべての体験を網羅するような説明は、私にはとても見つけられません。臨死体験の説明を求めるのなら、それはあなた自身でやらなければなりません。なぜなら懐疑論者の一団は・・・、そういったことを全くしないのです。純粋に身体的な面からでは説明できません・・・(懐疑論者たちは)臨死体験の広がりをあまりにも過小評価しています。この体験はでたらめな出来事の積み重ねではなく、非常に組織化された、綿密な出来事なのです。」


 この意見は、蘇生施術なしでは亡くなったであろう345件の臨床例を研究した、オランダの心臓病専門医ウィリアム・ヴァン・ロンメル博士とそのチームが発表した、臨死体験に関する新しい報告によって支持されています。その報告では10%が実質的な臨死体験を思い出し、8%がそれらしきものを訴えたとあります。この患者たちは、病状においては同じほど深刻でありながら臨死体験を持っていない、管理されたグループと比較されました。ヴァン・ロンメル博士によれば(1995);

「我々を最も驚かせた発見は、臨死体験が肉体的、医学的根拠を持たないことだ。結局のところ、100%の患者が酸素欠乏に苦しみ、100%がモルヒネのような薬物を与えられ、100%が深刻なストレスに冒された事実は、18%の患者が臨死体験を持ち82%に何もなかったということの説明を与えない。もしこれらの要因が関わっているのなら、すべての人が臨死体験をしただろう。」


 カナダの精神科医であるイボンヌ・カソンは、彼女の患者たちで、死にかけていないのに臨死体験のようなものを経験した人々がいるのを見いだしました。その中には自分が死んでしまうと思った人、瞑想をしていた人々が含まれています。

O:結局のところ、臨死体験には医学的根拠がなく、全く心理的なものだということなんだな。要するに、すべてが想像の産物なんだ。

ヴィ:臨死体験が心理的なものだというところまでは確かにそうです。となると、なぜ100人いれば十人十色の全く異なった体験にならないのでしょう。

O:それは人類普遍の記憶のようなものが関係しているんだろう。心の奥底にある共通認識が核になって、それに想像が混じるから、臨死体験は多様でありながらも何らかの共通性を持っている、とこうなる。なんだ、すべて説明できたじゃないか。

ヴィ:「臨死体験の後にしばしば見られるサイキック能力、サイキック体験の統計的にめざましい増加」はどうなるのでしょう? それに臨死体験中の体外離脱現象は?

O:まっ、それもおいおい、テレパシーを含む脳の機能で説明できるだろう。とにかく、臨死体験なんてものがあるからといって死後の世界があると思ってしまう神経は、私には理解できないな。

ヴィ:どうも、教授にはその手の神経が、初めから一本抜けているようですね。

O:正常な人間はそんな神経を持っとらんのだよ!

弁護士の論じる死後の世界


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